poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

アイスランド篇 その2

2024年12月01日 | ヨーロッパ
【2024.12.15追記; 備忘録が出てきたため、12月29日の文章を少し追加しました(画像は追加していません)。敢えて最初にアップした日時を残しています】
旅の第2弾では、1泊2日で南部の海岸沿い=以下の地図の➍~➐を巡ります。
ただし、セリャランスフォスとスコガフォスは近いため➍に、ブラックサンドビーチとヴィークは近いため➎に、ヨークルスアゥルロンとダイヤモンドビーチとスキャタフェットルは近いため➐にまとめています。さらに 内陸のヴァトナヨークトル氷河に足を踏み入れたのですが、正確な位置が不明のため➐にまとめています。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


1・4・5・6 レイキャビク ⇒セリャランスフォス ⇒スコガフォス ⇒ブラックサンドビーチ ⇒ヴィーク ⇒ヘプン (2023年12月28日)

6時半過ぎに起床。
メールをチェックすると、12月30日にオーロラ鑑賞ツアーのやり直しがO.Kになったとtravel agentから連絡がきていた。心の中で快哉 が、ピックアップのバス停が15番になっている。30日に泊まるのはここから南東に1.5㎞以上離れた別のホテルなので、9番のバス停に変更してもらう必要がある。その旨を伝えるべくメールを送信。
この日のピックアップは8時半~9時となっていたが、これまでの経験を踏まえて8時半より少し前に着くようにバス停へ向かう。たいした距離はないが、とけ残った雪の上をスーツケース転がすのは思いのほか力が要る。ヨロヨロとバス停を目指す私に近づいてきた男性が、右上がりの疑問形アクセントで私のgiven nameを呼ぶ。Yesですとも 
はぁ、よかった・・・前日同様に人でごった返す停留所で探す手間が省けた。今回のドライバー兼ガイドさんの英語は滑らか。見た感じ30代くらい。7年前からガイドをやっていると後で言っていたから、ドンピシャでなくとも遠からずだろう。
なんでもレイキャビクから拾うのは私だけで、後は30分ほど走った所のホテルから乗ってくるという。車窓は前日と同様にまだ暗い(画像上部の白いのは月ではなくて、車内の電灯が窓に反射したもの)。

大グループにおまけで自分1人入るのかと想像していたら、2~4人グループ16名に自分と同じく1人旅のおばちゃん(欧米系)1名だった。ワゴンは程よく埋まり、にぎやかになった。
10時半前、レイキャビクから100㎞南東のセリャランスフォスの滝に到着。駐車場を降りると、もう視界に滝。

後ろを振り返る。国道1号線のすぐそば。画像手前、滝から流れ出る水が川を成している。画像中央やや左の白いのは正真正銘の月、まだ陽が昇っていない。

今日もツアーで貸し出されたアイゼンをつけて歩く(撮影は後刻)。

人の流れに合わせて滝に近づく。お気づきの通り、この滝は奥が洞窟のようにえぐれており、滝の裏にまわることができるのである。

が、立ち入り禁止となっていた。冬季は凍結のため立ち入れないことがあると事前情報で知りつつも、あわよくばと期待していたのに・・・残念すぎる

実は、この場所は個人的に思い入れ大だった。オーロラを見たいと思うよりもっと以前、ネット上で偶然にセリャランスフォスの滝を裏から眺める画像を目にした時、アイスランドを訪れたいと初めて思ったのだった。
こうなったら、許される限界まで近づくしかない。まずは向かって右手からパシャリ

次は左手へ赴く。滝の落差は60m。

左サイドからは、より近寄ることができた。しぶきを浴びつつ、何度も深呼吸してマイナスイオンをこれでもかと吸い込んだ。

メインの滝の奥にも支流(?)が流れているようだった。集合時間までたっぷりあったので、行ってみることにする。
冬なので水量は激減しているが、水流で大地を穿った痕跡が明らかに見てとれる。

ちなみに、道中はツルッツルに凍っていた。来し方を振り返ると、こんな感じ(画像左端中央がメインの滝)。
借りたアイゼンが役に立った 登山靴の人でさえ滑っていたので、なかなかツワモノな凍り具合である。

さらに奥へ進む。

岩の割れ目に下りてみたい気もしたが、戻る時間を逆算して引き返すことにした。


次は30㎞南東のスコガフォスに向かう。その途中で日が昇った。車窓から気になっていたが走行中に撮った画像は全部ブレブレだったので、ドライバーさんが停めてくれてラッキー
雲間から顔を出す予兆。

ズームアップしてみる。ちなみに、画像右上のは飛行機雲(120㎞北西にケフラヴィーク国際空港がある)。

いよいよ・・・

ついに

一部始終を見届けることができた。朝が弱い自分にはとてもありがたい11時過ぎの日の出。


ちょうど正午にスコガフォスの滝に到着。40分しか時間がなかったので、まず展望台にのぼることにした。その階段(画像右端)はかなり長く傾斜もあり、前日のグトルフォスのそれとは比べものにならないほどハードだった

のぼりきって、駐車場方面を見下ろす。

展望台は網状のスケルトン。人でいっぱい。

展望台から滝を望む。

画像中央が滝壺の真上。

滝の上流へ向かう道が整備されていたので、足を向ける。

上流を眺めるトレイルはここが行き止まりのようだった。

時計を気にしながら、来た道(画像左端)を戻る。

残った時間で滝壺に近づく。
【この地に入植したヴァィキングが10世紀初頭、亡くなる直前に金銀財宝の詰まった宝箱をこの滝の近くの洞窟に埋めたという伝説があるらしい。それを聞いた人々がやって来ては探し、ついにある時発見。宝箱に付いていた金の取っ手をつかんだが、宝箱は滝壺に沈んで行方知れずという。その金の取っ手は付近の教会を経て、現在はスコガル博物館に保管されているという】

ほんのわずかながら、虹色に反射していた。

落差60m、先ほどのセリャランスフォスと同じ。が、幅が25mあるためか大きく見えるような・・・

滝壺付近は白い世界だった


滝のそばのホテルでランチ。テーブル番号を伝えて注文、先に支払うシステムだった。野菜不足にコーヒーを飲んでいなかったのでオーダー。
ところが、ツアーグループの中でわりと早めに注文したはずなのに全然来ない。一行18人のうち皿が運ばれてないのがあと2~3人になった時さすがにと思い、立ち上がってレジへ向かう。その様子を見たらしいウェイターが声をかけてくれたので、たどたどしい英語で事情を説明する。至急確認してもらったら、ツアーグループ内の4人組(たぶん20代、中国人と思われる)がシーザーサラダと間違えて手をつけていた。違うテーブルに運んでしまうお店側も問題アリだが・・・遅れて到着した料理をせわしなく平らげるハメに
直径20cmのお皿に高さ3cmほど盛られていて一見するとボリュームがあったが、野菜なので消化は早かった。


食後は一路、30㎞南東のブラックサンドビーチへ向かう。移動中のワゴン内からパシャリ

この国に来て初めて間近に見る海は、とにかく荒々しかった。波が高いだけでなく激しい。降車前、波打ち際から30m離れるようにとガイドさんは告げたが、たしかに・・・

波に引きずり込まれる事故が起こることから、注意書きや警報灯も厳重。


浜辺の石は白くて丸い【砂が黒いのは、火山活動が盛んなこの島で溶岩が冷えて固まる時に形成された黒い火山岩が削られてできたためという】。

犬に遭遇。近所に住んでいるのか、はたまた犬を連れて旅行中なのか・・・

柱状節理がくっきりと浮かび上がる崖。

遠方に屹立するレイニスドランガル(海食柱)が気になり、ずんずん歩いて行く。

この海食柱には伝説があり、トロール(北欧の神話・民話に登場する精霊)が船にいたずらをするうち夜が明け朝日を浴びて岩になってしまったとか、妻を殺したトロールを探してきた男がこの場所で追いついて岩にしたとか、諸説あるらしい。

横向きの柱状節理 どうやって形成されたんだろう。北アイルランドはジャイアンツ・コーズウェイでおびただしい数見かけたけど、こんなのはなかったような・・・

もう日が落ちてきている、ときに15時前。

早足で歩いて、海食柱のそばまで到達。滑らないようにと注意を払いつつ、岩にのぼってみる。先達ほど前方に行く度胸はないけど

見える範囲に同じツアーの人々はいない。時計を見て踵を返し、帰路を急ぐ。


最初のポイントにやっと帰還。

ビジターセンターの前にさりげなく置かれていた。海の生物の骨かなぁ

駐車場へ向かう。この景色だけ見たら、海のすぐそばとは思わないんじゃないだろうか・・・


ブラックサンドビーチから小さな丘をひとつ越えて、教会のあるview pointへやって来た。先ほどとは異なる角度(東側)から海食柱を眺めることができる。
さっきは2本しか見えなかったけど、もっとあるのね。
てか、今日は日の出も日没も拝めたなぁ、ラッキー 今日は前日よりもさらに天気が良いのかも(いる場所が違うから、単純に比較できないけど)。


白壁に赤い屋根の教会は新しそうだった(この記事を書くにあたり調べたところ、1934年築の木造らしい)。鍵がかかっていて、中に入れなかったのは残念。

未練がましく、外からステンドグラスを撮影してみる。


その後、ほど近くのショッピングモールで買い出しタイムとなった。駐車場から先ほどの教会を見上げることができる(画像中央やや右)。

ガイドさん曰く、今夜泊まる宿の周辺はお店がないから、何か買うならここでねと。この辺りはヴィークという村で、インドでいうカニャークマリ的な最南端である【レイキャビクから180㎞ほど。人口は300人ほどだが、東部と西部を結ぶ交通の要衝のため往来は激しいみたい】。
モール内はいくつかのパートに分かれていて、アウトドア用品や土産物をそろえる店、スーパー、カフェ等で構成されていた。
土産物屋でハガキを物色したがピンとくるものがなく、結局スーパーで水のみ購入。0.5リットルのペットボトルが119kr(≒140円)、レイキャビクの半額以下
そしてキャビアが安い(599kr≒707円)。買ってみたいけど今夜食べきれるはずもなく、ナマモノを明日持ち歩くのが怖いので断念。

16時にモールを出発。ここから宿までが約200㎞の大移動で、1度のトイレ休憩をはさんでワゴンは3時間半くらい北東へひた走る。日頃の5時間睡眠よりも充分足りているからか、一向に眠気をもよおさず ずっと起きていた。さして深く考えず右サイドの席に座ったのだが、基本的に車窓は海である。この海原のはるか向こうはアイルランドかぁ・・・
午前中にセリャランスフォスとスコガフォス間を移動中、かつてアイルランドから移住してきた人々がその辺りに暮らしていたとガイドさんから聞いた。2日前に訪れたハットルグリムス教会のパネルには、アイルランドからやって来た修道士からこの国にキリスト教が伝わったと書いてあった。聖パトリックがアイルランドを教化したのが5世紀、この地に人々が暮らし始めたのが9世紀だから辻褄は合うなぁ。アイスランドとアイルランドが決して酷似しているわけじゃないし、かつてとは全然異なる温度なのだが、思考は取りとめもなく広がっていくのだった。そして、いつのまにやら天空に浮かんでいる月は真ん丸に近い形をしていた

19時20分、今宵の宿に到着。後から調べたところによると、アイスランド東部のヘプンという漁師町の北西30㎞ほどの場所にあるゲストハウスだった【レイキャビクから400㎞超】。
車窓から見る限り付近は暗い。夕食は付いていないけど、温かいものを食べたいなら宿の食堂以外に選択肢はなかった。ランチョンマットがクリスマスバージョン

メインディッシュにはスープとパン、サラダが付いていた。ビールGullは別途注文、500㎖で1050kr(≒1239円)。

数種類のメインから白身魚のフライをチョイス。お皿の中央の白いのはレムラードソース【マヨネーズをベースにマスタード、ケッパー、ハーブなどを混ぜたもの。フランス料理で使用される】。5350kr(≒6313円)、地方都市といえど食費は高い

食堂から部屋に戻る途中、ほんの少し屋外に出る動線だった。外からロビーを撮影。

ゲストハウスゆえ、部屋は素朴。

シャワーはmax38℃、水圧も弱めだった。この寒さの中、水でないだけマシなんだろう。

この夜はオーロラを見られるチャンスがあるかもとガイドさんは言っていたが、22時前に外に出てみたら綺麗な星空が広がるばかり。23時にも出てみたが、しっかり曇っていた。1時間でこんなに空模様が変わるのね・・・念のため0時に部屋の窓から見上げると、空の大半が雲で覆われていた

6・7・5・1 ヘプン ⇒ヴァトナヨークトル ⇒ヨークルスアゥルロン ⇒ダイヤモンドビーチ ⇒スキャタフェットル ⇒ヴィーク ⇒レイキャビク (2023年12月29日)

6時半過ぎに起床。前夜 夕食をとった食堂に行くと、朝食ビュッフェの支度がされていた。
ハムはあるが卵がないのかぁ、仕方ないなと受け流した。が、食べ終えて出る時には卵料理が出ていた。7時過ぎに行くのが正解だったみたい

8時15分にゲストハウスを出発。
前日暗くなってから到着、この日は陽が昇る前に去ったので、宿の外観とか周辺の様子がさっぱり分からないままだった。こんなことってあるのね~

9時、ヴァトナヨークトル氷河の中でワゴンを降り、ジープに乗り換える。除雪車のような外観だなぁ、深い雪をぐいぐい掻き分けて進めそう。
車窓はやはり空と雪原の境界が融け合っている。一歩間違えれば遭難だよなぁ・・・

貸し出されたアイゼンは、前日のよりも本格的なヤツだった(撮影は後刻)。

レイキャビクから同行しているガイドさんとは一旦別れ、現地のガイドさんに導かれるまま薄暗い中を進む。

ヴァトナヨークトル氷河はこの国最大の氷河で、国土の8%を占める。氷河の厚さは400~1000mに達するという。

アイスランド冬の観光の目玉のひとつといわれる、氷の洞窟への入口(帰路に撮影)。
【ice caveに入れるのは11月~3月のみ。気温が上がると洞窟は融け、寒くなってくると形成される。毎年新しく生まれ、消えていく儚いものである】

けっこうな斜面をくだる。下の画像中央やや右、人影の見える箇所がルート。

下りきって右を見ると、こんな感じ。

頭上にはゲートのような氷。

一旦屋外に出る。

氷が透き通っている。

来た道を戻り、再び洞窟の中へ。ガイドさん(下の画像左、黄色いウェアの方)にカメラを預けると、一人一人を撮ってくれた。

その後、かなり暗い洞窟内を歩く。何枚撮影しても全然ダメな画像だらけ・・・でも参考までに載せておく。
cave内に設置されたライトを反射する氷。

洞窟の出口付近で、ガイドさんが再び撮ってくれた(自分にモザイクをかけています)。

最後に斜面をのぼって、外に出る。

往きよりは明るくなっていて、はるか遠くにジープだまりが見晴らせた。

ジープの駐車場に到着してアイゼンを返却したら、金髪で肩にかかりそうな長髪をまとめている渋いイケメンのice caveガイドさん(30代後半?)は私に"謝謝”と。このツアーグループ18名中8名が中国人と思われ、そして間違われがちな自分だから まぁそうなるわな
再びジープに乗り、20分ほどでワゴンの駐車場に到着。下の画像、中央から左にかけて写っている丘が見えるでしょうか? 辺り一面、白い世界


ヴァトナヨークトル氷河を後にして30分余り、ヨークルスアゥルロン湖に到着【気候変動により、氷河の雪解け水がたまって1935年頃に形成された氷河湖。ヴァトナヨークトル氷河の最南端に位置する。面積18k㎡、深さ248m】。
氷山が集結している光景は圧巻。

海中の氷が見えるほどの透明度。帽子のような形(画像右上)はどうやって形成されたの それにしても、青くて美しい・・・
そして、お気づきのとおり吹雪いていた

温度の低い海は遠目に灰色に見えるのね・・・


正直に言えば、もっと長い時間眺めていたかった。個人で訪れていたなら、確実にそうしただろう。
が、無情にも与えられた時間は30分のみ。しかもトイレに行列したことで割を食った(宿を出て3時間余り、さすがに行かずにはいられない)。目の端に入った土産物屋にも寄ることができず、後ろ髪引かれる思いで去らねばならなかった

次は、目と鼻の先のダイヤモンドビーチへ【ヨークルスアゥルロン湖から流れてきた氷河のかけらが黒砂の海岸に打ち寄せられている。陽光まぶしき時には氷河が光り輝くことから名付けられた】。前日のブラックサンドビーチほどでないとはいえ、ここも波が高いので近づいてはダメとのことだった。結局、アイスランドでは海水に触れられずじまい



前日来、車窓から気になっていた電柱をパシャリ 画像中央奥、鳥居みたいな形が面白い。豪雪に耐えうる最善のフォルムなのかな。

海とヨークルスアゥルロン湖(画像奥)を結ぶ水路には橋がかかっていた。
救命救急用具が用意されている。見た目以上に流れが速いのか、水温が低すぎて危険なのか・・・どちらもなのかも。


ダイヤモンドビーチを発ち、30㎞西のスキャタフェットルへ。ワゴンはホフスキルキャ教会の目の前で停まった。ツアーの人々はあまり興味がないようで、降りたのは18名中4名のみ。
雪が積もっていて分かりにくいかもしれないが、芝で覆われた造り=ターフハウスなのである【9世紀、ノルウェーからの入植者がもたらしたとされる建築様式。石を積み上げた土台・流木を使用した骨組みの上を芝で覆う。芝は断熱効果が高く、19世紀まで石油ストーブを使用しなかったというアイスランドで重宝された】。

側面はこんな感じ。キリスト教が土着の文化と融合して生み出されるバリエーションに興味がある自分。アイスランドの他の教会ではあるが、わが愛しの写真集『世界の教会』で目にして以来、気になっていた
冬の様子を知ってこれはこれでいいんだけど、夏の青々と草茂る感じがベストなんだろうなぁ、やっぱり

施錠されていて入れなかったが、窓から中を覗くことができた。たったひとつしかない扉の側からの眺め。画像中央奥にささやかな祭壇が備えられている。

逆方向、祭壇側からの眺め。このアングルだと、天井の高さを感じることができる。
なお、設置されていた説明ボードによると この教会は1884年創建、伝統的な様式で建てられた最後のターフ教会で、歴史的建造物として保存されている6棟の教会のひとつという。


ワゴンは20分ほど西へ走り、日本でいうSAのような場所に停車。土産物屋と食堂が併設されている。
ときに13時20分、お腹は空いている。レイキャビクまでまだ遠いし、到着したところで2日前の食事処探しでは骨が折れたし、出発まで1時間もあるし・・・色々考えた末ここで食べることにした。昼どきを過ぎているにもかかわらず激混みではあったが回転率は悪くなく、幸いにも席をゲットできた。
トレーを持って並び、serveしてくれる厨房スタッフにカウンター越しに注文する方式。ホッキョクイワナにクリームグラタンと野菜付きで2995kr(≒3534円)。メインよりも、クリームとチーズが濃厚なグラタンに野菜が美味だった

トイレから出てバスへ戻ろうとしたら、私を探しに来たガイドさんに遭遇。どうやら最後の一人だったらしい。特にとがめられるわけでもなく、“どこで降りるの? 昨日は15番のバス停だったよね。” と聞かれる。なかなか滑らかに英語が出てこず、つい "え~っとぉ” と口にすると、オウム返しされた。耳コピー上手いなぁ。ともあれ、今日は9番と伝えることができてよかった 

さらに西へ2時間進み、前日も立ち寄った南端の町ヴィークのショッピングモールに到着。ドライバーの休憩も兼ねて、ここでも十分な時間が与えられた。
16時なので、もう陽が落ちている。視線を上げると、丘の上には教会。

道路をはさんでモールの斜め向かい側にあるvinbudinへ足を運ぶ。前日から気になっていたのだが、まさか今日もここに停車するとは。
レイキャビクでは前を通り過ぎるばかりだったが、ついに入店。初めてにつき少しドキドキしたが、特殊な雰囲気ではなくスーパーの酒売り場のようにカジュアルな雰囲気だった。
入店直後に私を一瞥したおばちゃん店員から無事にビールを2本購入。350㎖が2缶で988kr(≒1166円)、スーパーで買うライトビールと比べて1缶50円くらいしか違わない・・・だとしたら、通常ビールのがいいな。ホクホクしながらワゴンに戻る

ヴィークからワゴンで約3時間、近づいてくるレイキャビクの街は宝石箱のようにキラキラ 世界最高緯度の首都、14万人が暮らす都市は宵闇に美しく煌めきを放っていた。
レイキャビク市内に点在するバス停に寄るごとに、一人またひとりとツアー客が降りていく。19時40分、自分が降りるべき停留所に到着。スーツケースを下ろしてくれたガイドさんに“Thank you so much.”と言ったら拳を突き出されたので、グータッチ。そして元日もまたツアーでヨークルスアゥルロン湖に行くと言っていた彼の息災を祈りつつ、“Have a happy new year!” と告げて去る。
今夜から泊まるホテルはバス停の真横にあって、迷う余地はなかった。ホッ
荷物を置いてまもなく散策に出かけた。ロイガヴェーグル通りの端に位置する宿は至便で、界隈は人通りも多くにぎわっていた。土産物屋を冷やかし、スーパーで水を買い込んで戻る。
シャワーを浴び、vinbudinで入手したばかりの “ライトじゃない" 缶ビールで晩酌
この銘柄は入国2日目に飲んでいるが、種類が色々あるようでpale aleは初めて。

この数日で何本の滝を見ただろう・・・この国らしいラベルに魅かれてチョイス


★ 中締め ★

次回、旅の最後はレイキャビクを巡ります。
お楽しみに


コメント
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アイスランド篇 その1

2024年11月03日 | ヨーロッパ
なんとなくオーロラを見たくなり、自分の旅史上最北の地へ出かけることにしました。3度目のアイルランドかと誤解しないでくださいね~ さらに2,000㎞北西ですよ
足かけ8日間の旅をいくつかに分けて紹介します。序盤には以下の地図の➊~➌を訪れました。正確を期すならば、空港はレイキャビクの西南西40㎞のケフラビークにあるのですが、印をつけると地図上のレイキャネス半島がつぶれてしまうので レイキャビクだけマークしています。また、ゲイシールとグトルフォスは近いため➌にまとめています。
なお、後の下線部の数字にも対応しています。


出国 ⇒ヘルシンキ  (2023年12月25日)

旅の手配を済ませた後、火山が噴火しそうと情報が入り、心が揺らいだ。2010年にレイキャビクの東方125㎞で噴火した時は空港が1週間封鎖され空路移動が不可能となったので、もしもそんな事態になったらと頭をかすめる(しかも、今回の火山は空港の南東15㎞と圧倒的に近い)。そして12月18日、ついに噴火。しかし飛行機が飛ばないレベルではなく、どうすればよいのか ますます混乱
現地の旅行agentにメールを送って確認すると、ツアー開始24時間前までのキャンセルなら全額返金するといわれて、逆に心が決まったのが出国2日前。
1997年のロシア以来久々に寒冷地へ向かうため、服装の準備に想像以上に時間がかかった。最大の誤算はスーツケース。冬物はかさばるので、さすがにソフトバッグはあきらめて久々に出してみたら、ローラーが1つ回らなくなっていた 思い返してみると、2016年のボリビア以来使っていなかった。物って使わなくても(いや、むしろそのほうがより)傷むのねぇ・・・
そんなわけで、ひとまわり大きいスーツケースを急きょ購入。従来のメタル製のに比べると軽いけど、大きさに任せて入れると重くなる。持ち上げて突っかかりそうになりながら品川駅の階段をなんとかのぼった、ふぅ

1列が3連席×3の飛行機だったが、混んでいなかったため真ん中のシマを独り占め
北極圏ルートを飛ぶとアナウンスがあり、ヘルシンキまでは12時間と。かつてロシア→タリン(エストニア)→ヘルシンキ(フィンランド)と旅したことがあり2度目になるのだが、その時はモスクワ経由で帰国した。ダイレクトに飛ぶのは初めて。
フライトマップを見たら、羽田を発った飛行機は太平洋を北上している。この後どうなるんだろうなぁ・・・

機内食の後、わりとすぐに照明が暗くなったので、抗わず眠ることにした。3席分使って横になれるのは本当にありがたい。横に人が座る1席使用と同じ料金で、天と地ほどの差
物音と明るくなった感じで目を覚ますと、食事が配られているところだった。ナイスタイミング
再びフライトマップを見たら、目下スカンジナビア半島を南へ向かっていた。軌跡を見たら、きっちりとロシア上空を避けてアラスカ海峡から北極圏に入り ひたすら西へ、そしてほぼ直角に舵(正確には操縦桿?)をきって南下している。冷戦時代にヨーロッパへ行くにはこんな感じだったのかなぁ・・・自分が旅に出るようになった時にはソ連が崩壊していて、何度もロシアの航空会社ア〇ロフロートにお世話になった身としては なんとも不思議な感じがする

1 ヘルシンキ ⇒レイキャビク (2023年12月26日)

飛行機は予定より1時間も早く到着。逆は多いけど、珍しいこともあるもんだ。
そして降機前に北極点を通過した証明書が配られた(この記事を書くにあたり撮影)。すごいことなんだね、ふむふむ。

到着前のアナウンスで外気は-3℃と。乗り継ぐべく空港内をダラダラ歩きながら窓の外を見ると白い。滑走箇所だけ綺麗に除雪されているのだった。
時刻は夜中の3時過ぎ。手荷物検査が始まるまで水を飲みながら待っていると3時20分に窓口がオープン、難なく通過。やたら広い空港で、お店のシャッター街をグネグネと歩かされ、その先に出国審査があった。日本同様に機械もあったが、EU圏外の人間は窓口がマストのようだった。"どこへ行くの?” “何日間?” と軽く聞かれただけでパス。

搭乗口付近の24時間営業のカフェではアルコールも売っていた。スパークリングワインの小瓶もある。いいなぁ・・・
けど、数時間後にはレイキャビクだしなぁ。バス停からホテルまでたどり着かねばならないので、飲むのは断念
搭乗口では日本からのツアー団体(十数人)と遭遇。日記を書きながら聞くともなしに聞いていると、今日はシンクヴェトリルへ行くらしい。1日ズレてるから、この先会うことはないのかも。どこの旅行会社か不明だけど、催行するってことは噴火が収束しつつある、又は観光に問題ないレベルの噴火と判断してるのかなぁ ま、事態が急変しても あちらは会社ぐるみで守ってくれる。こちとら独り身、自己責任で対応せねば。多少不安はあるけど、団体行動苦手だからなぁ・・・幾度も海を越えてきて、初めて登録した「たびレジ」(外務省海外安全情報配信サービス)に用がないことを全力で祈るほかない
1時間ほどして小用に立つ。閉まっていた多くのショップが朝5時をめどに開店し、にぎやかな雰囲気になった。フィンランドの著名キャラクター ムー〇ンのグッズ店や免税店をひやかして時間をつぶす。

9時半過ぎ、ケフラビークに着陸。レイキャビクへはバスで向かうことになっていた。なんとなく空港の外に出たらバスが目に入ったので、バスの外にたたずんでいた係員らしきお兄ちゃんにバウチャーを見せたら即O.K。乗り込んでドライバーにバス停15までと告げたら、blue lineと書かれた青い紙片を渡された。自分が乗ってわりとすぐに動き始めたので、発車間際だったのだろう。座席はほとんど埋まっていた。
空港に降り立った時から感じていたが、午前10時をまわっているのにまるで暗く、夜みたいなのである。車窓は雪山と家々の灯、時折左手に海が見え隠れする(通路席だったので、車窓を撮影できず)。調べると日の出は11時過ぎ、日の入りは15時過ぎという。11月中旬のサンクトペテルブルクでもこれほどではなかった。
高緯度の冬ってすごいわ・・・こんな世界にいると、物の見方というか人生観が変わる気がする。
約45分後、レイキャビク市内のBSiバスターミナルで降ろされると、乗車時に渡された紙片の色のカードを掲げるミニバスに乗り換えるという仕組みになっていた。同乗者たちは三々五々散っていく。待つこと5分くらい、blue lineがやって来た。
バス停をいくつか経由しつつ、20分ほどでバス停15に到着。降りたはいいが、ホテル探しに迷った。海を左手に少々東へ進むことは分かっていたものの、それらしき建物が見当たらない。意を決して怪しい英語で子ども連れの夫婦に尋ねたら、"たぶん向こうだと思う、よくわからないけど” と。お礼を言って東へ歩くが、海から離れるばかり。地図を見直し、進みすぎていることに気づいて戻ってみると、ホテル名の一部を表示する建物を発見。なんと、さっき道をたずねた時に自分が背にしていたのだった。アホらしっ 言い訳をするならば、ホテルの入口が通りに面しておらず無機質な灰色の壁と化してたんだもん。ともあれ、雪が降ってなかったのが不幸中の幸い。

部屋の使用は15時からと聞いていたが、正午前にもかかわらず即入れたのはラッキー
モダンな壁紙、窓の下のヒーター脇にベッドと、コンパクトにまとまっている。

荷ほどきしてしばしリラックス、1時間後に部屋を出た。レイキャビクで一番見たいと思っていたハットルグリムス教会を目指す。
海沿いの道を500mほど東南東へ進むと、前方にハルパ(コンサートホール)が見えてきた。

突き当たりには小さな丘。雪遊びには格好の傾斜だけど、夏には緑生い茂る公園なのかな。

道なりに200mもしないうちに、首相の執務室。質素なうえ警備は軽そうで、驚くばかり。治安の良さの裏返しだろうか・・・

首相官邸の角を曲がり、振り返ってパシャリ 中央奥はオイストゥルストライティ通り。

ロイガヴェーグル通りから南東にのびるスコウラフェルズスティグル通りに入ると、教会を指し示すかのように虹のロードが描かれていた。

政治的なメッセージを発する壁画も。

お気づきでしょうか・・・実は、ホテルを出てまもなく雪が降り始めたのだが、40分後 教会に着く頃にはぼた雪になっていた。
雪の日生まれの自分、つくづく縁があるのかな。シーズンと言ってしまえば身も蓋もないが


教会に到着 聞きしに勝る独特のフォルム(レンズが濡れていて、ごめんなさい)。
【ハットルグリムス教会; 高さ74.5m。この国に点在する玄武岩の柱状節理と、北欧神話の雷神トールが持つハンマーの形をモチーフに1937年から設計したという。1945年に着工、完成は1986年】

中に入り、振り返ると立派なパイプオルガンが鎮座していた【ドイツ人職人ヨハンネス・クライスにより1992年に制作】。

さらに祭壇に近づこうとした時、司祭さんがやってきて「観光は終わり、ミサをやるから」って追い出される。宗教施設だから仕方ないけど、ものの5分とは トホホ
めげずに併設のショップでチケットを買い、エレベーターで展望スペースに上がる。エレベーターをおりて多少階段をのぼると、鐘が備わるスペースに到着。

来し方(北西)を眺めるも、吹雪いていて海は見えず・・・

反対側(南西)はこんな感じ。手前中央の三角屋根はこの教会の。

数日後に再訪決定かな・・・抜け目なく教会のショップでハガキと切手を入手しつつ、去る。
教会前広場に屹立する像にも雪化粧【レイブル・エイリクソン; アイスランド生まれの探検家。10世紀末、大西洋を横断して北アメリカ大陸に到達。コロンブスより500年も早くヨーロッパからアメリカ大陸に渡った人物で、1930年にアメリカから像が寄贈された】。


やおら教会の前にあるカフェへ向かう。ときに14時、通し営業なのでピークを外して訪れたのだが、扉を開けてみてギョッ。人でいっぱい・・・入れないかもと一瞬思ったが、2階へ上がってと告げられる。2階もそれなりに賑わっていたが、少女の店員は愛想よく席に案内してくれた。
外は雪だというのに、冷えたビールを注文。

名物を少しずつ味わえるアイスランディック・プレートが目当てだった。何種類かあるのだが、No.2をチョイス。

スモークサーモン(上の画像左下)は燻製の香りが素晴らしい。鱈のクリームグラタン(画像右下)で身体が温まる。干し鱈(画像中央手前)はまるで日本の居酒屋のよう、2本のうち1本はツマミに持ち帰りたい気持ちをおさえて完食。ラムの冷燻(画像中央奥)、美味っ これまで自分が口にしてきたラム料理の中で一番好きかも。ラムの風味というか特徴は全く消えてるけど、こんなのもあるのかと アイスランドに行ったら是非試してみてほしいな~
最も印象的だったのはハウカットル(画像中央、旗の立つ器入り)【数ヶ月発酵させたサメ肉】。5mm角の立方体ながら強烈。口に入れてブヨブヨした白身ねぇと思っていたら、3秒後に鼻と舌に刺激がツーンときた。生臭い感じではなく、ブルーチーズに似ている。提供された3片のうち2片は普通に食し、最後の1片は実験してみたら、口内の刺激は10秒ほどで消えた。
なお、スモークサーモンとタラのグラタンの下に敷かれているのはチョコパウンドケーキ。辛党としては黒パンがよかったな~ でも、このお店はカフェだしね
カフェの窓から望む教会。自分の席は窓際ではなかったが、お客が退出した後に撮影。


1時間余りで暗くなってきている(9枚上の画像と比較してみてください)。

歩いてきた通りを逆戻りしながら くだる。市内随一の観光スポットだけあって土産物屋が軒を連ねていたが、さすがに入国初日に眺める気はせず、目を楽しませるだけとする。

美しい霧氷。

オイストゥルストライティ通りの途中で左折。市庁舎はタリンのそれを思い出させた(後日、市庁舎ではなく その手前の教会と気づくのだが)。

再び通りに戻り、酒専門店vinbudinをチェックしたが、閉まっているようだった。

というわけで、スーパーでライトビール(2.25%)とナッツ、水をゲット【アイスランドでは1915年から禁酒法が敷かれ、1922年にワイン、1935年に蒸留酒、1989年にビールと段階的に解禁された。その名残でアルコール類の販売が現在も厳しく制限されている。禁酒法の対象外だった2.25%以下のものしかスーパーでは扱えず、それ以外は国営のvinbudin(日曜は休業)で買うしかない】。ビールの度数にこだわりがない自分、全然問題ない
16時前、ホテルに帰着。窓の外は暮れてきている。


オーロラツアーのピックアップは20時半だった。それまでにシャワーを浴びたいと思いつつ、眠気にやられてベッドの上で2時間ウトウト
入国初日に夜遅いイベントはキツイなぁ・・・機内で横になれて、わりと眠れたからよかったものの。
氷点下の世界で髪が濡れていたら大惨事になるので、ドライヤーで丁寧に乾かす。身体のあちこちにカイロも貼って準備万端。しかし、あまり早く行くと待つ間に身体が冷えるから、5分前でいいや・・・とホテルのロビーで時間をつぶす。すると、同じバスで空港からやって来た女子2人組(華人系と思われる)が先に出ていった。15m先で彼女たちを乗せてミニバンが走り去るのを見て、嫌~な予感がした。15番のバス停には誰もいない。時計を見たが、20時半にはなっていない。置いていかれたのかもと思いつつ、一縷の望みをかけてしばし待つ。
15番のバス停はレイキャビク湾のそばに位置し町外れなこともあり、周囲は静かな雪の世界が広がるばかり。怪しい人など通らず、治安が良いのがせめてもの救いだった。
20分ほど待って、やって来たdrop off(客を降ろす)バスのドライバーにバウチャーを見せながら声をかけると、“会社が違うよ” と言われる。気が動転して、それすら頭から飛んでいた 一旦ドアは閉まったが、すぐに開いて "今夜は天気が良くないから、たぶんキャンセルになるんじゃないかな。旅行社に連絡してみなよ” と言ってくれた。全然違う会社なのに、優し~い なんだか救われた気持ちになる。
そういえば、教会前のカフェで食べている途中でウェイターが "味はどう?” って聞いてくれたし、私の右隣りの席のプエルトリコ人と会話が盛り上がってたしな~ あまり人種差別がないのかな。だとしたら、アイルランドに似てるかも。

ホテルへの帰りがけにパシャリ

部屋に戻り、晩酌に先立って旅行社にメールを打つ。自分の英語力では、電話で会話するのが難しいので 日本で予約等のやり取りをしていた時からそうなのだが、このtravel agentは日本語でメールを送ってもアプリで翻訳をかけて理解し、返信をくれるから楽で助かる。ピックアップ時刻前から待っていたけど迎えが来なかった旨を伝え、今後どうなるのか、自分は12月30日に再度鑑賞に行く時間があるがアレンジしてもらえるのか?と送った。
ひとまず、今宵やれるべきことはもうない。賽は投げられた気持ちでさっぱりとして、先ほど入手しておいたアイスランド産のライトビールに口をつける。


1・2・3・1 レイキャビク ⇔(シンクヴェトリル ⇒ゲイシール ⇒グトルフォス) (2023年12月27日)

前夜は予定より早く23時過ぎに消灯。夜中の物音も皆無で、しっかり眠れた。
起きてすぐメールを確認するとtravel agentから返信が来ていて、事情は分かったから30日にツアー参加できるように交渉してみるとのことだった。ホッ ただし、決められた時刻の30分前にはpick upポイントにいることを勧めています、とな。え~っ 事前に送られてきた書類にはそんなの書いてなかったと思うけど。
てことは、今日のゴールデンサークル日帰りツアーも9時じゃなくて8時半にはバス停にいなきゃってことね 急がねば。
朝食バイキングは野菜も果物も摂れて、うれしい

卵のタルタルにツナ。ジャムやバター以外のパンのおともがあるとは、辛党には最高

支度を整えて8時20分にロビーで時間をつぶしていると、昨日も見かけた2人組女子が現れてすぐに出ていく。え~っ
慌ててコートを着て、追いかけるようにホテルを出る。レイキャビク湾(旧港)はまるで夜な光景だが、確かに朝なのである。


8時半より前に15番のバス停に到着すると人であふれかえっていて、前夜とは比較にならない混み様だった。はあぁ・・・これがバス停の待ち合いなのね。たしかに、早めに来ないと はぐれてしまうかも 
次々とワゴンがやってきては、ドライバーがペーパーを見ながら名前を読み上げる。前日、私も連呼されてたんだろうか(冷や汗)
片手では足りないほどワゴンを見送った頃、バウチャーに書いてあるtravel agent名を書いたワゴンが来たのでドライバーに尋ねたら、目的地が違うようで “後から来るよ” と。
結局、9時2分に迎えが来た。件の2人組女子とは全然違うツアーだった、思い込みって怖いねぇ
15番のバス停を発った後、市街のバス停をさらに3ヶ所まわって客を乗せ、数が合わないからとあらためて点呼された。総勢19名のうち、名字からして日本人はイトウ君と2人の模様。結局最後まで喋ることはなかったけど、20代後半~30代前半の小柄な男性だった。
車窓を眺めていると、ほんのわずかではあるが明けてきた。

光る物体を発見(ピンボケでごめんなさい)。本物の木にクリスマスツリーのイルミネーションをほどこしているっぽいなぁ。

空と大地が見分けもつかない道を進んで行く。暗さのせいばかりではないだろう、全部が白いのだ。


1時間20分ほどで、最初の訪問地シンクヴェトリルに到着。第1駐車場で降ろされて、 "11時に第2駐車場に集合”と告げられる。予想通り、運んではくれるけど現地は自由見学のスタイルなんだね。なお、ドライバー兼ガイドのおじいちゃんは母語じゃないのかもと思うくらい英語がたどたどしい。流暢なのは耳トンネルしてしまう自分にはちょうどいいんだけど 
貸し出された簡易アイゼンを装着し、歩き始める。下の画像奥、明るいのは土産物屋を併設するビジターセンター(物色したかったが、時間がなくスルー)。

湖の向こう側から明けてきている。画像奥がユーラシアプレート側。

大地は雪で覆われている。

高所から見下ろす景色。この地で世界最古の議会(アルシング)が開かれたとは・・・
【アルシング; ノルウェーから入植したアイスランド各地の人々の代表(30名程)が集まった全島集会。930年から1798年まで続いた。毎年夏に数週間開かれ、法の制定や裁判がおこなわれた。西暦1000年、ノルウェーの圧力によりキリスト教の受容を決定するなど重要な判断をした。1798年にデンマークの支配下に入ると中断したが、1944年に独立を果たすとこの地でアイスランド共和国の樹立を宣言し、以後は議会の場をレイキャビクに移した】

両側を崖に囲まれた通路を降りていく。この崖がギャウとよばれる大地の割れ目【ここシンクヴェトリルはユーラシアプレートと北アメリカプレートの2つの境目に位置し、1年に2~3cm各プレートが東西に広がっているという。画像左が北アメリカプレート側】。

通常ギャウは海底にあり、地表に現れているのは世界で2ヶ所のみ(あと1つはアフリカの大地溝帯)。非常に稀有ということで、世界遺産に登録されている。ただし、自然遺産ではない。既述した世界最古の議会開催の地ということも踏まえて、文化遺産である。


可愛い5連の家と教会にズームアップ。

水溜まりは凍っている。

よく見ると、中が凍っていない箇所もあった。


次は東北東40㎞ほどのゲイシールに向かう。その途中、えもいわれぬ色の空と月を車窓に見た。

正午過ぎに到着。駐車場を出て近づくにつれ、硫黄のにおいが漂ってくる。

地熱で雪が解け、土が現れている箇所もある。


かと思えば、雪の中から蒸気が立ち昇る所も。

間欠泉の前には人だかりができていた。

なんとも不思議な光景・・・

なお、コインを投げ込まないでと注意書きあり。水(この場合はお湯か)に投げ入れたくなるのは人類共通の傾向なのかなぁ・・・

地熱蒸気の雲海の向こうで、間欠泉が上がった(下の画像、中央奥)

素敵な手描きのサインボードを発見【細かい話になるが、以前は頻繁に噴き上がっていたゲイシール間欠泉は活動が緩慢になった。現在5~10分に1度、20~30mの高さで噴出しているのはそのすぐ傍のストロックル間欠泉である。1枚上・4枚上・3~4枚下の画像はそれ。一帯をゲイシールと総称することもあるようなので、この記事ではそちらを採用した】。

この国に来て初めて、青空を垣間見た。

違う方角を見ると薄暗い。

最後、間欠泉を近くで撮影しようと人だかりに加わり、今かいまかと待つ。

結論から言うと、寒さのため手袋なしでカメラを構えているのがつらくて、吹き上がる瞬間の画像は撮れずじまい 一番マシな画像がこちら。

足元の装備は自前でね、の看板。

雪原なのに、下に脈々と熱きマグマが流れているのが不思議。見えぬものでも あるんだよ・・・金子みすゞを地で行く世界。

レストハウスでポストを発見。前日到着したばかり、さすがに書けてないので葉書は投函せず。

1時間10分後の集合で、わりと時間があった。昼食休憩を兼ねているのだろうけど、12時台のレストランは人であふれかえっていて、順番を待つ間にタイムアップになるのは明白だった。腹ごしらえは早々にあきらめて、広い土産物屋をひやかして時間をつぶす【シーズンの夏はもちろんのこと冬も観光客が多いので、チョコバーやクッキーなどの非常食を鞄にしのばせておくとよいかもしれません】。

第3目的地に向かう途中、アイスランディック・ホースにまみえる。どっしりとした体躯に比して、足は短い。体温を奪われないよう超寒冷な環境に適応した結果がこれなのだろう。
【9世紀後半~10世紀、入植者によって持ち込まれた。982年、アルシングにおいて他の馬の輸入を禁じたため長らく交配せず、血統を守っている。体高は135cm~】

車窓の端に滝の上部がチラリと見えた(下の画像の右中央)。

と思ったら、グトルフォスに到着した。ゲイシールからは10㎞ほどで、拍子抜けするほど近かった。
バスから1歩出て風の強さにたじろぐ。帽子を飛ばされるのではと、入国以来初めて危惧した。
人だかりの向こうが景勝ポイント。

さらに上から眺めようと高台にのぼる。滝の反対側、来し方はこんな感じ。

グトルフォスの滝。夏は渓谷の緑が美しいんだろうけど、雪の中を滝が流れ落ちている・・・これはこれで絶景。いい意味で期待を裏切られ、結構気に入った


高台の奥に土産物屋が目に入ったが、ここでの滞在時間は45分しかなく、あきらめるほかなかった。コンパクトさの一方で、こーいうところがツアーの残念な部分
後ろ髪引かれつつ滝を後にして、30分ほどで牧場に到着。ここでのアイスクリームがツアーに含まれていた。外観はシンプル。

が、扉を一歩くぐると愛らしいインテリアの空間だった。

座布団1枚な一言も掲げられている。

辛党の自分だが、昼食抜きの身ゆえ美味しくペロリ 
自分にとって初めての氷点下の体験、11月中旬のロシアはサンクトペテルブルクにてアイスクリームをなめる子どもを見た時も思ったけど・・・震えるほど寒いのに、アイスの需要があるのが不思議でならない

ここから1時間半、西南西のレイキャビクに向かってワゴンはひた走る。午前中からちょいちょい思っていたのだが、極北の空はひたすら美しい。今日はちらとも雪が降らなかったから、昨日よりも天気が良いのだろう。空と雪原の境界が溶け合うような光景を初めて見た(空と海のそれは他国で何度も目にしてきたが)。その名のとおり雪深い国なんだなぁ・・・

そして、明日同じ道を通ったとしても同じ景色が見られるわけではないだろう。本来の使い方とは違うかもしれないが、Tomorrow is another day. 大自然に囲まれていると、同じ日の繰り返しなどないのだと思わずにはいられない。眼前に広がる一期一会を目に焼きつけて進む。

16時半、15番のバス停で降ろしてもらう。バス停から望む旧港には月が出ている。

ガイドブックに載っていた地ビールのお店が近いので、その足で向かう。が、つぶれてオーロラ館になっていた。
その付近で見かけた犬。

出鼻をくじかれ、港沿いに南東に歩いてこれまたベイエリアのお店をのぞくが、思いのほか客がいて入りにくい。
港の夜景をカメラに収める


最終手段は泊まっているホテルのレストランかもと思いつつ、やはりまたガイドブックにあった伝統料理のお店へ向かう。が、これもパン屋に変わっていた。さっきのお店といい、コロナの影響で閉めたのかなぁ(自分が持っていたガイドブックは2019年2月発行。これより新しい本は当時売られていなかった)
レストランを求めて、オイストゥルストライティ通りまで来ていた。道を左に折れてうろついていると、クリスマスカラーなライトアップが目を引いた。


この日は酒専門店vinbudinが開いていて人も入っていたが、なんとなく素通り。前日も入ったスーパーでライトビールを入手。重くなったので、ビールを置きに一旦ホテルへ戻ることにする。ついでにトイレで用を足して、衝撃の事実が判明。生理が始まってしまった 3日後に訪れる予定だったスカイラグーン、無理だ【レイキャビク近郊のコーパヴォグルに2021年オープンした地熱スパ】。マジか・・・こんなに予定がズレるなんて滅多にないのに。信じられない
落ち込んでばかりいられない。ナプキンの用意がなかった。翌日から1泊2日のツアーに出かけると自由時間は少ないし、地方都市がどんなだか不明だし、今買っておかないとマズイ。
心当たりのドラッグストアへ急ぐ。レジにいた若い店員(20代と思しき女性)にsanitary napkinsと伝えるが通じず、何だろう?とキョトンとされる。スマホで検索するのもかったるく、お腹に手を当てて下へ移動しつつbloodと言うとピンときたようで、売り場に案内してくれた。ふぅ、通じてよかった 
このお店、先ほど地ビールのお店を探していた時にたまたま目に入っていた。ダウンタウンでは同種のお店を見かけていなかったので、存在を知らなかったら困り果てただろう。そして、自分が商品を選んでいるとオーナーらしき女性がやってきて私を一瞥した後、openと表示する電光掲示板(下の画像、中央)を消した。18時閉店か・・・色々な意味でラッキーだった(その後、何度も出入りしているスーパーにも売っていることに気づいたが、圧倒的に値段が高いのだった。なお、自分が思いつかなかった英単語の正解はfemale hygiene itemsだった。アメリカでは自分の言いまわしでも通じるようだが、ナプキンよりもpadsのほうがベターみたい)


次は夕食である。出がけに見たホテル内のレストランは混み始めていて、避けたい感じがした。前日来 幾度となく前を通り過ぎ、気になっていたお店に足を運ぶ。
それなりに客は入っていたが、空席もあったので意を決してドアを押す。窓越しに目が合いイカツイと思ったお兄ちゃん店員(短髪にヒゲがたくましい)は意外に愛想がよかった。
ローカルビール(1,400kr≒1,652円)を飲みながら料理を待つ。

フィッシュスープはクリームベースにレッドカレーペーストを混ぜたような味わい。具はムール貝2個に白身魚。パンが付くとはいえ、これで2,600kr(≒3,068円)は正直高いなぁ 【この記事を書くにあたり調べたところ、レイキャビクは生活費の高い都市ベスト10に入っており、中でも外食代が高いらしい。その理由は、寒冷地ゆえ食料品の多くを輸入していること、人件費が高いこと(アメリカに次ぎ世界2位)等が挙げられる】

食事中、アイスランド人と日本人と思われる夫婦が娘連れでやって来て、会話が聞こえる距離に座った。日本人妻と娘はガッツリ日本語でしゃべっていた。夫のほうは私をジロリと見たのだが、はて何人と思っただろうか。この国に来て国籍を問われた際に日本人と答えてもさほど驚かれないので、気づかれたかもしれない

19時前、ホテルに帰着。翌朝発つと思ったらにわかに名残惜しくなってきて、ロビーを撮影。

ツリーに吊り下げられているオーナメントは手編みで温かみがあった。国旗のモチーフ、意外に珍しいのでは。

暖炉の前に陣取るは等身大に近い木製人形。

可愛いサンタクロース


★ 中締め ★

次篇ではレイキャビクを離れ、1泊2日でアイスランド南部をまわります。
今篇以上に雄大な景色をお届けしますので、お楽しみに
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マレーシア篇 その4

2024年09月29日 | アジア
いよいよマレーシア篇も最後です。この記事では、以下の地図の➍と➊を訪れました(なお、プトラジャヤはクアラルンプールに近いため➊にまとめています)。
また、後の下線部の数字にも対応しています。

4・1 ジョージタウン ⇒クアラルンプール (2020年1月1日)

前夜は夜ふかし
カウントダウン・パーティーの音が1時過ぎまで聞こえていたので、日記を書いて過ごした。
自前のビールが尽きた後はcomplimentaryのジン、そしてウオッカをトニック・ウォーターで割りながら

8時ころ目覚め、まず窓を開けてみる。ん~ 朝の陽光がさわやか


朝食をとるため、新館(victory annex)のSarkiesへ向かう。白い廊下はピッカピカに掃除されている。



会場の様子などさすがに撮れないので魅力を伝えきれないのだが、たぶんこれまでの人生で最も贅沢な朝食ビュッフェだった
中華料理コーナーでは麺類をオーダーできるみたいだったし、パンや果物も種類が豊富、インド料理コーナーも充実。マレーシアの朝ごはんの定番、ナシッ・ルマはおにぎり2個大の米を葉で包んで蒸してあった。さすがに多すぎるのでパスして、中華式お粥を2杯いただく(画像は撮っていない)。非パン党の自分にとって、お米にありつけるのはホントありがたや~


朝からキッシュ

左端のモルタデッラは柔らかい舌触りに えもいわれぬ香り・・・


部屋に戻りがてら、前夜のパーティー会場の横をかすめる。

椰子の木の合間、道教の赤い祭壇がここはオセアニアじゃないよと主張している

このホテルに滞在した著名人たちの写真が飾られているコーナー(鏡にチラ写りする自分にモザイクをかけた)。
不勉強で大半が誰やら分からないのだが、孫文とチャップリンは認識できた。

ドリアンとマンゴスチンは禁止とな。カンボジアの部屋でドリアンを食べた翌朝、下水道の不調かと思ったら種が異臭を発していたのを懐かしく思い出した。面白すぎる 
てか、マンゴスチンもそうなのか 知らんかった・・・

この日は、夜までにクアラルンプールに戻ればよいという緩~いスケジュールだった。なおもこのペナン島を歩きまわることもできたが、それまでの2日半で充分満ち足りたという思いが強かった。
よって、チェックアウトの12時まで部屋でのんびり過ごすことにした。詰め込み魔の自分にしてはかなり稀有なパターン
前日は全く気付かなかったが、ベッド横の壁に何かを発見。

なんと、呼び鈴 在りし日の宿泊者たちの様子を勝手に妄想する・・・が、人を意のままに操るなど自分には縁遠すぎる異世界

紅茶を淹れて飲みながら、荷物をパッキング ←のんびりソファに座って堪能できないあたりが貧乏性
部屋備え付けのお茶缶たち。ラインナップに煎茶があるとは心憎い。
なお、売っていないかと後で館内のショップに行ってみたが同じのはなかった、残念 (それもそのはず、この記事を書くにあたり調べたところアメリカはニューヨーク生まれのメーカーだった


部屋を出る前、最後に再び窓に近づく。そう、旧館(heritage wing)にはベランダがないのだ。


前日の夕方から刻々と異なる表情を見せてくれたアンダマン海に別れを告げる。

ロビーにはクリスマス感が漂う。

ツリーの奥はこんな感じ。

チェック・アウトを済ませ、フロントにタクシーを呼んでもらう。待つ間も館内をキョロキョロ
その昔このホテルで使用していたと思われるお皿が展示されている(ガラスに写る自分にモザイクをかけた。通常はショッキングピンクで塗りつぶしているが、雰囲気を損なうと思い茶色にしてみた)。

下の画像、右に見ゆるは旧式のエレベーター。

アップで撮るとこんな感じ。

欲を言えば、ユニークなサファリ制服に身を包むベルボーイさんをカメラに収めたかったけど、勇気が出ず

フェリーターミナルへ向かう道中、タクシーのドライバー曰く 正月休みの人々が都会へ戻るから今日は混んでるよ、と。クアラルンプールへ向かう人が多いのかと尋ねると、他にもイポーやジョホール・バルへ行くのだという。日本と同様に、年末年始は帰省する習わしがあるのね。鉄道のチケット取れないはずだよ~
橋が架かる前の島民よろしく、フェリーでバタワースに渡ってクアラルンプールへ向かう。鉄道じゃないのが一抹の心残りではあるけど、古めかしい行程に準じてみた。
混雑の情報を聞いて、ふとマラッカへのバス便を待った数日前の記憶がよみがえる。1~2時間レベルで待たされるのかと思いきや、10分後の便から選び放題だった。供給が潤沢なようでラッキー
30分後発の便をチョイスし、待つ間にバスターミナル併設のショップでお土産のお菓子を購入。シャレで職場向けに買ったドリアンチョコ、さっそく鞄の中でかほりが漂っている感じ
(フラ仲間に買ったスタンダードなチョコは先生がいたく気に入ってくださった。ドリアンのは同僚からさして反応がなく、可もなく不可もなくなのか もし興味を持たれた方がいらっしゃったら、Beryl’sのチョコレートをお試しあれ)

クアラルンプールまでの数時間、この日の夜と翌日の行き先を考えながら過ごす。
なんとなく車窓に高層ビルが増えたなと思ったら、もうバスステーションの近くだった。結局バタワースから所要4時間40分、17時40分に到着。
この当時は19時半くらいが日没。明るいうちの到着でホッ
往きにKTMの遅さに懲りたので、迷わずKILA transitをチョイス。本日から2泊する宿の最寄りはKLセントラル駅。巨大な駅ゆえ反対側に出てしまうとサイアクなのだが、「ヒルトンホテルの反対側」を目指してあっさり解決。NU Sentralという大きなショッピング・モールの中をすり抜けてKLモノレール駅への道の途中で外に出ると、かなり高層のホテルが遠目に見え、いとも簡単に到着。やったね
ネット予約の画面を見せるまでもなく、パスポートのみでチェック・インが完了。
と、そう広くもないロビーで日本語が聞こえてくる。中学生らしき生徒たちを引率している教員が何がしか喋っているようだった。日本から比較的近くて海外経験を積むことができる、修学旅行先にはいいかもなぁ・・・時代だから仕方ないけど、20歳が初海外の自分にとってはうらやましすぎる
この旅最後の部屋は超シンプル。日本でいうなら東京駅付近に泊まるようなもの、狭いのはやむをえない。が、ダブルベッドなので専有面積がハンパない。どうやらこの国ではダブルが基本のようで、1人泊で予約してもシングルやツインの部屋に通されることはなかった。
そしてまた、この国でスタンダードな固定のシャワーヘッドだったが、すぐにお湯に切り替わる。率直に言ってホテルの外観は古びていたが、実利あれば良し

18時半過ぎ、ホテルを出る。マレーシア滞在もいよいよ大詰め、食事もカウントダウンが始まっている。チャイナタウン南のニョニャ料理店を選び、クラナ・ジャヤ・ラインで1駅のパサール・スニで下車。6日前に泊まっていたとはいえ足を踏み入れていないエリアにあるお店に向かう途中、ややさびれている感じがした。暮れかかっていることもあり、時折後ろを振り返りながら慎重に歩く。
遠目にお店はつぶれたのかと思ったほど、アピールはゼロ。でも近づくとopenの札が出ている。恐るおそる扉を開くと、あっさり通してくれた。19時で先客は3組。
店内にはレトロな冷蔵庫があったり、昔の写真が飾られていたり。


迷いつつチョイスしたニョニャ・ラクサは大正解 【海老のスープをベースに、スパイスとココナッツミルクを入れて煮込んだ麺料理】
辛いラクサにココナッツミルクが加わることで、自分好みの味わいになっている。一瞬 油条と見紛った厚揚げ(画像手前)は美味。画像には写っていないが、そのほかに鶏胸肉・カマボコ・モヤシが入っていた。麺は素麵のような極細のと、中華麵の2種入り。このお店にしてよかった

去り際、華人と思しき店員さんがお釣りを渡しにきてカタコトで "ありがとう” と。そっか・・・日本人とばれてたか。心の中でペロリと舌を出す。中国人と間違われることの多い自分、いつの頃からか どう見られるか面白がるようになった

食後はRiver of Life KLを見ようと決めていた。お店から500mほど北の方角を目指して、セントラル・マーケットの中を通って進む。5日前に下見したけど、ここにたどり着くまでの間にマラッカで・ペナンでお土産をほぼ入手してしまったので、結局買わずじまいだった。
パサール・ベサール通りに架かる橋の上から、50m北方を眺める。ここはクラン川(右)とゴンバック川(左)の合流地点で、クアラルンプールという地名由来の場所である。
【19世紀までジャングルだったこの一帯だが、1850年代に錫の鉱脈が発見されると中国人が入植。2つの川の合流地点に最初の集落をつくったらしい。錫を川で洗ったら水が泥のように濁ったといわれ、クアラルンプールとは「泥の川の合流地」を意味する。River of Life KLは、2本の川の浄化プロジェクトの一環として川面をブルーに照らすライトアップと、音楽に合わせた噴水ショーを毎晩実施している】

もう少しズームアップ。三角洲に建つはマスジッド・ジャメ【1909年にイギリス人が建築、市内最古のモスク】。
綺麗だなぁ・・・クアラルンプール最初の夜に失念しちゃったけど、リベンジする機会があったのはラッキー この町の原点を訪れずして去ることになっていたら、無念すぎる。

21時過ぎに始まる噴水ショーを待つのはさすがに難しく、退散することにする。
パサール・スニ駅へ戻る途中の果物屋さん。人通りを当て込んでいるのだろう、付近には他にも露店が出ていた。


例によって、帰り際にコンビニでゲットしたビールでがっつり晩酌。
柑橘の香りが効いてて美味しいな~ 帰国後にリピ買いするほど気に入った1664 BLANC。

この国で何度も口にしたtigerだけど、クリスタルは特別バージョンらしい。ビールの味音痴な自分にはあまり違いが分からなかったけど


1 クアラルンプール ⇔プトラジャヤ (2020年1月2日)

8時過ぎに起きて部屋の窓から外を眺めると、前日に通り抜けた巨大なショッピング・モールと林立するビルに囲まれている。
しみじみ、都会のど真ん中だなぁ・・・

そして、KLモノレールがバッチリ見下ろせる。

朝食は、汁物代わりの温かいビーフンから。青梗菜がうれしい

自分にしては珍しく、朝から肉に手を出す。


この日はまる1日時間があったので、少しだけ遠出することに。KILAトランジットに乗り、クアラルンプールの南25㎞にあるプトラ・モスクを目指す。
30分ほどで最寄りのプトラジャヤ&サイバージャヤ駅に到着。目的地へはさらにタクシーで10分かかる。駅を降りタクシーの表示に従って歩くと、構外にカウンターを発見。
ドライバーらしきインド系のおじちゃんがものすごい勢いで話しかけてきた。帰りのアシを確保しておけとガイドブックにあったので 往復でいくらか尋ねると、まずカウンターで2RM払えという。後はメーター制なんだそうだ。たしかにカウンターの貼り紙をよく見るとそう書いてあったので、素直にカウンターで支払う。受け取ったレシートをドライバーに渡し、乗って到着したら往きの運賃をまず支払い、待っていてもらって最後降りる時に復路のお代を渡すのだという。面白いな~ 
ちなみに、往きは10.2RMだったけどおじちゃんが端数をまけてくれて10RM、帰りは10RMジャストだった。

水辺に構えるピンク色のプトラ・モスク、青空によく映えている

付近は整備が行き届いている感じで、小綺麗。スリランカでいうスリジャヤワルダナプラコッテのように、ここは行政機能が集中している場所らしい。
【1990年代半ばから建設開始。「未来型エコシティ」を標榜し、エリアの38%を公園・湖・湿地帯が占める。人造のプトラジャヤ湖を囲むように、首相官邸をはじめとする行政機関が並び立つ】

いよいよ中へ【事前に調べたところ ムスリムでないと入場できないという誤情報が散見されたが、宗旨は関係なく入れるのでご安心を】。
さて、下2枚の画像をご覧ください。お気づきでしょうか・・・見学時に貸し出されるローブも濃いローズピンクというこだわりっぷり 
私もフードを頭からかぶり、ダルマ はたまた てるてる坊主のようなフォルムで見学しましたとも。恐ろしくて画像など載せられない、トホホ


内部も徹底的にピンク、ピンク、ピンク

観光地としてもメジャーらしく、バスが何台もやってきては中華系の人々を降ろし、賑わっていた。が、タクシー乗り場はない。
【プトラジャヤ&サイバージャヤ駅以外の所からタクシーで来て普通に降りてしまったら、帰りは歩くしかないだろう。最寄り駅を経由せず訪れる場合は注意が必要かも】

同じルートをたどって、正午ころKLセントラル駅に帰着。6日前に休日で振られたマスジッド・ジャメへ急ぐ。中休みがあるため12時半までに訪れないと、次は14時半以降になってしまうのだ。クラナ・ジャヤ・ラインに乗り換えて2つめ、その名もマスジッド・ジャメ駅へ。初めて降りた駅だったが、迷うまでもなく目の前に目的地があった。6日前には閑散として若干治安が悪そうに見えた付近は、モスクが開いているとガラリと雰囲気が変わり明るかった。なお、ここは前夜ふたつの川の合流地点に浮かび上がっていたモスクである。

受付で氏名・国籍・人数をノートに書かされる。書いている最中にJapanかと聞かれ、肯定する。今回このパターンが多かったな・・・華人系が3大勢力を占める国だから、違いが分かるらしい。中国人に間違われることがなかった、自分の旅史上ではレアケース。
ここでもローブをかぶる。ジョージタウンのカピタン・クリン・モスクにて この国に来て初めて羽織る洗礼を受けた際は暑さに閉口したが、もはや慣れてきた。マレーシアのモスクでは着衣指導が厳格。郷に入れば郷に従うまで
壁はレンガ造り。短パンの男性観光客たちは腰にバティック布を巻き付けている。

床は大理石。

装飾は控えめでシンプル。

モスクの北に垣間見えた古そうなドーム。旧連邦調査ビルのようだ。


次はエステに向かう。マレーシアでも体験してみたいと思い、ホテル内のスパに予約なしで飛び込んでみることに。
再びクラナ・ジャヤ・ラインに乗り3つめ、KLCC駅で降りる。首都随一の高層ビル街はさすがに巨大で、初めて踏み込んだエリアにとまどいつつ 地図を見ながら西へ進む。
無事たどり着き、ロビーにいたホテルマンに用件を伝えるとスパまで連れて行ってくれた。親切
スパの受付にはマレー系の男性スタッフ(30代前半くらい)が1人いて、メニューは何にするかと聞かれる。やはり、traditional Malaysianでしょう
すると、エステティシャンは男性しかいないけどいいのか?と問われる。ん そのメニューができるのは男性施術者しかいないということか、そもそもこのスパには男性スタッフしかいないということか?? 一瞬量りかねたが聞き返すほどの英語力もないし、プロであれば性別にこだわりはないので、もちろんYes.
今度は私の方から 何時なら施術できるか?とたずねると、僕は今空いてる、と。
ややっ まさかすぐに可能とは思っておらず、自分としては予約して一旦退くつもりだったので率直にビックリ あ、さっきのは今対応できるのは男性スタッフのみという意味だったか、なるほど・・・ともあれ、暑い中また歩いて戻って来るのも面倒だし、すぐに始めてもらうことにした。 
準備があるからと、プール前のソファでしばし待たされる。竹の装飾がほどこされた空間は、外気が通る構造になっている。


こちらが施術室。

共用の更衣室はなく、施術個室内にクローゼットがあり服と荷物を入れて鍵をかけるようになっている。使い捨ての紙パンツを履き、浴衣のようなものに着替えて待っていると、頃合いを見計らって先ほどの男性エステティシャンが入ってきた。
指示されるがまま、台(上の画像右)にあがって腹ばいになる。"マレーシアに来たのは初めて?” などと穏やかに会話しながら、背面から施術がスタート。
結果的に、お尻の半分まで紙パンツを剝がれた・・・イスラム教徒の女性だったら、ありえないんだろーなぁ。見ず知らずの男性と薄着で個室にいるので、大概恐れ知らずの自分もさすがにどうだろうと思わなくもなかったけど、それも一瞬のことだった。内側からは鍵がかけられない扉だし、ちゃんとしたホテルの中だからねっ ←これが主な理由で、あまたあるスパの中からここを選んだ
時間にして開始20分後くらいか、足の裏側を揉まれている時にうっすら意識を飛ばしかけたけど、最後まで眠ることはなかった。いつもは寝オチするのに・・・なんだかんだいって緊張してたのかな
どのあたりがマレーシアなのか素人にはよく分からなかったけど、力強いプッシュで しっかりほぐしてもらえた。凝り人にはラッキー 60分・238RM(≒7,000円)也。

来た道を戻り、スリアKLCC(ペトロナス・ツイン・タワーの6階までを占めるショッピング・センター)に入る。
こちらがクアラルンプールの象徴ともいわれるぺトロナス・ツイン・タワー(往きに撮影)【88階建て、高さ452m。タワー1を日本の企業が、タワー2を韓国の企業が建設した。マレーシア国営の石油会社ペトロナスの本社が入る。41階・42階にスカイブリッジが架かり、86階に展望スペースがある】。

中は吹き抜けになっている。

お正月らしい装飾。十二支は親近感ある、さすが中国文化圏だな~

この国最後の夜は、barで夜景を見ようと決めていた。その下見も兼ねてKLCCに足を運んだのだが、目星をつけていたお店はツイン・タワーの目の前すぎると判明し、他所へ行くことにする。やっぱ下見って大事だなぁ

再びクラナ・ジャヤ・ラインに乗り、途中KLモノレールに乗り換えてブキッ・ビンタン駅で下車。伊勢丹で高級めのチョコレートを買い、お土産をコンプリート。
さらに地下の中華料理フードコート(ロット・テン・フートン)で間食。といっても辛党なので、スイーツではなく牡蠣オムレツ【発祥は台湾とも福建省ともいわれる】。

荷物を置きにホテルへ一旦戻ると、17時前だった。
ツイン・タワーが見えるbarを検索し、18時に外出。再度ブキッ・ビンタンに降り立った。なお、この辺りは日本でいう原宿≒若者が多いスポットなんだそうだ。

伊勢丹とは道路をはさんで逆サイドにあるショッピングモール、パビリオン。アジアンテイストな噴水が素敵

その北にあるホテルの59階が目的地だった。予約なしで入れるかドキドキしつつ、エレベーターで上がる。
「暗くなる前に作戦」が功を奏し、庇の下のテラス席をゲット。際のテーブル席(下の画像)には通してもらえなかったが、途中から雨が降り出したので 結果的には濡れずに空中感を味わえるベストな場所を確保したことになる
日没まで1時間くらいなので、さすがに明るい。ツイン・タワーへの距離感がいい感じ

まずはマルゲリータ。18~21時に半額サービスで27.5RM(≒810円)也

グレーの空に映えるツイン・タワー。

西の方角にはKLタワー【421m、通信塔としては東南アジア1位の高さを誇る】。

迷ったが、2杯目もマルゲリータを注文(まだ半額)。

暗くなるほどに浮かび上がってくるタワー。

なお、東の方角は一転して高層ビルが少なめ。

3杯目はロゼワイン 45RM(≒1,323円)。

いつのまにかKLタワーが青に。

この年齢になったからこそ、こんな楽しみ方ができるんだろうなぁ・・・20代の自分だったら贅沢だと一刀両断、来ないな。
とはいえ昼間歩きまわって汗でベタベタのデニムにTシャツ、当時とさほど変わらない格好なのはこのさい棚に上げておこう

それにしても・・・クリスタルのように内側から放たれるこの透明感
これまで夜景にさほど興味がなく、日本も含め各地で追いかけてはこなかったので比較が難しいけど・・・クアラルンプールに泊まるなら、是非にとオススメしたい。



1 クアラルンプール ⇒出国 (2020年1月3日)

この日14時半過ぎの飛行機で帰国することになっていた。
8時過ぎに起きて朝食。敢えて前日とは異なるメニューを選ぶ。画像左からミー・ゴレン、ナシッ・ルマ、お粥・・・炭水化物のオンパレード

10時過ぎにホテルを出て、宿題のように残っていた国立モスク(マスジッド・ネガラ)へ向かう。何度となく乗ったクラナ・ジャヤ・ラインのホームにて。

たった1駅のパサール・スニへ向かう途次、目を引かれて思わず車窓からパシャリ クアラルンプール駅である【1910年、イギリス植民地時代の建築。2001年、KLセントラル駅が開業するまでは首都の中央駅だった。現在この駅に停車する列車は少ないものの、今なお現役】。

上の画像に引き続き、左はクアラルンプール駅。画像中央奥の水色の屋根が国立モスク【マレーシア独立の象徴として1965年に建設。金属製の屋根は18角形で、イスラムの五行とマレーシアの13州を表す。モスクで一般的なドームを持たず、敢えてモダンなスタイルの屋根にしたという】。

違う角度から、クアラルンプール駅。しつこくてゴメンナサイ

駅を降りて200m強、国立モスクに近づく。

ところが・・・開いていなかった。この日は金曜日、15時オープンなのだった。ガイドブックでは無休となっていたが・・・旅先あるある、縁がなかったと思うしかない

11時半前、ホテルで荷物をピックアップしてKLIA Expressにて空港へ。
正午過ぎに到着、搭乗手続きを済ませてウロウロしていると、前日にスリアKLCCで見かけたニョニャ・クエのチェーン店に再び遭遇【ニョニャ・クエ; 中国人男性移民と現地マレー系女性の子孫であるニョニャによって生み出されたお菓子。カラフルだが ローズシロップ、パンダンリーフ、バタフライピーフラワーなど天然の素材を使って着色】。
色とりどりのショーケースに思わず引き寄せられてしまう。




ちなみに、前日はこちらを食した。左がパンダンクー【亀の形をしたもち米のお菓子は何色かあり、赤いアンクーが最も有名。中には緑豆餡・小豆餡・ピーナッツ餡のいずれかが入っている。緑のはパンダンリーフで色を付けたもの】。右がplutドリアン【plut=もち米。バタフライピーフラワーで青く着色したもち米にドリアンで香り付けした黄色い餡をのせた、日本でいう「おはぎ」のようなもの】。

迷ったすえ、この日はこれらを食した。左がラピスselatan【ラピス=層。赤と白が9層重なるクエラピスが最も有名。ウイロウのような食感】。右は葉にくるまれていて、開くとミニ富士山のような形をしていたが、かじると中にグラムラカ(黒糖)で味付けされたココナッツが入っていた。

お酒を飲むようになってから、糖分は専らアルコールで摂るためお菓子は食べないことにしている自分。が、もともと和菓子好きなのでお餅系のニョニャ・クエは好みのど真ん中 
辛党もまんまと絆されるスイーツの魅力たるや・・・マレーシアを訪れたなら、是非お試しあれ。

★ 終わりに ★

記事「その1」を既読の方々はご存じの通り、マレーシア1・2日目に盛大にやらかした自分。実は、記事その3からその4にかけても2つ抜かった
ジョージタウン内のホテルを移動する際に、シャンプー・コンディショナー・洗顔料を置き去りにした。更に、身の丈に合わない高級ホテルのクローゼットに着古したジップアップパーカーを入れっ放しでチェック・アウトした(それがため、スリアKLCCのユ〇クロで代替の長袖を買うハメに)。そもそもフワ~ッと生きている自覚はあるが、それにしても これほど重なったことはなかった。旅が惰性になってきているのかなぁ、気を引き締めないと次は痛い目に遭うかも・・・反省しきりで旅を終えた。
それから何ヶ月もしないうちに世界は新型コロナウィルスでパンデミックとなり、3年半あまり海を渡ることはなかった。本当に何が起こるか分からない。

今回 マレーシア篇を書くにあたり調べていて、海南チキンライス・ホッケンミー・ラクサ・・・呼び名は同じでも、全然違うテイストの料理が隣国にあると知った。
東南アジアは随分まわってきたものの、未踏のままになっているシンガポール。いつか訪れてみたい、またも新たな炎がともるのだった

 おしまい 




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マレーシア篇 その3

2024年09月01日 | アジア
旅の第3弾は下の地図の➍、ペナン島の様子をお送りします。なお、①~③は旅の前半に訪れた場所です。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


4 ジョージタウン (2019年12月30日)

7時過ぎに起床、身支度を整えて外出。この宿は朝食がついていないのだ。
朝のムントゥリ通り。

ジョージタウンはストリートアートの街、そこかしこに描かれている。
アーチの上に、バランスをとるバレリーナ。右下は画風が一変して、ガスマスクを着けた人

マレーシアの国花、ハイビスカスが植えられている。

あてもなく通り沿いに東へ進み、マスジッド・カピタン・クリン通りにぶつかってやや南下。カフェの看板を見て入店。

洋風の外観なのに、中華料理屋なのである。オーダーしたのは福建麵【ホッケンミーともいう。中国福建省から移住した人がつくり始めたといわれ、マレーシアではペナン式とクアラルンプール式があり、またシンガポールにも同名の料理がある。ペナン式は蝦麺とも呼ばれ、海老の殻や味噌からとった出汁に唐辛子を加えた赤いスープに、ビーフンと黄色い卵麺をミックスするのが特徴。クアラルンプール式はうどんに似た太麺と具材をラードと中国醤油で炒め、醤油由来の真っ黒な色味が特徴の汁なし麺】。自分が食べたのはペナン式とクアラルンプール式の折衷のようだった。これと温かい中国茶(Cちゃんとシェア)で5.7RM(≒168円)。


一旦ホテルに戻り、9時半過ぎに観光へ出かける。まずはセント・ジョージ教会へ【1818年築、東南アジア最古のイギリス国教会の教会。アジア・太平洋戦争中の日本軍による空襲でほとんどが焼失、司教座と洗礼盤だけ残ったという】。こういうのを “白亜” って表現するんだろうな~

外観に負けず劣らず、内装も白を意識した空間になっている。

生き延びた洗礼盤はモニュメントと化している。


マスジッド・カピタン・クリン通りに沿って南南西へ。が、スリ・マリアマン寺院には入れず、午後オープンのカピタン・クリン・モスクは閉まっていた。
あきらめて、アルメニアン通りへ。このあたりが中心エリアらしく、観光客向けのお店が建ち並び、人出もたくさん。

実物と組み合わせたストリートアートが目白押し。

写っているのは通りすがりの旅人。このアートと撮影したい人がわんさかいて、誰もいない画像を撮るのは至難の業だった

これも大人気で、人が入らないようにギリギリの角度で撮った結果、椅子が見切れている・・・もう少し左後方からがベストなはず。

付近のクー・コンシー【福建系華人の邸(クー)氏による。コンシーとは同姓の協会で、就職のあっせんや争い事の調停等でメンバーを扶助し、また祖先を祀る廟を併設した。福建省から職人を招いて豪華につくったという19世紀後半の建物は焼失し、現存するのは20世紀初頭の再建】。

色彩をおさえているが、実に精緻な装飾。自分好みど真ん中だわ




内部はさすがに金ピカ。

裏手には台所もあった。画像左奥は蝋人形による再現。

鯉も飼われていた。


コンシーを出てフラフラしていると、傘が浮かぶ通りに行きあたった。

異国情緒に酔いしれさせる街並み。

ここからまた、ストリートアートを求めて歩きまわる。
猫が可愛い


今にも飛び出してきそうな姉弟

ポップな眼鏡をかけているのは、もちろん見ず知らずの少年。

遊ぶこどもシリーズ。



気づくと正午を過ぎていて、お腹がすいてきた。海沿いのウェルド・キー(通り)を越えて、クラン・ジェッティーへ【船が発着する埠頭の脇に7つの桟橋があり、一族(クラン)別に水上家屋群が形成されている。かつては治安が悪いエリアで取り壊しの計画もあったが、2008年に世界遺産に指定されたことで保存が進み、今や観光名所となった】。
屋台が集合するジェッティー・フードセンターにて昼食。自分がチョイスしたのはアッサム・ラクサ【ペナン・ラクサともいい、この地を代表する麺料理。サバやアジなどの青魚の出汁にスパイスとタマリンド(アフリカ原産のマメ科の果物)の酸味をきかせたスープ、うどんのような太い麺が特徴。オタ・ウダン(蝦醤=へーコー)というエビを発酵させた甘いタレ(=下の画像のレンゲに入っている黒っぽいペースト)を添えるのが一般的】。朝から二食続けて麺・・・お米好きだけど、同じくらい麺も好きなんだもん

Cちゃんは海南チキンライス【鶏肉のゆで汁で炊いた米に、生姜やニンニク入りのタレをかけた鶏肉を添える。鶏肉はスチームとローストの2通りの処理法がある。マレーシア以外の東南アジアでもポピュラーな料理】。
北の隣国タイにもカオ・マン・ガイという同種の料理があるのだが、米の上に鶏肉が乗っかっているし、こんなにタレだくではない。面白い違いだなぁ

2人でシェアしたポピア【薄餅ともいう、ニョニャ風の春巻き。福建省が起源とされる。クレープ状の小麦粉の薄皮で具を包み、チリソースをつけて食す。具はきゅうり・もやし・甘辛く煮たヒカマ(葛芋ともいうメキシコ原産の野菜。切り干し大根に似ている)など】。
大瓶のビールもシェアして、1人あたり15.95RM(≒469円)。

食後 海沿いをそぞろ歩き、居並ぶ桟橋の中からなんとなく李氏のを見学。ゲートをくぐって進む。

画像左奥は対岸のバタワース。

船も行き交う。

西には他の氏族の桟橋。水上家屋の感じが伝わると嬉しい。


コムタへ向かう途中、なおもストリートアートを探す。東南アジア版ヒナノではないか【ヒナノ; タヒチのブランド、現地語で「かわいい女の子」を意味する。パレオをまとう女性をロゴマークに地ビール会社として創業、こんにちアパレルや雑貨も展開する】

Cちゃんは翌日発つため、コムタに隣接するバスターミナルを下見。
炎天下をゆうに1.2㎞以上歩いて到達したコムタ【ジョージタウンのランドマーク的な高層ビル。1985年築、65階建て・高さ232m】。1階に踏み入ると火照った身体にクーラーが心地よく、生き返る感じ セブ島でも思ったが、ずっと居たら寒いほどにクーラーでキンキンに冷やしているのは暑い中を歩いてくる人に報いるためだろう。
下層はデパートのようなフロアになっているのだが、お洒落すぎて買うものはない(求めているのはガチなお土産)

通りをはさんで向かい側のスーパーマーケットへ向かう。一帯は新しめのショップと、昔ながらの小売店が混在している。店先でパシャリ
青果店と思ったが、よく見るとウエストポーチやベルトが吊り下げられているし、奥にはナマモノ以外のものも置かれている模様。個人的には枝ごとぶら下がっているバナナ(画像中央)が気に入った

スーパーを出てペナン通りを北上。近代的なビルと古風な建物が並立している。

途中で左折してマレーシア全土のお土産を扱うショップに寄り、お買い物 ここはバラマキ用の安価なものからお高めの商品まで、ピンキリな品揃え。
牡丹と鳳凰の陶器が美しくて眺めていたら、お店の方曰くアンティークで、もう数少ないから売り切れたら再入荷はない、と。マラッカのババ・ニョニャ・ヘリテージで見かけた時から気にはなっていたけど、高価なものを大事にできそうもないので 後ろ髪引かれつつあきらめた。参考までに、マラッカで撮った同種の器の画像を載せておく。

マレーシアといえば錫、多少払ってもゲットしようと考えていた。高額帯だからかお店の方の説明にも熱が入り、冷えた飲み物を冷たいまま飲めるよとデモンストレーション用の器に水を注いで飲ませてくれる。結局、自分用のミニタンブラー(2つ)と、叔母に茶筒(華人っぽい装飾入り)を購入。下部に国花のハイビスカスをあしらったタンブラーはビールを飲む際に愛用している。高さ8.8㎝、2つで約6,820円(この記事を書くにあたり撮影)。ちなみに、店内では別々に行動していたCちゃんも同じのを買っていた。お互い呑み助だからなぁ


ホテルに戻ったのは16時半頃。洗濯したりして、部屋でくつろぐ。
20時、夕食のために外出。ムントゥリ通り沿いのストリートアート。実は前日明るい時刻に見かけて撮影したのだが、ライトアップされた方が何倍も素敵なのだった。

Cちゃんとの最後の晩餐は、ニョニャfusion料理【中国から移住した男性と現地マレー系女性の子孫女子(ニョニャ)に受け継がれた料理と、タイやベトナムなど他のアジア料理を融合】。全6品のコース料理(128RM≒3,763円)を食した。まずはパイティー【カップ状に揚げた器に野菜や海老を詰めた前菜。典型的なニョニャ料理】。

インゲンとヤングコーンの炒め物。

青菜の炒め物。

鶏肉料理。

カレーソースの一皿は、スパイス(レモングラス、コブミカンなど)とココナッツミルクで鶏肉を煮込むカリー・カピタンというニョニャ料理をアレンジしたと思われる。

デザート。

レストランから宿までは400mほど。照らし出されて雰囲気ある街並みを行く。

22時過ぎにホテル到着。一人旅では決して出歩けない時間帯、Cちゃんに感謝

4 ジョージタウン (2019年12月31日)

この日も7時過ぎに起き、朝食のために外出。宿から200mほど東のお店に入った。
店頭の自転車からして計算されているのか?? 映画のワンシーンに出てきそうな店構え。

店内には先客がいて、後にも続いた。それなりに繁盛している。

趣向を変えて洋食。30RM(≒882円)は前日の朝食の5倍・・・全体的に小綺麗に整えている分、ツーリスト向けの値段設定なのだろう。

一旦ホテルへ戻り、13時45分離陸の飛行機に乗るCちゃんに合わせて10時過ぎに宿をチェックアウト。空港へ向かう彼女とバス停で別れた。
一瞬しんみりしてしまったが、気を取り直してこの日の宿へ歩いて行く。自分の旅史上 最高の格式を持つホテル、Eastern & Oriental Hotel【1885年、アルメニア人の富豪サーキーズ兄弟(シンガポールのラッフルズ・ホテルも建てたことで知られる)により創立。かつて「スエズ運河以東で最上のホテル」と称され、サマセット・モームやヘルマン・ヘッセなど数多くの著名人が宿泊したという。大規模な改装を経て、今なお5つ星ホテルとして輝きを放つ。2013年にオープンした別館(ヴィクトリーアネックス)に対し、本館はヘリテージウイングと呼ばれる】。
ガイドブックでチラ見して気になり、ネットで検索したところ運よく値下げセールに遭遇。マレーシアの物価に合わせてそもそもの値段設定がリーズナブルなことも背中を押し、年越しだからと思い切ってポチッたのだった

値段的に別館だろうと思ってそちらの受付に足を運んだら、本館に予約が入っていたようで 長~い通路を歩いて通された。ときに11時前。
荷物だけ預けてすぐに飛び出す。翌日はクアラルンプールへ移動するため、この島でのタイムアップが刻一刻と迫っていた。
まず対岸のバタワースへ渡ることにして、タクシーでフェリーターミナルへ。ホテルからは2㎞もなく、いつもの自分なら苦もなく徒歩圏なのだが、なにせ暑いので横着してしまった 10.4RM(≒306円)也、この国の物価からしたら贅沢な使い方なのだろう。
【バタワースまでは2㎞強、フェリーは20分間隔で出航、所要20分。ペナン→バタワースは無料とのガイドブック情報は半信半疑だったが、本当に支払わずに乗船できた。ちなみに、バタワース→ペナンは1.2RM(≒35円)かかる。飛行機が飛んでおらず 橋でマレー半島とつながっていない時代にはフェリーでバタワースへ渡るのが唯一の手段で、バタワース駅から国鉄(KTM)で先へ進むため国鉄の料金にペナンからのフェリー代が含まれていたという。今や渡った後にバスに乗ったり車に乗ったり必ずしも国鉄に乗るわけではないが、かつての慣習が残っているらしい。この記事を書くにあたり調べて知った】
フェリーの中。

フェリーの上からバタワースを遠望する。

ペナン島を振り返る。画像右、ひときわ高いのがコムタ。

南を向くと、視界にはペナン第二大橋【全長24㎞、東南アジア最長。2014年に完成】。

遠くなりゆくペナン島。

ガイドブックにバタワースのページがなく、フェリーターミナル・バスターミナル・国鉄(KTM)駅がつながっている、というわずかな情報だけが頼みの綱だった。
実際のところ、正しくてホッ 下の画像左がバスターミナル、中央がフェリーターミナル(帰路に撮影)。

バスターミナルから国鉄駅へ向かう通路にて。港の向こうはペナン島、わずかに橋も見晴らすことができる。

人けの少ない細い通路の先にエレベーターがあって、地上へ降りるべく乗る。すると、居合わせたインド系の中年男性が "列車に乗りたいんだけどお金がなくて・・・恵んでほしい” と言ってきた。うげ~っ この国で初めて物乞いされたよ・・・
“いやいや、無理ですって” みたいな反応をしてみせたところ、わりとあっさりあきらめてくれたのは不幸中の幸い。今思えば、二人きりでエレベーターに乗ったのは不用心だったよね。彼が後から乗り込んできて扉が閉まり、あっという間の出来事だったんだけど、一歩間違えば追い剥ぎに遭ったかも・・・気をつけねば 
【バスターミナルは新しく綺麗でショップが並び 人も多くてにぎわっているが、国鉄駅へ向かう通路付近が一転してさびれている。たった数歩で環境が激変、海外あるある 明るい日中でさえこんな状況だったので、薄暗くなったら一層治安がよくないと思われる。これからKTMのバタワース駅を利用される方は、どうかお気をつけくださいね】
こちらが駅の正面入り口。

駅構内から線路を見下ろす。画像右奥がバスターミナル、その奥にペナン島。

反対側はこんな感じ。橋のほか、左手にはモスクと思われるドームがのぞいている。

国鉄の窓口で翌日のクアラルンプール行きのチケットについて尋ねると、朝6時台しか空きがないとの回答。だよね~ 
実は、前日にクラン・ジェッティーへ向かう前に埠頭の一角にあるKTMのオフィスで確認済みで、1日経過したところで状況に変化はなかった・・・年末年始のマレーシア人帰省による混雑を全く考慮していなかったのが大失敗 かくして、国鉄でクアラルンプールへ戻るプランは夢と散った

国鉄駅を後にして、バスターミナルへ向かう。時刻表を見ると、クアラルンプール行きは1時間に1本くらいありそう。一方、ジョージタウンの街中にあるコムタ隣のバスターミナルから乗れば、ペナン大橋を渡ることができる。どっちから乗るか・・・迷ったが、古式ゆかしいバタワース経由に決めた。
13時前、バタワースを発つ。帰りの船内は往きよりも混んでいた。車と一緒に海上を運ばれていく。

午後の行き先について、まずはペナン・ヒルが思い浮かんだ【ジョージタウンの西5㎞にある標高823mの丘。晴れていればジョージタウンだけでなく、海をはさんでマレー半島まで一望できるという。平地より気温が低いことから、マラリアから逃れることができる避暑地としてイギリス統治時代に繁栄】。
しかし、前日に見逃した箇所を切り捨てることができずヒルは断念、暑いのを承知で歩いてまわることにした。
まずフェリーターミナルから北へ数百m進む。ロータリーにそびえるは時計塔【1897年、ヴィクトリア女王の治世60周年を記念して60フィートの高さで建立】。

その先にコーンウォリス要塞が鎮座【1786年、クダ(マレーシア最北西部。島の対岸)のスルタンからペナン島を獲得したイギリス人フランシス・ライトが上陸した地に築かれた(なお、ペナン島はイギリスが領有した東南アジア最初の地)。当初は木造だったが、1810年に現在のようなレンガ造りになった。かつてはイギリス東インド会社の兵舎や弾薬庫があった】。訪問時は修復中で敷地の半分しか見学できなかったが、雰囲気だけでも伝えたい。
非常にさりげない壁。


顏出しパネルがお出迎え。

大砲のスリ・ランバイ【1603年、オランダで製造。ポルトガル人やジャワ人など様々な人々の手に渡った後、最終的にここに落ち着いた】。
砲身にVOC(オランダ東インド会社)のマークが刻まれている。

ここにも大砲たち。

涼みがてら要塞敷地内の土産物屋を冷やかした後、海沿いの道を西へ進むと公園の一角には戦死者慰霊碑。第一次世界大戦(1914年)以降、20世紀末に至るまでの死者を弔っている。

コタ・バル同様、日本軍が遂行した泰緬鉄道(死の鉄道)の建設にかり出されて命を落とした人々がここにもおられる。


マスジッド・カピタン・クリン通りで見かけたトライショー(人力車)。派手に装飾していたマラッカのと違って素朴。

公園から600m南西のスリ・マリアマン寺院【1833年築、ペナン島最古のヒンドゥー寺院】。前日は入れなかったが、今度は入ることができた(撮影は前日)。

信者たちが熱心に寄付をするのだろう。実にきらびやか。

ナンディー像【ヒンドゥー教のシヴァ神の乗り物とされる聖牛】。ちょっぴり逆光気味

通りをはさんで200m、これまた前日に振られたカピタン・クリン・モスクへ【1801年、インド系のイスラム教徒が建立。何度か増改築して今日に至り、インド式のドーム屋根を持つ。1916年には宗教学校を併設】。ここも入れたが、アバヤを着ろと差し出された。髪を結んで帽子をかぶり、半袖に長いスカートでダメか・・・宗教施設ではその宗旨に沿わねばならぬことは理解しつつも、暑い中歩いてきて汗だくのタイミングゆえ 若干ゲンナリ

白が印象的な内部。

祈りを捧げる人々。

ミナレット(上部が切れていて、ごめんなさい

おもむろにモスクの隣の食堂へ入る(下の画像、黄色い看板のお店)。
【この辺りはリトル・インディア(インド人街)と呼ばれる。この島に暮らすインド系の人々は南インド出身者が多く、ヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒も多いのが特徴という】
よって、2つの宗教施設の近くにガイドブックでイチオシのナシ・カンダール【何種類かの肉・魚・総菜やカリーソースをライスの上に乗せたもの。その昔、インド系イスラム教徒が天秤棒をかついで売り歩いた】を売りにするお店があるというわけ

ビリヤーニに魚(画像右)・チキン(画像中央奥)とカリーソースが2種乗っかって、12.8RM(≒376円)。えっ、おかずの種類が少ないって 店頭で注文する方式なのだが、ヒンドゥー語もマレー語も分からないもので・・・not spicyなソースと主張するのが関の山、野菜や卵をリクエストする余力はなかった カタコトの英語が通じてソースは大丈夫だったが、ビリヤーニ【スパイスと肉・魚・卵・野菜などからつくる米料理】が想像以上に辛めだった。白飯が正解だったと気づけど、時既に遅し。
スプーン&フォークを渡されて食しつつ周囲を見まわすと、素手で混ぜながら口に運んでいる人が複数。あぁ、スリランカでもそうだった、懐かしいなぁ


次は、前日にたどり着けなかったストリートアートを探そうと思いたつ。
見つけたはいいけど・・・前日歩いた場所のわりと目と鼻の先だった、やれやれ



こちらを見通すような少年の表情が目に焼き付いた。個人的に最も鮮烈なインパクトを受けた壁画。


前日も立ち寄ったスーパーで買い物した後 ペナン通りを進み、ホテルまでの1.2㎞ほどを結果的に歩き通した。トライショーが通ったら乗りたいと思っていたけど、どうやら定番の観光地が主戦場のようで コムタ付近にはたむろしていなかった
さすがに疲れを隠しきれないまま、ヘリテージウイングのフロントへ行く。ベルボーイ(制服は短パンのサファリ)とフロント嬢に付き添われて部屋まで歩きながら、(たいていはタクシーで優雅に移動だろうから)ここに泊まる客はこんなに汗臭くないよね・ごめんなさい、と心の中で恐縮した。
なお、ベルボーイはポカラ(カトマンズの西200㎞に位置する都市)出身のネパール人だという。思わずテンションが上がり、ポカラからアンナプルナ連峰(7,000~8,000m級)を眺めつつ数日間ハイキングしたよ、と伝えずにはいられなかった。そしてその夜、共にネパールを旅したαちゃんにハガキを書いた。

客室は独立したリビング付きの仕様になっている。

反対側からパシャリ 敷かれているのはペルシャ絨毯らしい。椰子柄の肘掛け椅子がステキ てか、胡蝶蘭が活けられた客室に泊まるの初めてかも。

こちらはバスルームの扉。

左がバスタブ、右はシャワーブース(鏡に映る自分にモザイクをかけた)。

トイレの扉は独特。そして1枚上の画像のとあわせて、洗面台は2つ

お部屋の窓からは、きっちり整備された遊歩道を見下ろすことができる。

西を望む。画像中央奥のビル群はガーニーの町(ジョージタウンから車で10分程度の高級住宅街)。比較のため、ここからは暮れゆく同じ方角の夜景を連投する。




東を望む。画像右奥は対岸のマレー半島。こちらも同方向・異なる時間帯の夜景を連投。



旅はあと2日半。とっくに終盤なのだが、なお洗濯せねば帰国までに着替えが足りない。5つ星ホテルのお洒落なランプの柄にハンガーを掛けながら、鼻で嗤ってしまう。贅沢してみようと背伸びしたものの、貧乏くさくてこの部屋に似つかわしくないなぁ、自分

部屋に置かれた招待状で存在を知ったカウントダウン・パーティーは、別館(ヴィクトリーアネックス)にて22時半~翌1時まで。
こんな素敵なホテルでのカウントダウンなんて最初で最後かも・行ってみたいと好奇心に駆られつつ、部屋で一旦くつろいでしまったら ある種「七人の敵」に向かって「武装」するのが億劫で・・・かなりの葛藤のすえ、パスすることにした。
complimentaryのラインナップ、水はもちろんのことウィスキー、ウォッカ、ジンも無料(念のため、下の画像で空き瓶のように見えるのは撮影角度の問題。いずれも高濃度のアルコールゆえ、そもそも入っていた液体は底から数㎝のみ)。高級ホテルに舌を巻きつつチビチビ舐めながら、漏れ聞こえてくるパーティーの生ライブ演奏をBGMに まったり年が暮れていくのだった


★ 中締め ★

8月に旅に出たこともあり、月をまたいでのアップとなりました。遅くなってごめんなさい

次回はペナン島を発ち、再びクアラルンプールの模様をお届けします。
マレーシア篇のラストをお楽しみに

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マレーシア篇 その2

2024年07月26日 | アジア
マラッカの続きからスタートです。
旅の第2弾では、下の地図の➌➍を訪れました(①②は旅の序盤に足を運んだ場所です)。また、後の下線部の数字にも対応しています。

3 マラッカ (2019年12月28日)

この日はじっくりマラッカを観光。
朝食はナシルマ【ココナッツミルクで炊いたお米。付け合わせの定番は画像右のピーナッツ、イカンビリス(イワシの稚魚を揚げたもの)、画像左のキュウリ。他にゆで卵、サンバル(唐辛子と玉ねぎで作るソース)も一般的だが、自分は取らなかった。肉を添えることもある。朝食の定番メニュー】。

9時にホテルを出て、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をそぞろ歩く。通りの両側にひしめく屋敷は、貿易で財を成したプラナカン(中国から移住してきた男性が現地のマレー系女性と結婚して生まれた子孫)たちの。クリスマス装飾と漢字が共存

窓の下の装飾が細やか。

側壁に祭壇が備えられている。

日帰りの観光客がまだ到着していない時間帯だからか、人影はまばら。

マラッカ川に架かる橋から上流の方向を望む。

橋を渡ると、赤い建物群が印象的なオランダ広場に出る。
さすがマラッカいちの繁華街、華やかに飾ったトライショー(人力でこぐ自転車タクシー)が客待ちをして賑わっている。

まずはラクサマナ通り沿いを進み、教会を目指す。セント・フランシス・ザビエル教会へは300mもない。
が、新郎新婦が到着して、まさに結婚式が始まろうとしている模様。

後にまわすことにして、さらに北上する。東南東にのびる通りを越えベンダハラ通りに入ると、インド人街となる。鮮やかなお花のレイがならび、雰囲気が一変。
そーいえば・・・その昔インドを旅していた時、車のバックミラー周りにお花のレイが下がってたなぁ(もっと短くてお花も小ぶりなのだったけど)。

オランダ広場から1km余り、セント・ピーター教会に到着。1710の数字が目を引く【記事その1で紹介したセント・ポール教会(1521年築)に創立年は遠く及ばないが、オランダ統治時代の18世紀初頭にポルトガル人が建てた由緒をもち、現存するという点では東南アジア最古のカトリック教会のひとつ】。

が、ここでも結婚式が執り行われようとしていた きっと佳き日なのね・・・中に入るのはあきらめる。
なお、前庭が広大で現代アート風のオブジェがあった。

舟に漁網・・・イエスの弟子となる前、若き日のペテロを象徴しているのかな。

同じ道をたどり、再びセント・フランシス・ザビエル教会へ(下の画像は後刻、マラッカ川対岸から撮影)。
【1849年、ザビエルの功績を讃えて建設されたカトリック教会】

まだ式は続いているようだったが、入れるようだったのでそ~っと入場。

全体的に白くて新しい感じがするけど、200年近く経過しているわけで・・・信者の方々が大切に扱いつつ 丁寧に補修してきたんだろうなぁ。
左上には聖家族のステンドグラス。

こちらは最後の晩餐。

そして、教会の前にはザビエル(右)とヤジロー(左)の像がある【名はアンジロー説もあるのだが、碑にYajiroと書いてあるのをここでは尊重する】。

両者の出会いについて説明する碑も。
【生没年不詳のヤジローは、薩摩の武士出身といわれる。人を殺し、山川(港)から船で海外逃亡を企てたが、彼の話を聞きいた船長が友人であり高徳の聖職者であるザビエルに相談することを勧めた。1546年にヤジローはマラッカに到着したが、ザビエルはモルッカ諸島へ伝道に出ていてすれ違ってしまう。あきらめてマラッカを離れたヤジローだが、嵐に遭って結局マラッカへ戻り、1547年ついにザビエルに会うことができた。ヤジローと話してみてその礼儀正しさ・勤勉さ・賢さに驚いたザビエルは、ヤジローをゴアへ送り聖パウロ学院で半年間学ばせる。洗礼を受けたヤジローとともにザビエルは1549年8月に来日。歴史を語るうえで「れば」「たら」は御法度とされる。しかし敢えて踏み込むならば、ヤジローと出会わなかったら果たしてザビエルは日本への布教を思いたっただろうか・・・否であろう。それほどに歴史を動かした出会いであった】

なお、ヤジローとザビエルが出会ったのはここではなく、セント・ポール教会である(記事その1で紹介した、今や廃墟となっている丘の上の教会)。正確を期すならば、現地に建立してほしいなと思ってしまうが・・・記念像を残したい日本の団体サイドと、その意を汲んでくれたマレーシアの教会サイドの、いわば大人の事情なのだろう。

オランダ広場まで戻って来て、マラッカ・キリスト教会に入る【1753年、オランダ統治時代に建設されたプロテスタント教会】。
マラッカのランドマークゆえ、前夜にこの前を通った時から気になっていた。教会3連発になるのだが、やむをえまい

木製の梁を渡す平らな天井【梁は接ぎ木せず、1本の木から切り出されたという】。

時節柄、クリッペが展示されていた。

タイル製の最後の晩餐。

次は、南に隣接するスタダイスを見学(下の画像、時計台の奥。撮影はこの日朝)。
【東アジアに唯一現存する、オランダ東インド会社ゆかりの建造物。1641年、バタビア商館(かつてジャワ島にあったオランダ東インド会社の本拠)を模倣し、オランダ総督の邸宅として建設開始。このスタダイスを中心にオランダ広場が形成されていった。なお、オランダ統治時代は漆喰で固めた白い建物だったのが、19世紀前半 当時の統治者イギリスによって赤く塗り替えられた。労働者たちが噛んで吐き捨てるビンロウ(マレーシア原産のヤシ科植物。口内清涼剤として用いる)により壁が所々赤くなったため汚れを隠そうと全部を赤くした等、その理由には諸説ある】

現在は博物館となっていて、広大な館内をまわりながら学ぶことができる。
自分にとって印象的だったのは、こちらの展示。マラッカ王国を破った後、次々とこの地を支配した統治者たちが並ぶ。
奥(画像左端)からポルトガル(1511~1641年)、オランダ(1641~1824年)、イギリス(1824~1957年)、日本(1942~1945年)。
地理的要衝であり、その繁栄ゆえに厳しく複雑な競争に巻き込まれてきたマラッカの歴史が凝縮されている・・・


結婚式を再現するマネキンたち。宗教が異なれば、スタイルも様々なわけで・・・
個人的には、どのマネキンも虚ろな表情をしているのが気になってしまうが



それぞれの民族衣装を身につけたマラッカの人々(記事その1で紹介した国立織物博物館の展示と若干かぶるけど)。ホントに多彩だわ~

「ザビエルの到着」と題する絵。画像中央やや左、黒い衣を身にまとうのがザビエルであろう【説明ボードには、「丘の上の聖ポール教会に隣接する学校でザビエルはカトリックを布教した。1545~1552年の間にザビエルはマラッカを5回訪れたが、期待したほどカトリックは広まらなかった」とあった】。

この博物館、古銭の展示が圧巻
ポルトガル統治時代の貨幣(16~17世紀)。十字架・錨・船・花などが描かれている。

以下は全てマラッカ王国の貨幣たち。動物モチーフが可愛すぎる
ニワトリ、魚ともに13世紀制作。

亀、蟹、ワニのは14世紀制作。




気がついたら12時半をまわっていて、さすがにお腹がすいてきた スタダイスを去り、マラッカ川沿いでお店を探す。
ふと川面を見ると、ワニが泳いでいるではないか。しかも、さっき見たばかりの貨幣のようなフォルム。なんてタイムリー

リバークルーズ船越しにオランダ広場を眺める。

マラッカ川沿いは、観光開発が近年進んでいるエリアのようだ。
エキゾチックな傘と提灯が浮かぶ脇道(写っているのは通りすがりの旅人)。

壁画アートが鮮やかな建物があったり・・・

ランチを食べられるお店も星の数ほどあったが、ちょうど繁忙な時間にあたってしまい、何軒かあきらめた。
そして、一度は通り過ぎた川沿いテラスのお店に決定。
暑いから、休日だから、と昼間からビール。対岸にセント・フランシス・ザビエル教会を拝める絶好のロケーション・・・色々な意味で幸せ
【タイガーはイギリス統治時代に生産を開始したシンガポールの銘柄】

シーフード炒飯。

sabahチキン【ボルネオ島にsabah州があるので、sabah風といったところか。記事を書くにあたり調べてみたが、特に郷土料理というわけではなさそうで・・・不明】。
これらをCちゃんとシェアして、1人あたり22RM(≒647円)。


再び橋を渡り、オランダ広場を横目に海の博物館と海軍博物館へ。入場券が共通になっているため訪れたのだが、いずれも画像を残していない
最後に、サンティアゴ砦へ【1511年にマラッカ王国を破ってこの地を占領したポルトガルだが、その残党の攻撃に悩まされたためマラッカ川の河口に砦を建設した。高さ15~20m・厚さ3~5mの壁がそびえていたという。1641年、オランダは8ヶ月にわたりこの砦を包囲し、ポルトガルを陥落させた。その時はさほど砦に被害はなかったらしいが、1807年にイギリスの攻撃により砦の大半が破壊された】。
残されているものは多くないが、復元された大砲に往時をしのぶ。てか、かつてここが海岸線だったとはにわかに信じがたい(いまや1kmほど内陸になっている)。

門の上部正面の彫刻はヨーロッパ風。男女の間、足元に船を表現しているあたりが大航海時代の覇者ポルトガルっぽい。

帰りがてら、丘に登ってみた。
前日は逆光だったが、マラッカ・タワーの向こうに海を見晴らすことができた【タワーは高さ110m。円盤状の展望台がゆっくり回転しながら80mの高さまで上下する。所要7分・定員66名】。


翌日にはここを発つため、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)とハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)に並ぶショップを往き来して買い物。荷物を置きがてら、18時に一旦ホテルへ戻る。
19時前、夕食のために外出。トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をひたすら北西に進み、これまで全然歩いていないエリアに敢えて踏み込んでみる。
とはいえ明確なアテがあったわけではなく、目についたお店に入ることになった。
前日から気になっていたbeer bucketを注文。


備忘録によると チーズ・スティックなどをつまんだようだが、画像を撮っていない

21時前、宿に帰着。入浴の前後に衣類を洗濯してテラスに干しておいたら、翌朝にはすっかり乾いていた。
後は寝るだけの状態で、テラスにて晩酌。どんだけ飲むんかい
【SKOLはカールスバーグ(デンマーク)からライセンスを受けて、ブラジルで生産が始まった銘柄】


3・4 マラッカ ⇒ジョージタウン (2019年12月29日)

午前中は引き続きマラッカを楽しみ、14時台の飛行機でペナン島へ飛ぶことになっていた。
9時少し前にホテルを出ると、週末に開かれるという蚤の市が通りでお店を広げていた。

何度も歩いてきたハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)を越え、ひとつ北のハーモニー・ストリート(トコン通り)に進む。緑の屋根のカンポン・クリン・モスクが見えてきた【1748年、インドから移住してきたムスリム商人によって建てられた。ひときわ高いミナレットも、お堂の三角屋根も独特のフォルムである。スマトラ様式というらしいが、ミナレットは中国の仏塔のようにも見える。様々な国の影響を受けていて、西アジアで一般的な細いミナレットにドーム状の屋根とは異なるのが特徴】。

履き物を脱ぎ、中へ入ろうとする。

と、この回廊の柱を支える基壇にほどこされたタイル装飾に惚れてしまった
パステルカラーの繊細な花模様。

ピンクのはリボンのように見える。

かと思えば、はっきりとした色づかいのもあり・・・

色ガラスがふんだんに光を取り込む。

木目の天井が重厚感を与えている。

見学しているうちに、Cちゃんは居合わせたオジちゃんからマンゴーを3個もらっていた。Cちゃんといると、こういうことがよくあるので驚きはしない
この日の夜、美味しくいただいた。

次は目と鼻の先のチェン・フン・テン寺院へ【青雲亭ともいう。1646年築、マレーシア最古の中国寺院。本尊は観音菩薩だが媽祖(道教における航海・漁業の守護神)も祀り、仏教・道教・儒教のための施設という】。
門からして装飾に気合いが入っている。

屋根の上を拡大してみる。陶製の装飾は細やか且つ絢爛豪華


こちらが本堂。

中央部はこんな感じ。「慈悲」って書いてあるし、仏教エリアだろうな。

仏様のような気がする(自信はないけど)。そして、漆塗りの装飾だぁ・・・

門から入って、右端のエリア。知識がなさすぎて、道教だか儒教だか分からない むむっ、下段が気になる。

というわけで、ズームアップ。 古くから大切に祀られてきたんだろうなぁ・・・
【この記事を書くにあたり調べたところ、トラの神様と判明。中国では野獣の王として敬われていて、悪事を取り去る・泣く赤ん坊をなだめる・仕事が成功するように助ける、等の御利益があるという】


寺院を出てなおもウロウロしていたら、こんなのを発見。まるでシーサーやないかい
【調べてみたところ、ルーツは古代オリエントにあると判明。百獣の王を権力や聖なるものの象徴とし、獅子像を盛んにつくっていた。これがシルクロードを通じて中国へ、そして沖縄に伝わりシーサーが誕生(ちなみに、中国から朝鮮半島を経由して本州に伝わった流れからは狛犬が生まれた)。マレーシアを含む東南アジアへはインドを経由して伝わったらしい。伝播のルートは違えど、起源は同じなのね~】


付近は雰囲気抜群なのだった。個人的には、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)やハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)よりもこっちの方が好みだな



マラッカ観光の最後は、ババ・ニョニャ・ヘリテージ【プラナカンの男性をババ、女性をニョニャという。1861年、チャン一族によって建てられた邸宅が公開されていて、中国・マレー・西洋を融合したユニークな文化を生み出したプラナカンの生活の一端を垣間見ることができる】。
入口から奥まで見通せる構造になっている。

逆方向(奥)から見るとこんな感じ。

陶器に魅かれてしまう・・・


清潔感ある台所。

大きな陶製の鉢には蓮の花。

階段をのぼって2階へ。見下ろしたアングル。

いや、その狭い所に座らないのでは マネキンの再現が無理め

婚礼衣装らしい(ガラスに写りこんでいる自分にモザイクをかけた)。


手の込んだ細工の寝台。

 花瓶の意匠が日本的・・・


ヘリテージを辞して、最後のお土産タイム。前日からショップで目に入るたび気になっていたレンゲをついに購入(長さ12㎝)。アンティークなど手が出ない値段だし、そもそも大切に扱えそうもないのでザ・お土産用の製品だけど 3つで114RM(≒3,352円)、そう安くはない。でもお花のモチーフがお気に入り、また右端の白いのを漆器に合わせるとしっくりくるのが意外な発見で、愛用している(この記事を書くにあたり撮影)。

そして、ガイドブックでチラ見していたニョニャ・クエに手が伸びてしまった【クエはお菓子の意で、プラナカンの家庭で祝い事やおもてなしのためにつくられるお菓子を指す。シンガポールにもあるらしい(←いつか訪れたなら、ぜひ食べ比べてみたい)】。
日頃は目もくれない辛党のはずなのだが、そのカラフルでポップな魅力たるや
数種類の中から選んだのは、オンデ・オンデ【パンダンリーフで緑色をつけたもち米粉のお団子の中にグラムラカの蜜を包み、仕上げにココナッツパウダーをかける。グラムラカとはマラッカ産のパームシュガーのことで、各地で製造される椰子砂糖の中でも特に質と味が良いという】。
ひと噛みすると、蜜がジュワッと飛び出してくる。黒糖の粒を舐めたことあるけど、やっぱり違うなぁ。これは液体感が強くて、舌触りが全然別モノ。


正午過ぎ、ホテルに戻ってフロントにタクシーを呼んでもらう。単純に空港と言ったら、クアラルンプールの空港と勘違いされて一時的に話が混乱
マラッカ空港っていまひとつマイナーなのかなぁ・・・【この記事を書くにあたり調べたところ、1日に数便しかフライトがないと判明。ペナン島への便とて1日1便なのだった】
ともあれ12時半にホテルを後にして、25分ほどで空港に到着。離陸の1時間50分前に着いてしまった。国内線だからそんなに早くなくてもと思わなくもないが、ギリギリに動いて焦るのは避けたいので、いつもこんな感じになってしまう
マリン〇airに初めて搭乗。

50分でペナン島に着陸。島の南東部の空港からジョージタウンへはタクシーで移動。
ムントゥリ通りの宿は、古い建物を修繕したヘリテージ・ホテル。我々が泊まったのは、階段をのぼって目の前の2階の部屋だった(撮影は後日)。

扉を開くと・・・

上の画像を右に折れると、バス&トイレ。

窓側の一番奥には天蓋ベッドその1。

そこから扉側を振り返ると、天蓋ベッドその2と机。

オーナーがアンティーク家具を厳選したというだけあって、素敵な空間になっている


18時半、夕食のために外出。ターゲットがあったわけではなく、なんとなく人通りがあってお店が多い方向へと歩き、チャイナタウンのお店に入った。
肉骨茶【バクテーと読む。スペアリブなどの骨付き肉を生薬(八角・ニンニク・熟地黄など)と煮込んだ料理。白米にかけたり、油条をスープにひたしたりして食す。発祥はマレーシアとシンガポールの二説あり、それぞれ特徴が異なる。前者はマレーシアの港湾都市クランで荷物運び等に従事する労働者が故郷・福建省の豚肉醤油煮込みに思いを馳せつつ、そぎ落とし切れなかった肉付きの骨と、滋養がつくように漢方スープを合体させてあみ出したといわれ、中国醤油を使用しスープの色は濃い。後者は広東省潮州出身者が考案したとされ、スープの色は薄くコショウが効いている】。赤い皿のが油条。
これ、食べたいと思ってたのよね~ 薬臭くなくて、全然想像とは違う味わい。おまけに身体にいいなんて、最高

魚入りの汁ビーフンも食す。

20時前、ホテルへ戻る。入浴後の晩酌ビールはホテルの近所の小売店でget。この日も大いに飲んで、夜は更けていくのだった。
【アンカーは19世紀末にアメリカで創業した銘柄。2017年に日本のサッポロビールが買収したが、コロナ禍を経て2023年に廃業を発表】


★ 中締め ★

マラッカはセント・フランシス・ザビエル教会のヤジローとザビエルの像は、鹿児島のザビエル公園のそれをもとに造られたそうです。
その像がこちら、左がヤジローで中央がザビエル(2024年3月撮影)。最初から数えて18枚目の画像と見比べてみてくださいね~
ちなみに、右はベルナルド【薩摩出身、本名は不詳。1549年8月、ザビエルが来日した直後に洗礼を受けた。1551年11月、ザビエルが日本を離れる際に行動を共にし1552年にゴアへ到着。ザビエルと別れた後、1553年にリスボンへ到着。1555年にはローマでイエズス会の総長に謁見。その後、ポルトガルに戻りコインブラの修道院で学んでいたが1557年に死去。日本人最初のヨーロッパ留学生といわれる】。
ザビエル像に3羽も鳩がとまっているのはご愛嬌

次回はペナン島の様子をじっくりお届けします。これ以降、ザビエルは出てこないのですが
それではまた~
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