カテ「宗教・哲学・思想」を「散文詩・随想」に統合して「詩心」とすることにした。それで新しいジャンルは「文化」だ。宗教も哲学も思想も根源は心に発しているが、健康を願い・祈るのは詩心だよね。この詩心が弱ると人はついパワーに訴えるのではないか? 詩心が弱い宗教は必ず外的圧力を人に加えようと考える。詩心が弱い哲学は理屈に流されて堕落して人生を嘆くようだ。 詩心が弱った思想は人間を信じる力を失うから悪い人間は裁かれて当然と想いたがる。それなら詩心を鍛えずに他者と仲よくできるだろうか? いえいえ、これは他でもない、あなたと私のことを念頭に置いているのです。
詩心が衰えると嘆き節とか呪い節・憎悪節を言葉に綴って「詩」というか知れない。「言葉即詩」であれば確かにどんな言葉も詩といえる訳で、それなら狼の遠吠えをも詩と言わなければならない。鼠のチューチューも詩と言わなければならなくなる。そこには詩というジャンルを殊更に設ける意味も失われているではないか。詩人を気取りたくて、つまり己を他者に評価してもらいたくて外面を好く見せたくて飾りをぶら下げる感覚だ。その心は誰かに認められたい認められたいという飢えた心に占領されていて社会を明るくしたいという詩人の心は牢獄に押込められてしまって陽の目を観ることはない。
さて詩心が弱っている人は害悪を為す言動に陥るということはこれで当然の成り行きとお分かりになるだろう。政治家も法曹も教育者も事業家も自称詩人もですが‥詩心が弱ったとき人は誰でも社会に害悪を為す。しかも権力を持った者ほど社会への影響力は大きいからその害悪で塗炭の苦しみ喘ぐ人は国中に溢れるのであり、詩心が弱った民衆は何の解決策を持つこともなく誰かを憎み呪い裁いて己の不幸感を払拭しようとするらしいことは現実の社会を観れば納得するしかなく、しかしそんな浅ましい己を直視するのは耐えられなくて己をたしなめる善人をも憎み呪ってやり過ごそうとすることになる。
裁きは人の心に始まってその実現を外的パワーに依ろうとするとき即ち・独善の始まり。国権に依ろうとする者・宗教に依ろうとする者・社会の風潮に依ろうとする者など独善の現われ方は異なっても人を裁いて不幸にしたいという歪んだ心根に違いはなくて、これが独善でなければ人の幸せを願って社会に温もりをもたらすだろうが、憎悪の心を隠し持っては幾ら善人ぶって笑っていても社会にも人にも害悪を為していると結論づけるしかないのだが、彼らには詩心すなわち対話の能力が衰えている訳で、これはやはり彼らの詩心を養わなければ永遠に闇をさ迷うしかないのではなかろうか‥なのです。
なにを言われても劣等感を刺激される境涯に陥るとベンチャラだけを待ち望む、そこにツケいるのは邪悪であり、結局邪悪の言葉を悦ぶわけで、それならどうして改善される余地があるだろうか。いやいや、これはやっぱり詩心を養い育まなければ彼らが可哀相。お分かりだろうか‥神が裁くと云う人は既に裁く心に乗っ取られていることを。そしてご存じだろうか‥邪悪は弱い心を・弱い心をと攻め入ってくることを。弱い心を鍛えたいなら己の心に邪悪を喜ばせる餌を忍ばせていてはならない。そしてそして論理的に考えるためにも論理を大切にしなければならないと、私はそう思うのです。
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