諸葛菜草叢記

 "窓前の草を除かず“ 草深き(草叢)中で過ごす日々の記

春浅き日に

2013-02-17 18:03:03 | 日記・エッセイ・コラム

 “雨 水” 雪や氷がとけて雨や水となる「節季」の日が立ちましたが、春まだ遅しであります。(←愛犬が逝ってから、土堤を散策することが少なくなりました。▼ 昨秋、土堤の荒草刈りが遅かったせいで、菜の花群落の芽株 (←秋に芽を出す)は、すっかり無くなってしまいました。早春賦のおもむきがありません。

いきなりの春寒むの夜の“拙 句”から始めます。ー

春寒むの 燈下這(は)い出づ 蜘蛛遅々と 夢蔡

20130217_026 ▲ 寒風の当たらない陽だまりの朽ち葉の下から這い出て来たのか、蛍光灯の光りに誘われて、「野 哭」の上をノロノロと歩いておりました。

ー「野 哭」(やこく)は、加藤楸邨の第6句集です。(昭和21~22年にかけての句。) ▼楸邨は、句集の後記に「人間は何んと本質的に余分なものを曳いてやかなくてはならにことか」とリルケを引用して、彼は、戦争の時代を引きずりながら、「本当の自分の声を俳句に生かす・・」ための出口を求めます。(この頃、楸邨は、文壇の一部から戦争協力者として非難を受けていた。)

 火の中に 死なざりしかば 野分満つ

 死ねば野分 生きてゐしかば 争えり

 雉子の眸の かうかうとして 売られけり

 死や霜の 六尺の土 あれば足る

  補 注ーMEMO-楸邨は、“「野 哭」は杜甫の詩である”と言っております。その詩「閣 夜」(かくや)の一部を引用します。-

 ・・・/ 三峡(さんきょう) 星河 影動揺(かげどうよう) / 野哭 千家(せんか) 戦伐 (せんばつ) 聞え /      夷歌(いか) 幾処(いくところ) 漁樵(ぎょしょう)より起こる / ・・・・(以下 略)

訳ー「三峡にかかる天の川は、(ひとに不安をいだかせるかのように)ゆらめき光る。何処の家でも戦死者いたんで野辺の墓で泣(哭)いている。なお絶え間なく戦乱の音が聞こえる。聞きなれない「えびすの歌声」が、漁師や木樵(きこり)たちのあいだから起こっている。」  ・・・・人の世のいとなみもむなしい。・・私はかりそめの日々をおくるばかり・・・。(『唐詩選」 前野直彬注解 参)

▼ 杜甫は、戦乱によって激動した“世”を憂愁のうちに放浪いたしまた。楸邨が自らを重ね合わせるのには、格好の詩句であったようです。

20130217_015 ▲ 「 蝿とれぬ 蝿虎(はえとりぐも)と 時過ぎぬ 」( 楸邨 「まぼろしの鹿」) *一ヶ所に固まったように動かず、蝿を待つクモ。それを視てる作者。各々が必要とするものをとらえる事ができるのか。あるいは、無為なる時の流れか。畏怖する心が全身を奔りぬける。

 亡き友ら 来やすかるべく 古火鉢 (「幾人をこの火鉢より送りけん」 あの火鉢は戦火で焼失した。古い火鉢をあつらえた。友等が来やすいように。)

▼ 幾多の人の死とひきかえに、そして背負いながら、生きることの現実は過酷である。「自己と現実をみつめる斬新な視点(中村 稔)」には、その重さが影を落としている。▼ 敗戦から10年ほど経っている。杜甫の「閣 夜」の詩句をもう一度使う。

 柿にジャズ 杜甫のいふ夷歌 幾ところ (柿=子規の『柿食えば・・」の日本的原風景に「ジャズ」と言う異国<夷歌>のメロデーが聞こえてくる。このミスマッチ。戦禍を残しながらも、時代はどの方向に向かうのか。それは、多くの人の死に値するものなのか)・・・・・。

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 過去いふもの 雪夜となれば ふくらみ来 (大岡 信選 遺句集「望 岳」)

▼ 揪邨は「人間探求派」の俳人と呼ばれていた。苛酷な戦争の時代に生まれ合わせた。自己のおかれた状況から逃れ、身勝手な空想に浸るには、彼は真面目すぎた。*“墓碑もなく 幾万にかく 冬枯れし” (「野哭」所収) 体験した状況は、彼を内部から突き動かす。

▼ 「人間を変えるものは観念ではない。ひとつの情念をのり越えるためにはその原因からそれを認識するだけでは足りない。それを他の数々の情念と対決させ、執拗にそれとたたかい、ようするに苦役を重ねることが必要である。」 (ジャン-ポール サルトル) ▼、楸邨はこのように生き続けた表現者であったように思う。* “蟻はしる たゆとふものは 人間か”(「野哭」所収)

 --補記ー<2013・2・28>--

(たけむら)は 騒ぎたちたる 真夜颯(まよはやて)  秒針刻刻(コクコク)  二月果てゆく ー夢蔡ー

 

           ----<了>-----