熱き心で oxooo 2011年05月01日(日) 20:25:34
暮しは分が大事です
気楽が何より薬です
そねむ心は自分より
以外のものは傷つけぬ
(これは「堀口大学」の座右の銘)
判っているから大丈夫ってことにならない。
それが人の世の面白いところなのでしょう。
ヤメロと止められたら反発する人間もいる。
チャンスと言われても行かない人間もいる。
欲を掻かず、自由な心で、世界を愛したい。
世界と言っても恋人のいない世界ではなく、
支え合いながら熱い心で歩いていきたいな。
コンセプト oxooo 2011年05月01日(日) 19:40:50
このサイトはどういう所なの?
ともかく経験してないことを人は理解のしようがない、
私は普段から、こんな風に考えるように努めています。
きっと境涯によって見えるモノはそれぞれ違うと思う、
日本人の場合、西洋の人と違って境涯は様々だと思う。
家族でも一人ひとりの境涯は大きく異なってると思う、
そうなるのは私たちの社会は差別が大きいのだと思う、
だから日本人はバラバラでまとまるのが苦手なのかも、
もっとも心が繋がってたら人を粗末にできる訳ないし、
人並みの想いやりだって持てるようになれるのだけど、
自分が生きるだけで精一杯の社会なんだし、文化だし、
西洋育ちであれば当たりまえかもしれないことだけど、
だけど私は日本に育ち、日本文化に染まった身なのね。
日本人の感覚が身についた身ゆえの四苦八苦なのです。
自由であらねばならない、囚われてはならないと思う。
人間って、他の誰が捕えなくても、我で我を捉えます。
ちょっとでも気を抜くと、たちまち襲いかかってくる。
詩人は自由な魂なんて言ってても、口先ばっかりなの。
捕まらないように初めのころは紙に書いて持ってたよ。
そのうち、身体が憶えるから、そうなったらもう安心♪
そうして何年も経つと感覚化し血肉化して文化になる、
西洋の人だとコンセプトも文化になってるんだと思う。
コンセプトって言っても、人それぞれに意味は異なる、
そんな訳だから、コンセプトの意味も理解されにくい、
だけど言ったように、習慣化できるのが人間の強みで、
ハウツーを憶えることでコンセプトの甘味を覚えたり、
手近な仮目標を達成することでコンセプトに近づける。
人間って愚かで横着で我がままだけど、何とかなるさ、
自分だけは分ってるつもりで、じつは何も分ってない、
経験してないことは分らないのだと、分ってあげよう、
ほんとうは死ぬよりツライ思いなど、して欲しくない。
身から出た錆を見て、初めて錆びるってことも感じる、
だからそれまでは人に対して鬼以上の酷いこともする、
1足す1は2になり、2掛ける3は6になるってこと、
それを逃れる術はない、良い意味で嬉しいことだけど。
嗅ぎ聴いて味わい触れて共感できる幸せは人間のもの、
視覚をわざと抜いたのは、視覚に偏らない意味がある、
僅かばかりの所有に心を奪われることのないようにと、
だけどこれが実にじつに難しい所業でありましょうね。
人は余りにも、目に見える世界に捉われて仕舞います、
ことに先進国文明ほど、心を囚われ奪われて誤ります、
その結果、見ていても見えていず、ババを掴んでます、
欲深の目でいったい何を見ているやら、そう思います。
フランス語はむずかしい oxooo 2010年09月06日(月) 00:32:44
これはgoogle検索の問題でしょうか?
同じように見える文章、だけど意味は異なる。どこが違うか判りますか?
plus la conversation. → より多くの会話。
Plus la conversation. → その他の会話。
空腹、飢餓、ハングリー、ハンガー、飢えた、の違いは構わない、
それにしても、フランス語では区別しているのでしょうね…?
Avoir faim. → ハングリー。
avoir faim. → 空腹。
Avoir faim → ハンガー
avoir faim → 飢餓
Hungry. → ハングリー。
hungry. → 空腹。
Hungry → 飢えた
hungry → 飢えた
それにしても、「.」(読点) を打つか打たないかで意味が変わるフランス語。英語にはない文法(約束事)でしょうか…?
mon favori. → 僕のお気に入りだ。
mon favori → 私のお気に入り
御あいさつ oxooo 2010年09月05日(日) 23:35:43
【散文詩/現代詩】へ、ようこそ、いらっしゃいました。
トップページには、このHPの運営の基本的な考えを述べています。
散文詩は現代詩が好ましいと【散文詩/現代詩】は考えますけど、
どこまでが現代かと問われたら言葉がつうじる範囲を現代とする、
とは言っても、国語辞典の言葉程度を知らなくては困るでしょう。
このHP【散文詩/現代詩】では散文詩を具体的に定義づけします、
作者が散文詩と宣言しなかったら散文詩にならないのでしょうか、
そんなことはありません。誰かが否定しても散文詩は散文詩です、
私は作文・日記・手紙・随筆等を日常用いる文体で書いています。
結局、その時代・社会に広く支持・理解されるには散文体が好い、
しかも、散文は現代語で書くほうが読みやすく・理解されやすい、
それゆえ散文詩はどんな文体が便利かと考えた時、現代語になる、
現代語の散文で、あなたの思いのたけを自由な感性で詠って好い。
散文詩ってなに?
そう問われて、散文詩を解かりやすく説明できる人は沢山いない、
ネット検索してみても、散文と散文詩の違いが解らない人は多い、
散文詩を解りやすく説明している著名な詩人のコーナーも少ない、
そうなのです、著名な詩人が散文詩を十分に説明し切れていない。
ボードレールの翻訳本のほとんどは、昔の言葉で書かれています、
含蓄はあっても難しい本は私が理想とする散文詩ではありません、
研究者には意味のある本も、一般人には高嶺の雪で体感できない、
そんなこんなを明るい光の下に明らめていきたいと思っています。
◎皆様のまじめなご意見は無視しないのも管理人のポリシーです。
(余談になりますが)
それにしても詩に親しまない人が古典に親しむことは滅多にない。
古典に奥の深い読み物があるのを知れば古文法に通じたくもなり、
歴史文学者が古典を研究するには古文法に通じなければならない。
日本の良い文化と美しい言葉を俳句で身につけることも可能です。
詩への入り口として、散文詩以外に俳句も良いかなと思っていて、
小学低学年の児童が五七五の文章をつくる意味は大きいでしょう、
高学年ともなれば、かなりなボキャブラリーを憶えることになる、
好きな子には歴史的仮名遣いの世界に入っていく道が開けている。
「仮名遣」も「かなづかひ」も、遣い難くて困ってしまう私です、
私は俳句につかう文字に関して「歴史的仮名遣い」を優先したい、
これはあくまでも「優先したい」のであって、絶対条件ではない、
絶対条件にすると現実生活との齟齬が大きすぎて難儀してしまう。
動植物の生き方は太陰暦に合せた歳時記に歴然と見えるわけだし、
日本人が生きる基盤にした稲作などの農耕は歳時記と呼吸が合う、
歴史的仮名遣いには農耕民族日本の文化が詰め込まれている事実、
農耕民族には太陰暦がやさしく暮らしやすい文化であるようです。
作文や日記を書くのに苦しめられた私の経験が言わせるのですが、
五七五の十七文字で済んで、大いに魅力を感じた記憶もあります。
暮しは分が大事です
気楽が何より薬です
そねむ心は自分より
以外のものは傷つけぬ
(これは「堀口大学」の座右の銘)
判っているから大丈夫ってことにならない。
それが人の世の面白いところなのでしょう。
ヤメロと止められたら反発する人間もいる。
チャンスと言われても行かない人間もいる。
欲を掻かず、自由な心で、世界を愛したい。
世界と言っても恋人のいない世界ではなく、
支え合いながら熱い心で歩いていきたいな。
コンセプト oxooo 2011年05月01日(日) 19:40:50
このサイトはどういう所なの?
ともかく経験してないことを人は理解のしようがない、
私は普段から、こんな風に考えるように努めています。
きっと境涯によって見えるモノはそれぞれ違うと思う、
日本人の場合、西洋の人と違って境涯は様々だと思う。
家族でも一人ひとりの境涯は大きく異なってると思う、
そうなるのは私たちの社会は差別が大きいのだと思う、
だから日本人はバラバラでまとまるのが苦手なのかも、
もっとも心が繋がってたら人を粗末にできる訳ないし、
人並みの想いやりだって持てるようになれるのだけど、
自分が生きるだけで精一杯の社会なんだし、文化だし、
西洋育ちであれば当たりまえかもしれないことだけど、
だけど私は日本に育ち、日本文化に染まった身なのね。
日本人の感覚が身についた身ゆえの四苦八苦なのです。
自由であらねばならない、囚われてはならないと思う。
人間って、他の誰が捕えなくても、我で我を捉えます。
ちょっとでも気を抜くと、たちまち襲いかかってくる。
詩人は自由な魂なんて言ってても、口先ばっかりなの。
捕まらないように初めのころは紙に書いて持ってたよ。
そのうち、身体が憶えるから、そうなったらもう安心♪
そうして何年も経つと感覚化し血肉化して文化になる、
西洋の人だとコンセプトも文化になってるんだと思う。
コンセプトって言っても、人それぞれに意味は異なる、
そんな訳だから、コンセプトの意味も理解されにくい、
だけど言ったように、習慣化できるのが人間の強みで、
ハウツーを憶えることでコンセプトの甘味を覚えたり、
手近な仮目標を達成することでコンセプトに近づける。
人間って愚かで横着で我がままだけど、何とかなるさ、
自分だけは分ってるつもりで、じつは何も分ってない、
経験してないことは分らないのだと、分ってあげよう、
ほんとうは死ぬよりツライ思いなど、して欲しくない。
身から出た錆を見て、初めて錆びるってことも感じる、
だからそれまでは人に対して鬼以上の酷いこともする、
1足す1は2になり、2掛ける3は6になるってこと、
それを逃れる術はない、良い意味で嬉しいことだけど。
嗅ぎ聴いて味わい触れて共感できる幸せは人間のもの、
視覚をわざと抜いたのは、視覚に偏らない意味がある、
僅かばかりの所有に心を奪われることのないようにと、
だけどこれが実にじつに難しい所業でありましょうね。
人は余りにも、目に見える世界に捉われて仕舞います、
ことに先進国文明ほど、心を囚われ奪われて誤ります、
その結果、見ていても見えていず、ババを掴んでます、
欲深の目でいったい何を見ているやら、そう思います。
フランス語はむずかしい oxooo 2010年09月06日(月) 00:32:44
これはgoogle検索の問題でしょうか?
同じように見える文章、だけど意味は異なる。どこが違うか判りますか?
plus la conversation. → より多くの会話。
Plus la conversation. → その他の会話。
空腹、飢餓、ハングリー、ハンガー、飢えた、の違いは構わない、
それにしても、フランス語では区別しているのでしょうね…?
Avoir faim. → ハングリー。
avoir faim. → 空腹。
Avoir faim → ハンガー
avoir faim → 飢餓
Hungry. → ハングリー。
hungry. → 空腹。
Hungry → 飢えた
hungry → 飢えた
それにしても、「.」(読点) を打つか打たないかで意味が変わるフランス語。英語にはない文法(約束事)でしょうか…?
mon favori. → 僕のお気に入りだ。
mon favori → 私のお気に入り
御あいさつ oxooo 2010年09月05日(日) 23:35:43
【散文詩/現代詩】へ、ようこそ、いらっしゃいました。
トップページには、このHPの運営の基本的な考えを述べています。
散文詩は現代詩が好ましいと【散文詩/現代詩】は考えますけど、
どこまでが現代かと問われたら言葉がつうじる範囲を現代とする、
とは言っても、国語辞典の言葉程度を知らなくては困るでしょう。
このHP【散文詩/現代詩】では散文詩を具体的に定義づけします、
作者が散文詩と宣言しなかったら散文詩にならないのでしょうか、
そんなことはありません。誰かが否定しても散文詩は散文詩です、
私は作文・日記・手紙・随筆等を日常用いる文体で書いています。
結局、その時代・社会に広く支持・理解されるには散文体が好い、
しかも、散文は現代語で書くほうが読みやすく・理解されやすい、
それゆえ散文詩はどんな文体が便利かと考えた時、現代語になる、
現代語の散文で、あなたの思いのたけを自由な感性で詠って好い。
散文詩ってなに?
そう問われて、散文詩を解かりやすく説明できる人は沢山いない、
ネット検索してみても、散文と散文詩の違いが解らない人は多い、
散文詩を解りやすく説明している著名な詩人のコーナーも少ない、
そうなのです、著名な詩人が散文詩を十分に説明し切れていない。
ボードレールの翻訳本のほとんどは、昔の言葉で書かれています、
含蓄はあっても難しい本は私が理想とする散文詩ではありません、
研究者には意味のある本も、一般人には高嶺の雪で体感できない、
そんなこんなを明るい光の下に明らめていきたいと思っています。
◎皆様のまじめなご意見は無視しないのも管理人のポリシーです。
(余談になりますが)
それにしても詩に親しまない人が古典に親しむことは滅多にない。
古典に奥の深い読み物があるのを知れば古文法に通じたくもなり、
歴史文学者が古典を研究するには古文法に通じなければならない。
日本の良い文化と美しい言葉を俳句で身につけることも可能です。
詩への入り口として、散文詩以外に俳句も良いかなと思っていて、
小学低学年の児童が五七五の文章をつくる意味は大きいでしょう、
高学年ともなれば、かなりなボキャブラリーを憶えることになる、
好きな子には歴史的仮名遣いの世界に入っていく道が開けている。
「仮名遣」も「かなづかひ」も、遣い難くて困ってしまう私です、
私は俳句につかう文字に関して「歴史的仮名遣い」を優先したい、
これはあくまでも「優先したい」のであって、絶対条件ではない、
絶対条件にすると現実生活との齟齬が大きすぎて難儀してしまう。
動植物の生き方は太陰暦に合せた歳時記に歴然と見えるわけだし、
日本人が生きる基盤にした稲作などの農耕は歳時記と呼吸が合う、
歴史的仮名遣いには農耕民族日本の文化が詰め込まれている事実、
農耕民族には太陰暦がやさしく暮らしやすい文化であるようです。
作文や日記を書くのに苦しめられた私の経験が言わせるのですが、
五七五の十七文字で済んで、大いに魅力を感じた記憶もあります。