le temps et l'espace

「時間と空間」の意。私に訪れてくれた時間と空間のひとつひとつを大切に、心に正直に徒然と残していきたいなと思います。

「待つ」ということ

2010年09月04日 | BOOK

●「待つ」ということ 鷲田 清一 著
(あらすじより)
現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。私たちは、意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。偶然を待つ、自分を超えたものにつきしたがう、未来というものの訪れを待ちうけるなど、「待つ」という行為や感覚からの認識を、臨床哲学の視点から考察する。

鷲田さんは文系で初めて大阪大学の理事・学長になった方で、専門は臨床哲学です。この方の本は何冊か読んでいます。が、基本的に難解です。ときに「いやがらせか?!」との思いがよぎってしまうほど入り組んだ文章であり、思考での理解はおぼろげでもイメージとして概念や枠組みを想起することをも許さないような表現方法であったりします。ただ、一度それをつかめば、その後に出てくる長文も行きつ戻りつの構成を成した一文もラクに読めます。

実際、この本も字面を追っているだけのような気がしなくもないなと感じつつもひとまずは読み進めて、面白くなってきたのが57ページあたりから。全190ページほどですから1/3を過ぎてからやっとこの本の構成、表現方法を理解し始めたということになります。正に「「待って」ましたぁ!」

冗談はさておき、この本を読むと「待つこと」はここまで深く掘り下げられることができる行為だったのかと気づきます。
何かを待つ、例えば電車を、誰かからのメールを。或いは旅行に行く日を。そんなふうに具体的な対象がある「待つ」は、いくらイライラしてもわくわくしても、いずれその対象は手に入る。そうではなくて、その対象が明確ではない「待つ」がある。対象がない「待つ」もある。例えば、絶縁してしまった親との和解の日。自分自身の成長を感じるとき。命の尽きる日。「いつ」とも、来るか来ないかすらも分からないその日を待っている時間は決して楽しい時間ばかりではないのです。それでも、待って、待って、でも苦しくて、わずかな期待を捨てて待つことを放棄したときから本当の「待つ」が始まると、鷲田さんは語ります。
それは「希い」が「祈り」へと変わる瞬間だと言います。そして、そこから「開け」、「発酵」してゆくのだと。何がか?もちろん、その人の人格、人となりでありましょう。
余談ですが、「発酵」の中に私が繰り返し読む本のうちの1冊「にぎやかな天地/宮本輝」が取り上げられていました。鷲田さんが引いていた一文をご紹介しましょう。

「時を育てる。深い傷も、円熟の皺に変える時というものを」

まさにこれが「待つ」ということの行為のひとつの顕れと言えるでしょう。いつ育つか何をもって育ったというのか、円熟の皺に変わるのはいつなのか、誰にも分かりません。いくらネットに溢れかえっている情報を駆使しても、ツイッターでつぶやいても。
待つという行為はクリックひとつで何でもできる世界とは切り離された、その人の生き様、価値観、徳に深くかかわる厳しい、でも生き生きとした行為なのだと感じます。

思えば私自身、知らず知らずに、これまで対象のない「待つ」ということを繰り返してきたように思います。「明るい未来はきっと来る!」とファイト一発、ネバーギブアップで突っ走るパワーがあったわけではありません。それでも、もがいて何かを待っていた・・。それがなんであったのか、どうして待っていたのか、正直分かりません。もしかしたら命が燃え尽きる時を待っていたのかもしれません。なぜだか分からないけどこの世に生を受けてしまった。もう戻ることはできない。これからあるのは受けた生が尽きる日。それを何もしないで動物的に迎えることもできる。でも、それは人間の尊厳の放棄に値するかもしれない。そうであれば、「こうありたい」と思う人間をとことん目指そうと、あるいはそんなふうに待つことが苦しくて、待っている時間が怖くて突き動かされるように自分を磨き続けてきたのかもしれません。それが鷲田さんの言う「発酵」に等しい性質のものであるかは甚だ疑問ですが。

鷲田さんはあとがきでこんなふうに表現しています。

「待つということにはどこか、年輪を重ねてようやく、といったところがありそうだ。痛い思いをいっぱいして、どうすることもできなくて、時間が経つのをじっと息を殺して待って、じぶんを空白にしてただ待って、そしてようやくそれをときには忘れることもできるようになってはじめて、時が解決してくれたと言いうるようなことも起こって、でもやはり思っていたようにはならなくて、それであらためて、独りではどうにもならないことと思い定めて、何かにとはなく祈りながら何事も期待をかけないようにする、そんな情けない癖もしっかりついて、でもじっと見るともなく見つづけることだけは放棄しないで、そのうちじっと見ているだけのじぶんが哀れになって、瞼を伏せて、やがてここにいるということ自体が苦痛になって、それでもじぶんの存在を消すことはできないで・・・。そんな想いを澱のように溜め込むなかで、ひとはようやっと待つことなく待つという姿勢を身につけるのかもしれない。年輪とはそういうことかとおもう。」

まだまだ年輪を重ねられてはいないけれど、ここに書かれていることのいくつかの心境は理解できます。「ただ待って・・独りではどうにもならないことと思い定めて・・何事も期待をかけないようにする・・見つづけることは放棄しないで」そんな「待つ」体験をしたことがあるからです。

それにしても・・・長っ(笑)でも、この人のこの畳み掛けるように続く文章が、心のやわらかい部分をつっつき、込み上げてくるものを感じるのは私だけでしょうか。