サロン・風変わりな人材開発の宴 

人の育成について、色々な視点から書いていきます。これは、体験記であると同時に、次の人材開発施策に対するトライアルです。

「一年の計は元旦にあり」?

2017年01月02日 21時43分15秒 | 日記
新年なので、新年らしい話題を。多少気楽な内容で。

 「一年の計は元旦にあり」と言われています。一方で、「初夢は元旦の夜に寝て見る夢」だったと思います。要するに、日本の場合、どのくらいの古来かわかりませんが、昔から「計画」の次に「夢」が来る。

 通常、「夢」があって「計画」が作られるのですが、日本の年始の言葉を見ると、どうも順番が逆のようですね。むろん、それが間違っているとか、そういうことではないのですが。

 P(計画)D(実行)C(検証)A(是正)をぐるぐると展開することは大事で、このとき、Pに重きを置くのが重要と言われてきましたが、本当なんだろうか。計画の完璧性を狙うと、タイムレースの今日負けてしまうことも。。。。

 あるソフトウェアは、UPDATE版を次々と繰り出してくる。これは、色々な意味があると思いますが、当初の計画だけでは不充分だから。計
画は重要です。しかし、タイミングを逸するような計画は、どうなんでしょう。

 これ、言うは易いが、なかなかできるものではないですね。マジメ、堅実な人が計画を練ると、「石橋を叩いてわたる」になります。しかし、本人が「石橋を叩いた」つもりでも、思わぬところにヌケ・モレが出てくるのが今日のビジネス。つくづく、難しい時代。。。

やはり、ビジネスには、最初に「夢」があるといいですね。


ステークホールダー(利害関係者)の特定は、範囲外の人も含めて考えて(2)

2016年12月31日 21時00分04秒 | 日記
「ステークホールダー(利害関係者)の特定は、範囲外の人も含めて考えて」の続編です。

関係が明らかになったからといって、ステークホルダーが完成したことにはなりません。ステークホルダーは一定ではないのです。

時間の経過とともに、新たなステークホルダーが現れたりします。それは、向こうからやってくるとは限りません。こちらから探しに行って見つけ、関係性を構築する場合もあります。

同時に、消滅するステーホルダーもいます。それは、むこうから去っていく場合もあれば、こちらから手を切る場合もあります。

また、一度確立した関係性は、各々の距離と関係性の濃淡を考えなければなりません。
距離が近いから関係性が濃いということではなく、遠いから薄いというわけでもありません。その時の状況次第です。

どうでしょう。ステークホルダーって難しいですか。柔軟な構造を持つ、網の目のような糸で結ばれたシステムのようなものだと思います。


このブログを読んで頂く方で、年末の方もいるかと思います。年明けの人もいるかと思います。
「良いお年を」と「あけましておめでとうございます」の2つを同時に述べさせていただきます。

ステークホールダー(利害関係者)の特定は、範囲外の人も含めて考えて(1)

2016年12月30日 20時27分27秒 | 日記



 人は、仕事をするとき、関係部門、関係者のことを考えて進めます。それは当然です。さて、このときの「関係部門」「関係者」の「関係」とは何でしょうか。案外、前工程や次工程、社内各部門、そして顧客や競合も関係者、つまりステークホルダーとして入りますよね。

 ステーホルダーを考える時、どうしても「自分の関係者」で見てしまいます。それは、クローズしたステークホルダー。すると、あるときどこか抜けていることに気づく。情報の共有が進まないのは、実は関係者の範囲が狭いからです。

ステークホルダーは誰かを考える時、「『全体』とは何か」から考えます。その場合、最初は、その「全体」が無限に広がり、考えるのも面倒ですが、ヌケ・モレがあるよりよいです。どうしても、ひとりで考えるとヌケ・モレは発生します。

その際、「ほぼ無視してよい」「関係性は浅い」「関係性が濃い」等で考え、絞っていけばよいですね。

若い人が「部長や課長になりたくない」という。言いたくないけれど、誰のせい?

2016年12月29日 21時24分34秒 | 日記




若い人が「部長や課長になりたくない」という。それを聞いて、「覇気がない」とか、「部課長がだらしがないから」と言うことをいろいろなところで聞きます。多くの会社でその傾向がありますね。

人のせいにする言い方はよくないのですが、これって誰のせい? 若い人のせいではないでしょう。では、部課長? 分かる気もするけど、若手がいない部課長は若手の分まで仕事しているし、大変そう。

仕事の質。今の経営者が若い頃より今の方が難しい。経営者って、ちなみに今いくつ? 上場企業だったら60歳以上でなんでしょう。だいたいこの世代の人は、その後の大量採用時代の人を部下に持っていたから。人が大勢いますよね。大企業だと優秀な人も取れるしね。御神輿とかいうのは失礼かと思います。バブル崩壊、IT不況を乗り超えてこられたのでしょうから。

部下が大勢いる組織の経験値で経営者になった人に限って、「今の部課長はなにやってんだ」と言うらしいてすね。

部下がいない、または部下が少ない部課長という構造を作ったのはどなたでしょう。経営者ではないですか。もっとも「歴代の、」とつけないと失礼ですが。そのときの業績のため採用を抑制した結果でしょう。むろん、若手が弱い、部課長が今一つという声はあるというもわかっております。それぞれに改善点はあります。

ひとつ提案があります。

一度、現場の人と一緒に仕事してみたらどうでしょう。経営幹部の『現場武者修行』をご推薦致します。新たなモノの見方、人の見方ができるかもしれませんね。「事件は会議室で起きているのではない。現場だ」と。

「立場が人を作る」は本当か。

2016年12月27日 22時01分40秒 | 日記


 五輪で活躍した何人かの人がプロに転向した。プロになることは構わないが、所属している組織では何か難しいものかがあるのだろう。しかし、リスクはある。プロはすべて自己責任。支えてくる母体も自分で探さなければならないと聞く。


 会社員が錯覚しているのは肩書だ。年末になるといくつもの会社が挨拶に来る。受けた方は、自分もここまで来たかと思う。でも、それは肩書きであって実力ではない。むろん、社内的には力があったといえるかもしれないが。

「あいつが課長?」と思って驚く、呆れる。そんな場面はよく見る。たが、確かにこれまでの時代はその見方はある程度当たっていた。今は。冷静に見て、経験値で判断すべき事項はそれで可。だんだん、その比率が下がるというより邪魔になっている。40代以上の人たちの並みの経験値は特に。


 戦争で負ける時、実は負けた方は、はるか前に負けを悟ると聞いたことがある。太平洋戦争において山本五十六が語った「1年や1年半は暴れてみせるが」という言葉は、実はやる前から勝てる気がしなかったということ。連合艦隊司令長官というポストは「負け=自刃」の覚悟がいる。山本はその覚悟はあった。山本は、経験値で冷静に判断するところまでは出き過ぎの長官。

 敗軍を背負う長はつらい。負ければ悪く言われる。
 
 立場は人を作るのか。言い換えれば、今の企業社会で、立場はその時代にふさわしいリーダを作っていると言えるのだろうか。

 

日本型リーダーの良さは否定しないが、もはやその神通力に陰りがある。

2016年12月26日 23時41分48秒 | 日記


ある記事で読みました。外国人から見た日本の会社の変な習慣 =「稟議」「根回し」。。。まだまだあるらしいのですが。
その記事ではこんなことも書いてありました。稟議における無責任、上司の指示によって動く考えない体質、根回しによる時間の浪費。そして、依然として求められる協調性。

すべて耳の痛い話し。
しかし、それをすべて否定したらどうなるか。飛ばされるか、干されるか、無視されるか。そう考えるのがこれまでの日本人の考え方。

「それで勝てるか、日本企業」と言われて、自分は回答ができません。それで来たから。

優秀な人はいます。しかし、その人たちも、この空気に浸っているうちに、コメンテーターくらいにしかなっていない。

幕末、一番人材がいたのは幕府と言われています。但し、その人材は中堅クラス。彼らは巨大な官僚制の中で力は発揮できたか。維新後、能力ある旧幕臣が明治政府に起用され、倒幕に貢献した下級武士たちが地位を得られず、反政府運動に身を投じる。リーダー次第。

日本型リーダーの良さは否定しないが、もはやその神通力に陰りがある。
よく、明治維新以来の時代というのはあながち「うそ」でもなさそうな。


 


「嫌だ嫌だ」の苦しみに耐えるより、「嫌だが何とかする」という苦しみに挑まない限り、「折れない心」を構築できないかも。但し、、、。

2016年12月24日 10時36分07秒 | 日記
「折れない心」 これがこんなに難しい言葉とは思いませんでした。世代論で語るのは好きではないのですが、「折れる心の持ち主は、こんな解釈をするのか」ということに出くわすことが多いですね。その際、「本来、こう考えるもの」と説明すると、相手は黙ってしまう。実は、こうなるともうほとんどダメで、本人は聞けるだけの心の余裕がない。
 自分自身、「もう、勝手にしたら」と思います。先日、ある会社の人から相談を受けました。若手の態度について。それは尋常じゃない。「遅れてくるのが平気」。本当は、本人も平気とは思っていないが、「まぁいいや」か「しまった。でも今日は仕方がない」のくり返し。
 私は、相談してくれた人に対して、こう言いました。「まず、始末書を書かせる。それでもだめなら、会社の就業規則に則って処分する。もし、それを拒否をするなら、しかるべき病院に行くことを課する。ここで「〇〇症」とでも出れば、始末書の作成は不要、処分も行わない。会社は毅然とした態度で臨む。」と。
 実はこれには、遡った対応があります。職場としては、それ以前からもその若い人の要望は汲んできた。そこで業務内容の変更他、上司の態度改善等、配慮した結果の上でのこと。
 少子化、さらに大量入社層が50代を迎え、どこも将来を考えて、若手を採らなければならない。ここから先しばらく売り手市場が続く。先日会ってきた学生にもどこか余裕すら感じる。若手が少ない分、40~50代の業務への負担は大きい。若手に手が回らないというのは弁解ともとれるが、上司が「やってみよう」と言ったって、「やりません。やれません」では、どうしようもない。
 こんなことを繰りかえしていると、「グローバル人材の育成」なんて言葉が、はるか前の古典語のように聞こえてくる。「人としてどうなのか」と言うところからやらないと。
 残念ながら、こういう若い人と対峙できる人材開発担当者も少ない。いつもいうところのカリキュラムを回すのが役割になっている。しかし、よくよくその仕事をみると、確かにその仕事にはそれなりに意味があることがわかるが、なぜ、そこにそんな時間をかけるのか気になる。これ以上のことはやりたくないから、ゆるゆるとやっているように見える。
 しかし、本人はゆるゆるとやっていない気持ちでいる。仕方がないから私はこういった。「今のあなたの仕事は、次の段階でこうなることが予想される。そうすると、向こうからこんな回答がくるだろう。その時の対応として、可能性から考えていくと、、、、」。実は、過去自分が通ってきた道なので、どんなことをすると、どんなことになるのか予想がつく。「転ばぬ先の杖」の役割になるのは容易だが、これは育成としてはよくない。チャレンジ精神を忘れる。 では、「転ばぬ先の杖」を外してトライさせるとどうなるか。担当は「心が折れない」程度の仕事に留まり、悪循環にはまる。
 「嫌だ嫌だ」の苦しみに耐えるより、「嫌だが何とかしよう」という苦しみに挑まない限り、「折れない心」を作ることができないのではないか。これは、まだ仮説であるし、メンタルに入ってしまった人には向かない対策ではある。月並みだが、健全なうちは壁を越える試みに望ませないと。

「真田丸」の終わり。痛感:自分の人生は自分で作る。会社に委ねない。

2016年12月23日 09時48分03秒 | 日記
「真田丸」が終わりました。毎週、楽しみに見ていました。大坂夏の陣で、緒戦で豊臣方が善戦したのは知らなかったです。もうあの時代になると、大きな戦いは「関ケ原」くらいで、すでにそこから15年近く経過して、戦国時代の終末期で世代も交代。戦後の日本で言うならば、高度成長期から成熟期に入に入った時期。
 家康は豊臣家を潰したかったでしょうが、徳川方を始め、外様大名と言われる人たちは、「お付き合い」的な気持ちもあったと思います。それに引きかえ、豊臣方は浪人を抱えていました。浪人たちは、生活がかかっていますから必死です。それが緒戦の戦いに現れていたと思います。
 歴史には詳しくないのですが、交渉事においては家康が先行し、豊臣方がそれを受ける形でしたね。しかも意志統一もうまくできなかった。あれもうまくなかった。
 家康が、真田幸村に追いつめられ、いよいよ覚悟を決めたというのは本当のようですが、そうだとすると、家康も安全な場所に陣を張っていたわけではないですね。劣勢の軍勢に対して、30万の軍を率いた大将が、追いつめられること事態が徳川軍の結束力の弱さ・弱体化を物語って入るような気がいたします。
 勝てると思えない戦いに挑み、「あわや」と言う戦いにもって行った豊臣方の諸将は見事です。秀頼が自ら出陣していれば、もう少し戦況も変わったかもしれません。家康は老体に鞭打って、前線に位置し、秀頼は大坂城で待機して、様子を伺っていた。父・秀吉が何度も死地を潜り抜けてきたのとは、立場も時代も違うから仕方がないのですが、「ここだ」というポイントは逃さず出陣してほしかったですね。リーダーが陣頭指揮するのは是々非々ありましょうが、後方で適当にコメントされていると前線で戦っている将兵にしてみればおもしろくない。
 ビジネスの本・雑誌で、多くの社長のインタビューが掲載されています。それを読んでいて、「本当にこの人、やっているの?」と思うことは多々ございます。改革のネーミングこそ立派で、何かをやっている印象はありますが、会社員双六の上りのような人が改革を唱えても、よほどのことがないかぎり、肝心の社員が心を躍らせて仕事をするということは、まずありえません。「またいっているな」が関の山。日本の会社では、「失われた〇〇年」以降、「改革飽きた病」が蔓延している。結局どれも中途半端になり、中には取り組んだのかどうかも怪しいものもある。形だけ。
 他責になるが、あまりにも難しい時代になって、特に内部の「改革ごっこ」に追われて疲れた企業人は、外部環境の変化・対応に理解・追随するのも難しく、外で戦う気質も奪われていないか懸念しています。こういうときは、組織を当てにしない生き方だと思います。吉田松陰の意図を正しく理解していないかもしませんが、最後は草莽崛起(そうもうくっき)。志ある人が立ちあがれという意味で、かっこよすぎますが、言い換えるならば、少し控えめですが、自分の人生は自分で作る。会社に委ねないということですね。

「第三の矢」は、それを政府に頼るのではなく、「自助努力」の姿勢を堅持して。

2016年12月20日 21時56分22秒 | 日記
「モノ造りでもインターネットでも勝てない日本」という言葉をよく聞くようになりました。その裏側には、製品を作るためのマネジメント、つまり、プロジェクトマネジメントがうまくできないから。プロジェクトマネジメントについて書こうとすると、おそらく今回だけでは足りないので、思っていることを簡潔に書きますと、「モノの作り方の手順がおかしくなった日本企業」と言う表現が近いかもしれないと思います。
 「そんなことあるまい。無知蒙昧なことをいうな」とお叱りを受けるかもしれませんが、これは遠からず、当たっています。むろん、モノの作り方が本当はわかっているのです。しかし、その手順で作っていると、世界レベルで見たときに、高い人件費の日本は高コストとなって、競争には勝てません。
そうだとするならば、人件費をさげるためには、何をするかというと、工期を短くして作るしかありません。或は、同じ工期で10人を要して作っていたところを、例えば5人で作れば半分のコスト。。。とはなりません。そこに半分に減ったところを埋めるために、残った人が長時間の残業で埋めるか、派遣・請負で安いコストで不足分を穴埋めする。それでも勝てる保証はないです。
 10人の人を維持して工期を半分に減らすというのは、相当難しい。ひとり二倍のスピードといえば、話は簡単ですが、10人が連携して仕事をする場合は、当然、報告・連絡・相談もあります。その時間も半分でやらないとなりません。細かい説明をするのに、10分かかってたものを5分でしなければなりません。聞き手がそれを理解できないで作業すると、製品の不具合をおこして、あっというまに修成のためのコストがかかってしまう。これだったら、初めから10人でやっていたほうが、品質としては安定するかもしれませんが、国際競争力からみたときは、勝てないでしょうね。
 そう言う戦いの中に日本の製造業はいると思います。この場合、圧倒的に他国に追いつかれないモノを作って売り歩くしかない。しかし、他国が追いつかなハイレベルなものをつくった所で、それを必要とする市場・顧客がいないと、すべて棚残となり、作っても売れないまま不良在庫と化していくわけです。売れなければ、お金が入らず、お金が入らないと、従業員にお給料を支払うことができず、倒産もありうる。「そんなことあるまい」と思うかもしれませんが、もう「豊かな国・日本」とはいえないと思います。先日、某局で「子供の6人に1人は貧困家庭」と放送されていました。もう、「先進国」「経済大国」は昭和の言葉で、今や昔の感すら致します。
 いつまでこの状態が続くのか。というよりキープできるか。或は徐々にスローダウンしている経済は、どうなっていくのか。「第三の矢」と言われて久しく。わたしは、それを政府に頼るのではなく、基本は「自助努力」があってこその「第三の矢」だと思っています。それは苦しい戦いです。でも、人類で、戦後復興後の高度成長が、稀有な時代であったことはいうまでもありません。それを恋焦がれても仕方がないと、私自身に言い聞かせています。

挫折を知らない若い人への対応について

2016年12月18日 14時23分21秒 | 日記
年に数回、学生さんとお話する機会がございます。この頃、こんな質問を受けることがございます。「採用面接で、貴方の挫折した経験をお話しくださいと言われて回答できませんでした。なんて答えればよかったのでしょうか。」と。そこで、私は「挫折という言葉を失敗・後悔したことと考えてみたら、あるのではないですか」と。しかし、ここでも「そういうものはないですね」と回答を頂きました。もちろん、鉛筆で誤記し、消しゴムで消したものは失敗のうちには入らないという認識はあります。まぁ私が採用面接をやっているわけではないので、お互い気楽に話しているのですが、どう対応してよいいのか困りました。
 少し考えて、私は次の質問を投げてみました。「何か目標をもって取り組んだものはないですか」と聞いたのですが、「そういうものもないですね」と回答。さすがにも困りました。実は、この質問の意図は、学生さんがどんな失敗をしたかを知りたいのではないのです。成功・失敗をどう理解しているか。もし、それが失敗だったとしたら、原因は何か。原因に対してどんな対策を考えたか。対策の実行はどうであったか。実行した結果はどうであったか。そして、それが当初目標と結果の乖離があるとするならば、それをどう考えているか等の質問ができるのです。面接が紋切り型にならないための対話ができるのです。この対話により、そのひとの姿が浮かび上がってくるので。
 しかし、それもないということなので、「では、今やっていることで、失敗しそうなことを想定して、そこにはどんなリスクがあり、どんな対策があり、どう実行していくかを考えてみませんか。例えば就活なんかよいテーマかもしれませんね」という回答をしておきました。
 事の当否はどうであれ、こういう人が会社に入った後、大丈夫かなと思いましたね。今までが順境すぎたのであって、これからはおそらく多くは逆境です。レジリエンス、つまり折れない心、跳ね返す意志をもって、実力を発揮していかねばなれません。それができるでしょうか。
 私は、これは「不幸な順境」と名付けています。もし、嫌なことを避けてきたとしたら、マイナスです。言葉が不適切ですが、「負け戦」とわかっていても、最小失点に抑えて切り抜けなければならない立場に立たされます。大なり小なり。どんなことでもよいから、勝負する場面に身を置くべきと思いました。できれば、チームで役割を担った中で、成功・失敗を経験してほしいですね。

過去を20個のマス目で見て振りかえっても、見方が変わらなかったとき。

2016年12月18日 09時46分30秒 | 日記
 前回、「20個のます目で取り組んでもね過去の見方が変わらない」ときどうするか。その場合の結論は、他人と一緒にみるということがオススメ。人は自分と見方が異なります。それによって、視点が広がり、良いアイデアが浮かんでくるのかもしれません。しかし、富士山と言う山を絵に描こうとしたとき、山梨県から見た時と、静岡県から見た時では、同じ風景でない野と同じように。但し、他人に見てもらう場合、注意しておきたい点は、他人が、その失敗に至る背景やプロセスを知っていないと、或は協同していないと、主体者たる自分にとって「響かない指摘」を受けることもあります。だから、他人ならば誰でもいいというわけではありません。
 これ、ビジネスでいうならば、チームでやれるといいですね。製造業ならば、営業、開発、設計、製造、品質保証、サービス、経理、資材調達など。総合的にみられる。しかし、これについては個人と違った視点がひつょうです。こりらついては、また次回。

過去は変わらないが、過去の見方は変えられる。その方法は、、、

2016年12月16日 22時14分16秒 | 日記
 一昨日のブログで、「過去は変えられないが、過去の見方を変えることはできる」と申し上げました。しかし、「そうはいっても、簡単にできるものではない」と思うのが人の心。
 ここを精神論で何とかするという方法論もあるのですが、そうではなく、スキルとしてこうやればできるのではないかというものをご紹介いたします。例えばの事例で。
 数学のテストで失敗した。その原因が因数分解ができなかったとします。さて、この原因はひとつでよいのか。これをみていくとき、人、モノ、金、情報、時間等、よく企業人が言葉として用いる経営資源、それとPDCA(計画・実行・検証・是正)の掛け算でマトリックスにしてみていくのでする。
 具体的には、人について計画段階ではどうだったか。因数分解の問題ができるようになるための計画を自分は作ったか。先生からの計画についての指導はあったか。或は塾の講師はそういう計画を提案してくれたか。つまり、PDCAという四種類に経営資源の五種類を掛けると二十個のマス目ができるわけです。このマス目を明確にしないと、原因探求の抜け漏れが見えなくなるのです。こんな面倒臭いことやりたくないと思うかもしれません。それでもけっこうです。無理して二十個のマス目を埋めることが重要なのではありません。こういうマトリックスで考えることで、かなり視点が広角になるため、ヌケ・モレが防ぐことができると思っております。ためしにやってみてください。過去の見方が変わるかもしれません。
 次回は、それでもうまくいかない場合について述べたいと思います。

過去は変えられないにしても、変えられるものはあります。それは過去の見方です

2016年12月14日 19時38分26秒 | 日記
過去の出来事に「もし、~していたら」は「言っても仕方がない事」と思われています。「過去は変えられない」「人生に消しゴムなし」とか。確かに、過去の時間を取り戻してやり直すことはできません。最近の科学では、それができると理論的に証明できるみたいですが。まぁ、一般には過去は変えられないというのは、紛れもない事実。
 過去は変えられないにしても、変えられるものはあります。それは過去の見方です。過去というものはひとつですが、過去の見方はひとつではありません。「どうしてそう言う見方をするのか」という思いはよくあります。多分、第三者も私が話したことや言ったことを、そう思っているに違いありません。そうすると、十人十色の過去というものが再現されることになります。さて、ここから混乱が始まります。
 こういうとき、起きる議論は、「それはいったいどうして起きたのか」とか、「何と何が関係してそうなったのか」という質問がきます。この質問の回答の中で事実が曖昧に見えると、「いい加減なことを言うな」ということになるでしょうし、別な視点では、「そこから仮説を立てると」という見方もありうるわけです。皆さんも、どちらも体験していることでしょう。
 そして、リーダーが意思決定しなければならないとき、無理して「正しい」「正しくない」の結論を出すのは危険です。そこを身に染みて知っているリーダーは、判断はしても決断はしない。無責任な態度を示す人もいます。「判断はしても、決断はしない」というリーダーは、結局コメンテーターになります。アタマいいんですよね、こういうリーダーは。もちろんこれは皮肉です。決断しないことで、崩れていく組織を見た事がございますが、これはもう集団催眠に罹っていると言ってもよい。だれも止めることができないのですね。
 リーダー本人が判断から決断に向かうプロセスを構築するにはどうしたらよいのか。例えば参謀は必要ですね。自分を鏡のように映してくれる参謀です。わが身をただすこと。特に、長期政権の勤続疲労は気をつけないとなりません。「殿、お鍛えあそばぜ」 それは、より広い視点で見られること、変化する関係性の妥当性を的確に見て本質を見抜いて的確に判断し、決断し、実行を促すリーダーでしょうね。これができるリーダーは、過去をさまざまな視点から見ることができる人です。


「練習、きついなあ」という言葉に適した返事は、、、、。

2016年12月13日 21時53分49秒 | 日記
 子供が「いや~、練習きつかったぁ」と言ったら、なんて返しますか? 「お疲れさま」「まぁ~、ゆっくり休んで」「良く頑張ったね」「お腹すいた? なんか食べる? それとももお風呂にする?」。。。
 親子の会話なら、どの言葉でもいいです。平和そのもの。しかし、訓練、人を育成する言葉としては、どの言葉ももうひとつです。
 「正解は、、、」というと、クイズ番組っぽい。それにこの方法しかないという教育論は、そもそもおかしい。一応、私だったら、ということでご容赦頂きたく。それは、「続けてごらんなさい。そのうちラクになるから。ラクと思ったら更に厳しく」と。
これ、特にスポーツ選手なら分かりますよね。「厳しい練習だなぁ」と思っていても、そのうちにその厳しさに慣れてくる。そして、上を目ざすためにもっと厳しい練習をする。その結果、記録は伸びる。試合に勝つ。こういう良いサイクルが形成されるわけです。
 そういうと、「みんなそうやっているじゃない。でも、記録は伸びないし、勝てないし」と言われそうです。では、すかさず反論。「本当にそう思っている?」或は「一流選手の努力ってどういうのか知っている?」 どうですか? こんな言われ方をしたら。特に一流選手と比べられたら、それは嫌ですよね。
 昨日、「僅差で勝つ」と書きました。多分、一流選手と普通の選手の差を考えるに当たり、1日の練習量の差は、そんなに大きく開いていないと思っているのですが、それを合計すると膨大な差になり、結果にも反映されてくるのではないかと思うのです。
 これは会社でも同じでしょう。誤解しないで頂きたいのは、長時間働きなさいということを言っているのではないですよ。会社が終わってからの自己啓発の差が、将来、仕事の結果の差となって現れるということ。「こんな簡単なこと」は分かっている。誰だって。自己啓発って大変ですよね。でも、それが定着したら、更なる自己啓発を課してみましょう。成長が早いですよ。
 江戸時代の米沢藩の名君・上杉鷹山の言葉をご存じですか。「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」と。 

一度の大勝で有頂天になる人より、辛勝を重ねる勝負師に。

2016年12月12日 20時51分33秒 | 日記
「僅差で勝つ」というと、「やっと勝てた」とか「かろうじて勝った」という言葉が浮かびます。新聞の記事でも「辛勝」とか。負けた側から見たときは「惜しい逸機」「ツキ逃す」など、有難くない言葉のオンパレード。
 しかし、理に叶う「辛勝」と情けない「辛勝」は違うと思います。例えば、プロ野球で言うならば、ドラフト制度が始まって、もう半世紀は経過すると思いますが、これによって有名なチームにばかり選手が集まることなく、戦力の均等化が図られてきました。もう、どこかのチームが日本一を何年も続けることは難しい時代になりました。
 つまり、勢力が拮抗している時代にあって、僅差であっても勝てれば良しです。ちなみに、プロ野球で日本シリーズで4勝3敗で勝つことを想定する監督はなかなかの人ではないかと思います。両リーグの強いチーム同士が戦うのですから、シリーズ前に故障者でも出ない限り、互角の勝負になることを予想しているでしょう。
 言葉は悪いのですが、第6戦で全勢力を投入して負けた場合、翌日の第7戦は悲惨なことになります。とくに投手が。第7戦に投げられる人がいないというのは、敗戦が決まったも同じです。むろん、過去に3連敗してから4連勝したチームはございます。今でいうなら「神ってる」投手がいました。しかし、そんな奇跡を期待した勝負をやることは良い事ではありません。監督ともあろう人が、そういうチームマネジメントをしてはいけないと思います。無理を重ねたその投手は長続きしないかもしれないし、それ以外の投手は「自分は信頼されていない」と思うかもしれません。エース級の投手が複数いる場合は、特に注意が必要ですね。
 話しが野球に及びましたが、ビジネスでも競合と拮抗した戦いであることに変わりはございません。その際、「あれだけやったのに大勝ではなく、辛勝か」と嘆くのではなく、気持を引き締めて辛勝を続けられることが勝負師ではないかと思います。大勝して有頂天になり、その後、敗北したチームや会社は数限りなくあります。「辛勝を狙え」とはさらさら申しあげるつもりはございませんが、結果的に辛勝であるならば、改めて「勝って冑の緒を締めよ」で、次の勝負に臨みたいものです。