高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり
仁徳天皇は立ち昇る煙に、食事する民を想って安らぎました。
あらゆる物の見えかたは立ち位置でまったく異なりますよね。
青空に浮かぶ白い雲を富士山に登って見たら、眼下に流れる、
空を流れる白い雲ひとつにも、人の心はいろいろに感じます、
宮澤賢治の「家長制度」には宮澤賢治の見た世界が著れるし、
この女性に憐みを感じる人のヤルセナイ気持は私にも解るし、
息子たちの立場に共感する人たちが見てるものは私にも解る、
一家の主に共感する人たちが大勢いても勿論不思議ではない、
政治家・高級官僚は苦しむ民を想って何をすべきでしょうか?
家長制度の社会で私たちはどの位置に立てば良いでしょうか?
家長制度の社会でトップに立つ人々は何をすべきでしょうか?
トップのあなた・トップの私…何をしたら良いのでしょうか?
見方・捉え方によって人の心は幸不幸に別れ、正邪に別れる。
家長制度に従うときは、独裁主義思想に堕し、人を苦しめる。
家長制度を突詰めて捉えるときには、民主主義思想にもなる。
そう考えるとき強ち家長制度は邪悪と言えず、救いが見える。
そうすると、賢治の短編「家長制度」にも明るい光が見える。
あなたにはこの一家の主がどれだけ幸せに見えたでしょうか、
一家の家族に生れた息子がどれだけ幸せに見えたでしょうか、
虐げられる女性と己とを比べるしか知らなければ…不幸です。
真の幸せを知らない人はいつも他者と己を比べて…溜息吐く。
俺のほうが多いと知っては鼻高々で有頂天になり…得意がる。
俺のほうが貧しいと知ると意気消沈して悲嘆して…僻んでる。
いつも他者と比較して、相対的に比較して…それは貧しい心。
貧しい心は権力や財力を持ってしても癒されることなどなく、
敬われたい、得意がりたい、あげくに嫉妬をくり返す心にて、
充実することのない日々から決して逃れることは出来ないし、
そのように貧しい心の人の伴侶も家族も…それゆえ不幸です。
人を仲間と思わないゆえに、決して心を許し開くことはなく、
猜疑心を絶えず働かせて人生を楽しむゆとりが有る筈もない。
それゆえに従業員や息子までも抑えつけて意のままにしたい。
痛くない腹をさぐられたくなくて、息子たちも息をひそめる。
短編の登場者たちの動きは広汎性発達障害者のものでしょう。
それどころかその原因になっている主も健康体には見えない。
凡ての人を価値的に考えられない状況にまで追いこんでいく。
しかも冷静な筆者までもが「身も世もなく」追込まれている。
世界でも有数の富裕国といわれる国の…これが実態なのです。
国民の殆んどが精神を病んでお金を貯め込んでも、惨めです。
お金を持っていても使えない、使い方を知らない…お金持ち。
人間を見ないで、詰らない一生の果てに人間の敵として死ぬ。
私は宮澤賢治の「家長制度」にそんなことを考えさせられる。
これは家長制度が悪いから不幸になると言うのとは違います。
凡ての人が責任者の自覚に立てば、誰も制度に振回されない。
すなわち、制度を替えただけで社会が良くなるものではない。
こう解ってみると「すべての責任は私にある」となるのです…
しかもそれで生きているのが楽しくなりますから、素敵です。