アイスランドの最終盤では、以下の地図の➊で過ごしました(②~⑦は旅の序盤・中盤に訪れた場所です)。
また、後の下線部の数字にも対応しています。
1 レイキャビク (2023年12月30日)
7時に起床、ホテル1階のレストランへ。ビュッフェで朝からガッツリと食事を済ませる。
元々の予定ではスカイラグーン(レイキャビク近郊の温泉施設)に行く予定だったが、記事「その1」でお伝えしたとおりの体調のため、museum巡りに予定を変更。
結果的に2万2千歩オーバーの移動となった。途中でmuseumの椅子に座りつつ、トイレも利用できたのでカフェに入ることもなく、ほぼ1日歩き通し。解けかけの雪で歩きにくいのに、ようやるわな自分(苦笑)
ホテルを出発し、まずはホフジハウスを目指して大通りを海の方向へ進む。月が天空に輝いているが、これでも午前9時半なのである。
ランニングやら散歩やらで人影はポツポツあるし、車も行き交う。この暗さでも身の危険を感じないんだよな~ この国は相当治安がいいと思う。
ホテルから500mほど、ハウスが見えてきた時は周囲に誰もいなくて近づくのがはばかられるような、泥棒感満載だった。が、ほどなくツアーバスが到着して欧米人観光客がドカドカ降りてきた、ホッ
こちらがホフジハウス【1909年、フランス領事館として建設。ワシントンとモスクワの中間地点ということでこの地が選ばれ、冷戦下の1986年10月にアメリカ大統領のレーガンとソ連書記長のゴルバチョフがここで会談し、これがもとになって翌年12月のINF全廃条約締結に至ったといわれる】。
中を覗きたくて階段をのぼってみたが、窓の位置が高すぎて自分の身長では見られなかった、残念
銅像あり【Einar Benediktssonという詩人。19世紀末~20世紀前半に活躍し、独立を促すナショナリズムの隆盛に一役買ったという】。
次は海沿いを北西へ進む。
画像左の尖塔はハットルグリムス教会。74.5mとそもそも高いうえ、丘の上に建っているので この町のどこからでも目に入るといっても過言ではない。
1kmほど歩くうち 次第に空が明るくなり、雪をかぶった山影が姿を現しはじめた。
東を振り返るとこんな感じ。
が、西側はまだ夜の雰囲気が濃く漂う。
モダンなモニュメントが登場。両サイドからの眺めを比較してもらえば、東西の様相の違いを感じていただけるだろう。
まずは西側に向かって撮影。
そして、東側に向かってパシャリ【なお、これは「The Sun Voyager」というタイトルの作品で、海に繰り出す人をイメージしているらしい】
水鳥が海上で羽を休めている。
第二の目的地ハルパに着いた時、来し方を振り返る。
この国では夜が明けていく様が実に美しい。えもいわれぬ色彩に移ろいゆく空・・・高緯度地域の夜明けは、朝が弱い自分にはありがたい贈り物だ
こちらがハルパ【2011年にオープンした多目的ホールにして、アイスランド交響楽団の本拠地。金融危機の影響もあり工事は一時中断したが、4年かかって完成】。
柱状節理をモチーフにしたデザインは角度により宵闇でも輝く。ちなみに5枚上の画像左、ひときわ青いのもハルパである。
こちらは別の角度から撮影。
ダメ元で入ってみたら、ごく限られた範囲ではあるが無料で見学することができた。
エントランスの天井。
窓の向こうには旧港が広がる。3日前まであの辺りに滞在していたんだよね・・・もう懐かしくなっている
第3の目的地セトルメント・エキシビションへ向かう途中、チョルトニン湖をかすめた。凍っていないわずかな水面に水鳥たちが集っていた。てか、白鳥って鳴き声が大きいのね、ビックリ【元々は貯水のためにつくられた人工湖。市の職員が湖にお湯を流して全面が凍らないように、鳥たちの居場所を確保しているそうだ。なんて優しいの】。
レイキャビクの街では、所々に不思議な彫像が存在する。画像右はそのひとつ【タイトルは「無名の官僚へのモニュメント」】。
葉牡丹が健気に咲いている。
先日来、市庁舎と思い込んでいたのはドゥムキルキャン教会と判明。閉まっていて、中には入れず
【1796年創立、レイキャビクのカテドラル。国会が開会する際にはこの教会でミサを執り行なった後、会議場に移動するという。現存するのは19世紀半ばの再建】
その横には国会議事堂【アルシングともいう。記事「その1」で言及したとおり、この国では930年からシンクヴェトリルにて毎年議会が開かれていた。ノルウェーの支配下に入っても続いていたが、デンマーク統治下の1798年に中断を余儀なくされた。しかし自治への要求が高まるなか19世紀半ばにアルシングは復活、1881年にはこの議事堂が建てられた。今日に至るまでレイキャビクで開催されている】。
首相官邸を見かけた時も思ったけど、この国ってこういうのが簡素よね。暴漢が突入してくるとか前提にないんだろうな、治安いいもんなぁ。
100mほどでセトルメント・エキシビションに到着【2001年に発掘された、レイキャビクで最古の人工建造物=9世紀後半の遺構を保存している】。
現在の地面より下に遺構があるため、入口を入って目の前の階段を降りるスタイルになっている。エントランスの壁には世界地図が飾られており、横のパネルには「約10万年前にアフリカ大陸でホモサピエンスが出現した。約1万2千年前には南極を除くすべての大陸に人類が住みついた。約1100年前、アイスランドに人類が定住するようになった。」と記されていた。
ここアイスランドは中央上部に赤く示されており、他にも赤く塗られているハワイ(画像左中央)・マダガスカル(画像やや右中央)・ニュージーランド(画像右下)はアイスランドの前後に入植があった場所という比較のようである。
この遺構が西暦871±2年のものであることを強調している。
入館料は2750kr、ガイドブック情報より1000kr(≒1180円)も高くて驚いた。値上げはコロナ禍で観光が退潮した反動、はたまた諸物価高騰、それとも単にガイドブック情報が古すぎただけ まぁ、こういう施設を維持・管理するのに費用がかかることは理解できるし、値上がりを理由に見学をパスする選択肢は自分にはない。
支払いを済ませ、左側の小ぢんまりした空間に足を向けると、人々がこの島に渡ってくるまでの過程を推測し映像にしたコーナーで、彼らが乗ったと思われる帆船のイラストもあった。
メインの展示室に入ると、まず中央の遺構が目に飛び込んでくる。これと同時期、9世紀後半の日本は平安時代の前半で、藤原氏が権力を強めていく時期かぁ・・・
一般的にヨーロッパの文明は日本に先行しているが、アイスランドは入植が遅い。それほど当時の技術レベルでは暮らしにくい気候風土だったのだろう。
入植初期の人々がいかに巨大な集合住宅を建てたかの映像解説もあり、模型もあった。
芝を用いたターフハウスの画像もあった。
館内に掲示されている英文の説明をしこたま脳内で翻訳したが、印象的だったのは以下の3点。
①レイキャビクが良い港であることから、この島の中心地として発展した。
②湿度が高い風土のため、水の確保には困らなかった。当時は石と灰で雨水をろ過していた。
③ゲノム解析の結果、男性のほとんどはノルウェーから、女性の半数はイギリスからしかも奴隷としてこの島にやって来たことが判明している。ただし、言語的あるいは社会制度的な側面を見ると、ノルウェー以外のスカンジナビア半島の国々やアイルランドの影響も多分にあるらしい。
海洋航海をつうじて広汎な範囲で交流がおこなわれたのね・・・
そして確かに・・・気温が低いわりにかさつかないよね。ハンドクリームやリップクリーム持ってきたけど、使わずとも問題ないし。湿潤なんだわ
天気がくずれる前にハットルグリムス教会のタワーに登りたい気持ちがはやったが、アイスランド国立博物館のほうが近そうなので先に向かう。南南西に600mほど、等高線のない地図では気づかなかったが、丘へのぼっていく道程だった。途中、チョルトニン湖越しに教会を遠望できた。
博物館はグレーの壁・シンプルな3階建てで、遠目にそれと示すのは幟くらい(この画像には写っていないが)。
こちらもfeeが500kr(≒590円)上がっていた、ははは
この島に人類が入植した後から時間の経過に沿って展示されている。
いきなり人骨が目を引いた【説明パネルによると、10世紀に40歳くらいで亡くなったと推定される女性の骨という。胸に三つ葉のブローチ(シェトランド諸島[イギリス領]でよく知られる)と、スコットランド風のケルト装飾が施された留め金具を身に着けていた。遺体のそばには木製の柄のついた長いナイフ、櫛、スプーンとして用いたと思われる貝殻、お守りと思われる石などがあった。定かではないが、調理器具が副葬されていることから、来世では家事を果たすよう期待されていたと思われる】。
子どもの骨も展示されていた【8ヶ月の子どもと推定されている。概して子どもの骨は大人の骨に比べて保存状態が悪いとのことだが、これは砂の中に埋められていたのが幸いしたらしい。大人と違って副葬品はなく、来世を想起させるものはない】。
このあと金属器などの道具の展示が続いたが、足早に通り過ぎる。自分が興味あるのはキリスト教を受容した後の文物だった。ハットルグリムス以外の教会に入るチャンスがないまま過ごしてきたので、特に渇望していたのだった。
【9世紀、アイスランドに移住してきた人々のほとんどが北欧にルーツを持ち、異教信仰(北欧神話)を擁していた。しかし彼らが島に到着した時には既に、俗世から離れて求道するためにアイルランドからやって来たキリスト教の修道士たちがいたし、北欧人たちが各地で捕まえて奴隷として島に連れてきた人々もキリスト教徒であったため、初期の定住者の多くはキリスト教徒であったといえる。が、その後のアイスランド社会では北欧人が実権を握ったため、異教信仰が主流となった。
10世紀末になるとデンマークとノルウェーでキリスト教が広まり、995年にはクリスチャンの王オラフがノルウェーで即位した。彼はノルウェー人が入植した地にも宣教団を送り、キリスト教に改宗するよう圧力をかけた。当時、アイスランドで洗礼を受けている者はわずかだったが、1000年にアルシング(アイスランドの議会)ではキリスト教を受け入れることを決断し、この問題で血が流れることはなかった。ただし、従前の異教信仰(北欧神話)を個人がもち続ける権利も得ていた。つまり、ずいぶん以前から私的にキリスト教を信奉する者は存在したが、アイスランドが公式に改宗したのは1000年ということになる】
この国がキリスト教に改宗した初期のころの遺物はあまり残っていないが、異教のお墓からキリスト教のアイテムが見つかることがままあるという。
このペンダントは11~12世紀のもの。その形は十字架であり、また北欧神話のトール神がもつハンマー(ミョルニル)でもある。
宗教画が描かれた木材の一部【11世紀後半の制作。元々は着色されていたかもしれないが、現在その痕跡はなくなっている。アイスランド北部の農家の屋根裏部屋で発見されたが、カテドラルの西壁のものではないかともいわれる】。記事「その2」でも言及したが、高緯度のこの地では希少な木材が使用されている。
全体像はこんな感じだったらしい。モチーフは最後の審判【全体の幅は7~8m。フレスコ画でよく表される題材だが、木彫の作例は珍しいという】。
聖母マリアの石像【高さ2m弱。制作時期については言及されておらず、不明。息絶えて十字架から降ろされた我が子イエスを見て悲嘆にくれるマリア様を表現している。なお、この国で石彫りの作品はわずかだという】。
未踏の地だから知らないけど、アイスランドの南東に位置するフェロー諸島(デンマーク自治領)・シェトランド諸島・ノルウェーなどの石像もこんななのだろうか??
個人的には、かつて訪れたアイルランド北部の石像たちを思い出さずにはいられなかった。ケルトの感じは全然ないけど、像全体の大きさや厚さ、太めの刻線ながら浅めの彫りの感じが似ている・・・海が横たわっているとはいえ、2,000㎞は決して遠くないんだなぁ
キリスト像【1200年前後の制作と推定されるロマネスク様式の彫刻で、かつての彩色の跡が残っている。アイスランド北部の教会に置かれていた】。
角杯【動物の角でつくった杯で、盟約を結ぶなど特別な乾杯の際に使用する。中世の北欧では一般的だが、アイスランドのは精緻な彫刻がほどこされているのが特徴】。
右上のをズームアップ。上段は知恵の木の下に立つアダムとイヴ、下段は磔刑【17世紀制作】。
聖歌が流れる小部屋もあった。薄暗かったので、展示物の写りがイマイチでごめんなさい
細やかな作りの十字架。後ろの壁画は人物の表情がユニーク。
こちらも面白い表情をしている。
ノルウェー王オラフの彫刻もあった。この国を改宗させたから、教会では崇められてきたのだろう。他国ではあまり見かけない、地域色の強いモチーフだなぁ。
小さめの十字架【左はロマネスク様式で13世紀、右は中世末期の制作】。
階段で3階にあがると、刺繍だけが展示されている1部屋があった。
コミカルな表情に魅かれた刺繍作品【アイスランド北部の教会の祭壇正面にあったもので、16世紀はくだらない制作とされる。磔刑の左右に聖母マリアと使徒ヨハネを配する。キリストの両眼が見開かれている表現は珍しいが、13世紀のイギリスの刺繍などに類例が見られる】。
別の部屋に入り、綺麗な色だなと思ったらクジラの骨を彫った作品群だった。大海に浮かぶこの国らしくて素敵
上の画像、一番下の細長い作品をズームアップ【18世紀初め制作の寝台パネル。枕元に刻まれている文字は「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネは私が横たわるベッドを祝福する」】。
う~ん、いい夢見られそう
2枚上の画像、右端の縦長の作品の最下部をズームアップ【息絶えたキリストを十字架から降ろす場面】。
3枚上の画像、右端の縦長の作品の最上部にズームアップ【中央にはキリストの昇天を見上げる人々と、父なる神に抱きしめられるキリスト。左上は磔刑、右上は昇天後 天上と地上の栄光の王として君臨するキリスト。なお、この大作は1600年前後にアイスランド南部の農夫が聖書の場面を彫り出したものという】。
人魚の彫像もあった。作風も素材も全然異なるが、これまたアイルランドはクロンファートの教会の壁にあった人魚像を思い出した。
訪れたことないけどデンマークには人魚姫像があるし、北海やノルウェー海周辺ではポピュラーな存在なのかなぁ・・・
博物館の最後は宝物ではなく、民俗コーナーだった。
最古の婚礼衣装【1859年の秋、レイキャビクで着用された。黒い布のジャケットの縁には銀の糸で刺しゅうを、スカートにも花柄の刺繍をほどこしている。腰にはベルトを巻く。頭飾りとベールをかぶる】。
19世紀の家【中世アイスランドの浴場付き更衣室が長い時間をかけて変化し、今や家族が仕事をしたり食べたり眠ったりする多目的空間となった。中世後期に気候が冷涼化したため、人々がかまどの近くで多くの時間を過ごすようになったのが始まりという】。
中はこんな感じ【裕福な家では、家主とその妻は独立した寝室で眠る。小さな家では家族みんなが同じ空間で眠り、大人と子どもの2人1組でベッドを使うという】。
階段を降りながらステンドグラスを眺めた。
出口へ向かおうとして、トール神の像を見かけていないことにふと気づいた。ガイドブックで推していた宝物、見ないでは去るに去れない。展示の並びからして1階にあるはず・・・
しばらくウロウロしてたどり着いた。かなり最初のパートにあったのだが、完全に見落としていた。
【1000年前後の制作と推定されるブロンズ像。高さ6.4cm。北欧神話に出てくるトール神とされるが、一方で栄光のキリストという説もある。像はトール神が持つハンマーと思われる物を握っているが、その形はキリスト教の十字架にも似ている。北欧神話とキリスト教が平和裏に共存したことを示す作例という(トール神; 北欧神話で雷をつかさどり、農耕の神として崇められる。敵対する巨人と対決し、そのハンマー[ミョルニル]を投げれば必ず敵を倒すという最強の戦神でもある)。
なお、この像は1815年またはその翌年にアイスランド北部で発掘されたが、14世紀末からこの国の支配者となったデンマークの首都コペンハーゲンにまもなく送られた。独立前ではあったが、アルシング(議会)1000周年にあたる1930年に他の宝物とともにデンマーク国立博物館から返還された】
三角形の帽子をかぶっているからか、サンタクロースに見えてしまうのは私だけではないはず
結局2時間で博物館を後にしたのだが、2階はかなりのスピードでまわった。丁寧に見学するならば、半日は必要かもしれない。
14時過ぎ、チョルトニン湖の間を横切る道を通って教会を目指す。下の画像の左右とも湖で、中央奥に教会がそびえる。
湖の北側。凍ってその上に雪が積もった湖面は、滑ったり雪合戦をしたりと格好の遊び場になっていた。なお、画像右の尖った屋根も教会だったが、閉まっていて入れず
歩いていると、ごく近くの上空を飛行機がかすめていった(下の画像、中央やや上)。アイスランド航空は市街の隣接地から地方都市へ飛んでいる模様だが、首都でこんな至近距離を飛行するのは中々ない気がする。
4日前も歩いたスコウラフェルススティグル通りをのぼっていく。今回は吹雪いていないので(笑)、人出は多め。
ふと脇道をのぞくと、下り坂の向こうに海が垣間見えた。
けだるげな午後の空に屹立する教会。
この日はミサだからと追い出されることもなく、祭壇周辺をじっくりと観察することができた。
祭壇はシンプルで、左右に小さなツリーが置かれている。赤い照明はイエスの血を意味するのか??
祭壇横の壁には大天使ガブリエルの壁画。
こちらは大天使ミカエル。
会堂内の座席の全てに飾られている編みレースは雪を彷彿とさせる白
人もまばらだった前回とは異なり、タワーにのぼるために行列して15分待った。のぼったところで足の踏み場もないのではと危惧したが、考えすぎだった。風の強さと気温の前に、そうそう長居もできないのだった
期待通り視界はクリアで、北西に海を見晴らすことができた。天候でこんなにも見え方が変わるんだね・・・あぁ、リベンジできてよかった
西の方角にはおもちゃ箱のようなカラフルな建物もあり、また雪が積もったモミの木すなわち天然のクリスマスツリーがチラホラ見える。
北東には雪をかぶった山が横たわる。
南東を向くと、教会の屋根の存在感大。
教会を出ようとして、扉の彫刻にハッとした。四つ葉の植物はシャムロック アイルランドからこの島に初めてキリスト教がもたらされたことを象徴しているのかも・・・
(この記事を書くにあたり調べてみたが、確たる情報に行きあたらず残念)
青みが増し、夜が訪れつつあることを告げる空。
坂道を下りながら、お土産購入タイムに突入。とはいえ、税の関係で空港が最安値という情報を得ていたので、買うのは最小限にとどめようと心に決めていた。
それにしても何にせよ高くて、気軽なお土産にするには引くような価格。これいいなと思うと1800kr(≒2,124円)くらいする。1000kr(≒1,180円)以下はほとんどないし、あったところでマグネット、キーホルダー、石鹸など・・・微妙そうなモノばかり 結局、空港で買うことにした【自分が見た中で安価だなと思った土産物屋は、最後に泊まっていたホテルの向かい側、ロイガヴェーグル通りとSnorrabraut通りの角にあるア〇スランドホテルの1階のお店。そう広くもなくて何でも揃うとまでいかないが、他店と比べて500円くらい安い感じだったので、興味のある方はぜひ】。
あとはハガキと切手を買い足さねば。実は、アイスランドで一度も郵便局に行かずじまいだった。ガイドブックに情報がないうえ、歩いていても見かけなかった。しかし、ハガキを売っているお店ではstampsがあるよと書かれていて、しかも表示がない店でもお店の人に聞いてみたら扱っていたので、充分に事足りた【ただし、1枚が400krと450krのお店があるので要注意 たまたま最初に買ったハットルグリムス教会の売店が400krだったので、450krと表示してあるお店では買わないようにしていた。が、同じ店でも違う日・違う店員だったら値が変わるという摩訶不思議。あちこちで買ってみたが、3ヶ所で400kr・2ヶ所で450krという結果だった】。
たいして買わずとも土産物屋で思いがけず時間を過ごし、とっぷりと日が暮れた。
お土産用のビールを入手するため、アウストゥルストロティ通りのvinbudinへ向かう。好物のワインの棚をついチラ見したら、スペイン産のDiabloが2800kr(≒3,304円)・・・日本で買うより500円くらい高い感じかなぁ。手を出すまでもなく、350㎖缶のビールを5本買って退散。
残すはオーロラ観賞ツアーのみ。バス停でのpick up前に夕食を済ませる必要があった。翌朝は出発が早く朝食をとる時間がないため、最後のまともな食事だった。
ネット情報によるとアイスランド料理推しのレストランがホテルの近くにあり、17時半ころ店の前を通りかかったら空いていた。が、店頭のメニューを見たらラムのスープがなかったのでやめて、泊まっているホテルのレストランへ行くことにした。
ビールにパン(ブリキ缶入り)と前菜。なお、画像中央のはこの国らしい溶岩の上に盛られたバター・・・なんだかオシャレ
ラムのスープ。燻製に比べると羊らしき香りはあったが、サイコロ状の野菜とパセリとあわせて美味しくいただいた。だいぶmodernizeされてるかもしれないけど
メインはタラ(cod)と迷ったが、カリフラワーのリゾット アスパラ添え(ヴィーガン料理)にしてみた。滋味深い、ほっとする味わいだった。
会計はしめて8,630kr(≒10,183円)。最後だからと値段よりも食べたいものを優先したら、それなりの額になっちゃった
さて、いよいよオーロラ観賞ツアーである。記事「その1」で述べたとおり元々は到着した日(12月26日)にツアーに参加する予定だったが、ピックアップ時間前から待てども迎えに来なかったのでtravel agencyにメールして、この日にやり直しさせてもらうことになったのだった。ただし、ホテルを移っているためpick upのバス停を15番から9番に変更したほうが都合がよく、その旨を28日にagencyにメールしたのだが、一向に返信がないのだった。
迎えのバスが来た時に拙いmy英語が通じなかったらメールの文面を見せて説明するつもりだったので、記載通りの15番のバス停で待つことに決めた。同じレイキャビク市内といっても片や外れ、かたや中心部にあり近くはない。40分かかると予測してホテルを出た。
目抜き通りのロイガヴェーグル通り沿いに北西へ進むと、年末のひとときを楽しむ人々でにぎわっている。通りの両側を埋め尽くすショップはきらびやかで、12月25日を過ぎてもクリスマス装飾がスペースを占めているのも欧州ならでは(「欧米」と言いたいところだが、アメリカはトランジットのみ・旅したことはないので、よく知らない)。
下の画像上部、吊るされた洗濯物にご注目あれ。サンタクロースの家かもと匂わせる遊び心にキュン
そして、爆音の方角を仰ぐと個人で花火をあげているのだった。新年のお祝いだとしたら1日フライングだなぁ、あれっ 過去に同じような現象を見かけて、同じことを思った気がする・・・あれはアムステルダムだったか?? 大晦日から元日への切り替わりにこだわりはないのかもしれないなぁ、文化の違いかも。
pick up時間は20時30分だが、30分前にはバス停にいるようにとメールに書かれていたため20時を目指した。が、結局19時45分に15番バス停へ到着。雪道を考慮しての計算だったが、日中に降らなかったので雪が少なくて早めに歩けたらしい。で、結論から言うとバス停で1時間50分待った。25分歩いた身体の熱がおさまると、だんだん強風に体感温度が下がった。さしものユ〇クロ様のインナーといえども、腰にカイロを貼っていようとも
20時には自分を含めて2組3人だった待ち人は増え続け、20時半過ぎには20人ほどに膨れあがった。そこから2グループに迎えが来て、残ったのは自分を含め4組7人。不安になりお互いに確認し合うと、みんなtravel agencyが異なっていた。
21時15分頃、スマホに着信があった。手袋をはずすのにモタつくうち切れたため、折り返しかけ直す。自分の英語力で通話は難易度高いが、ためらっている場合ではない。
若い女性の声で「どこにいるの?」と聞かれ、15番バス停と答えたら "O.K.” と言われる。念のため “I’m waiting here." と伝えて電話を切った。
そのころ他の2組は各々agencyに電話して、ツアー催行なしと告げられた模様。自分の次くらいにやって来た、すなわち同じくらい長時間ともに待っていたご夫婦の奥様が "Bye." と手を振って去って行った。そこからの15分、1人で待つのがしんどかった。4日前と違って絶対迎えが来ると分かっているのに、である。今思えば、寒さで肉体的にはいっぱいいっぱいだった
21時35分、大型バスが現れた。4WDやワゴンのような車に乗せていく旅行社もたくさんあったが、これは50人以上乗れるようなガチの観光バスだった。先ほど電話で会話したと思われる女性(というより少女、たぶん大学生)のガイドさんに迎えられ乗り込むと、席はギッシリで自分が正真正銘最後の客だった。
バスが出発するとガイドさんが “Thank you for patience." と言っていたので、9番のバス停で長く待っていてくれたのかも・・・
観賞ポイントまで30分かかるとアナウンスされたが、その前にガソリンスタンドでトイレ休憩があった。2ブースしかないのもあって相当時間を要し、かなり長い時間停車していた。
23時、view pointに到着すると若いガイドさん&長髪でややふっくら体型のドライバーさんはhot chocolateをつくって配り始めた。バウチャーに記載されていないサービスに驚いたし、手作り感あふれるat homeさが温かかった
日中の気候は穏やかで、バス停を目指して歩き始めた頃もclearだった空だが、バスを待つうちに雲がかかり始めた。そしてドライバーがwindyと言うとおり、時間が経過するほどに手強くなった。23時から0時半までポイントにとどまったが、オーロラはついぞ拝めなかった
早々に星空撮影に切り替えたツワモノもいたが、風の強さに本気で吹き飛ばされそうで、自分は1時間半のうち15分ほどしか外に出ず、車内でウトウトしていた(同様の人が多数)。
帰り道に、ガイドが「本日の日付とメールアドレスを登録したら、今後2年間は観賞ツアーに参加することが可能です」と告げた。
あぁ・・・そうなのか。4日前にダメもとで送った自分のメールに対し、travel agencyは前倒しでこの権利を私にくれたのね。合点したわ
それにしても、2年有効のうちにどれほどの人が再訪するのだろう?? 客の多くがリベンジを果たそうとしたら、ビジネスとして成り立たないんじゃないかな。オーロラに遭遇できず、無念の思いでこの国を去る人が多いという厳然たる事実があるのね。自分もその一人にすぎないのか・・・
停車中に隙を見てガイドさんに9番のバス停で降りたいと伝えたら快諾、しかも最初のdrop offが9番というラッキーぶり にもかかわらず午前1時半になっていたので、15番から歩くハメにならなくて重ねがさね幸いだった
1 レイキャビク ⇒ヘルシンキ (⇒帰国) (2023年12月31日)
午前の便に乗るため、7時に空港行きバスに乗ることになっていた。
オーロラツアー後に3時間しか眠れなかったが、帰国便逃すまじという緊張感でガバリと起き上がることができた。
7時少し前にチェックアウトすると、ロビーにスーツケースを放置して外出。ロイガヴェーグル通り沿いの最寄りのポストまで片道数分の距離を往復し、友人たちへのハガキを投函。なお、自分が歩いた範囲ではセンターホテルプラザの北東角のショップ付近にもポストがあった。共通していえることは、差し出し口が1つしかないこと。赤でJAPAN/Air Mailと書いたので、ちゃんと振り分けてもらえると信じるしかない【結果的に友人たちのもとへ無事届けられた】。
戻ってみると、スーツケースは無事だった。24時間出入り自由のホテルフロント(しかもガラス張りで通りから丸見え)を夜中に女性一人で担当するくらいだから、やっぱり治安がいいんだろうなぁ。
バスの到着は遅れ、寒空の下でたっぷり15分待たされた。結構な人数の人々が待っていて、乗りきれるのか不安だった。2台続けて来たバスの1台目に乗り込み、ドライバーに空港へ行きたいと告げたら手元のpadを操作して私の氏名を探し始めた。到着時(往き)とシステムが違っていて一瞬ビビったが、ちゃんと登録されていた。
ほどなくして市内のBSIバスターミナルで降ろされる。人の流れについて行くと、往きに市内drop offバスを待った側から建物に入り、反対側に出ると空港行きバスが待っていた。ふむ、こーいう構造になってるのか。
先着の別のバスの乗客が乗り始めていた1台目には乗ることができず、2台目にまわった。1台目の発車から2分後くらいに出発したものの、乗務員が空席を数えていてelevenと聞こえた気がした。悪い予感は的中、無線で連絡が入って途中2ヶ所に立ち寄って人々を乗せていく。10時5分離陸のフライトなのに、空港到着は2時間前を切るのが確定。満席の1台目だったらこんなロスないのに・・・一体何時にカウンターのチェックインが打ち切られるのだろうとハラハラしながら、バウチャーが送られてきた時にもう1本前のバスに変えてもらうよう交渉すべきだったと自分の落ち度を悔やんだ。
時間つぶしにメールをチェックすると、上司から緊急に対応してくれ案件が舞い込んでいた。最悪の場合、出勤する予定のない日に処理しなければならなさそうだった
いや、それどころではない、空港に到着した。離陸1時間25分前
急いでバスの脇腹の荷物庫前へ向かうと、自分のスーツケースが手前にあったのが幸いした。ダッシュで建物に入り、掲示パネルでカウンター番号を探す。右手へ15m、Fin〇airのカウンターに人は並んでいない。5つのうち3つがclosedとなり、係員が去ろうとするタイミングだった。economyと書かれたカウンターに残るベテランの女性スタッフに、飛行機に乗らなければならないと伝えると、"どこ行き?” ヘルシンキ!!と叫ぶ(後で知ったが、デリーやソウルなど多路線飛んでいるのだった)。
PCを操作してくれて、どうやら乗れそうと判明。はあぁ・・・オーバーブッキングじゃなくて助かった
boarding timeまで45分、あとはお土産を買うのみ。2階へ上がるとduty&freeがあり、まずバラマキ用のお菓子を買う。友人たちには温泉のシリカパックを目論んでいたが、小袋がなくてあきらめる。一番安そうなのが800kr(≒944円)の塩(小瓶入り)で迷う余地なし、まとめ買いする。
搭乗口付近のベンチで、前日オーロラツアーに行く前にスーパーで買っておいたサンドイッチをパクつく。具はすっかり気に入ったラムの燻製&ビーンズサラダ。
お腹が落ち着いたところで、上司に対応しますとメールを返信。そして担当者に電話してみたが、留守電になってしまった。
そしてふと出国審査がなかったことに気づく。そういえば、入国審査もなかった・・・
搭乗してみると、日本の大手旅行会社の団体一行近くの席だった。添乗員がやおら近づいてきて、私の隣の女性と後ろの男性はカップルだから座席を交換してもらえないかと英語で話しかけられた。“No problem.” と返し、颯爽と交代する。いつものことだが、日本人と見られていないのが印象的だった
3時間でヘルシンキに着陸。乗り継ぎは2時間しかなかったが、遅れないので焦りとは無縁。
出国審査官は「アリガトウ。サヨナラ」と。"Good Japanese." とほほ笑み返す。空港内に日本語表示が多かったし、日本人の利用客が多いのかな。こうして、今回の旅ではパスポートにヘルシンキの出入国のみスタンプが残った。
その後にふらりと入ったムー〇ンショップで2.5€(≒403円)のグッズを見かけ、安いなと思ってしまう。いや、フィンランドの物価が決して安いわけではあるまい。そう思わせるほどにアイスランドのそれが高いのだ。
なにげなくメールをチェックすると、先ほど留守電だった担当者からメールが届いていて、上司から聞かされた日程より4日後の対応で問題ないことが判明。な~んだ・・・
終わりかけとはいえvacation中に仕事に引き戻されたストレス解消、とかこつけて1杯飲んで搭乗するのだった。このさいフィンランド産じゃないことは問題なく、久しぶりのワイン(ロゼのスパークリング)が沁みる、くうぅ
★ 終わりに ★
帰国後にPCアドレスに届いていたメールをチェックしたら、travel agencyから何通もメールが届いていた。その最初が12月26日のオーロラツアーは中止しますという内容。そして、その次が26日のツアー代替として30日に振り替えますという内容(←スマホにも同じメールが送られてきて、現地で見ることができた)。更にその次が30日のオーロラツアーのpick up場所を調整しますという内容。最後が、30日は希望通り9番のバス停でpick upします、という内容だった。
これを見て、agencyに連絡先として登録したのはPCのメアドだったことを思い出し、いくつかの疑問が氷解した。まず、26日夜に迎えが来ず待ちぼうけをくらったと思い込んでいたが、連絡はなされていたということ。agencyに落ち度はないにもかかわらず、30日のツアーに参加できるよう手配してくれたこと。30日のバス停変更についても連絡が来ていて、おそらくツアーバスは9番のバス停で私を長らく待ったうえで電話がかかってきたこと。
当然ながら、登録したメアドに返信するのがagencyの原則だろう。送信者名を見ると、一連の自分のメールに対応してくださったagencyの担当者は複数おり、26日のオーロラツアーに参加できなかった分を30日に振替できる旨の連絡をPCとスマホの双方に送信してくださったのは担当者の配慮だったと思われる。要するにagencyは瑕疵なく連絡をおこなってくれたし、なおかつ自分の要望にも誠実に対応してくれたというわけ。travel agencyに多大なる感謝の念を表する一方で、9番のバス停で待たせてしまった同乗の方々に伏してお詫びしたい
閑話休題。12月29日、南岸ツアーの最終日にドライバー兼ガイドさんが「明日からブルーラグーンが営業再開するよ」と情報を提供してくれた。過去の記事で既報のとおり、10月に旅の計画を立てた際には温泉好きの血が騒いで 初日(12月26日)にブルーラグーンへ、30日にスカイラグーンへ行く予定だった。しかし、11月に発生した火山噴火の影響でブルーラグーンは営業中止となり、後者に賭けていた。ところが27日から生理になってしまい、いずれにも足を運ぶことが叶わなかった。26日に営業再開していればピンポイントで入れたのになぁ・・・と頭をよぎったのは言うまでもない。
この旅を振り返ると、オーロラを見ることができなかった、自分がアイスランドに初めて興味を持つきっかけとなったセリャランスフォスの滝の裏側にまわれなかった、温泉に一切浸かれなかった・・・客観的に総括するなら 何も果たせなかったのだろう、あらかじめ期待していたことは。
一方で、夜明けの美しさ・日の出から日没までの短さをはじめとする高緯度地域の冬の暮らし、雪原と空の境界が溶けあう白い景色、暗くても危険を微塵も感じない治安の良さ、人種差別なく温かいアイスランドの人柄・・・自分にとって未知の事象にあまた巡り合い、心魅かれた。
此度のようにすげなく振られることがあろうとも 懲りずに自分はまた旅に出る、まだ見ぬ世界を求めて
また、後の下線部の数字にも対応しています。
1 レイキャビク (2023年12月30日)
7時に起床、ホテル1階のレストランへ。ビュッフェで朝からガッツリと食事を済ませる。
元々の予定ではスカイラグーン(レイキャビク近郊の温泉施設)に行く予定だったが、記事「その1」でお伝えしたとおりの体調のため、museum巡りに予定を変更。
結果的に2万2千歩オーバーの移動となった。途中でmuseumの椅子に座りつつ、トイレも利用できたのでカフェに入ることもなく、ほぼ1日歩き通し。解けかけの雪で歩きにくいのに、ようやるわな自分(苦笑)
ホテルを出発し、まずはホフジハウスを目指して大通りを海の方向へ進む。月が天空に輝いているが、これでも午前9時半なのである。
ランニングやら散歩やらで人影はポツポツあるし、車も行き交う。この暗さでも身の危険を感じないんだよな~ この国は相当治安がいいと思う。
ホテルから500mほど、ハウスが見えてきた時は周囲に誰もいなくて近づくのがはばかられるような、泥棒感満載だった。が、ほどなくツアーバスが到着して欧米人観光客がドカドカ降りてきた、ホッ
こちらがホフジハウス【1909年、フランス領事館として建設。ワシントンとモスクワの中間地点ということでこの地が選ばれ、冷戦下の1986年10月にアメリカ大統領のレーガンとソ連書記長のゴルバチョフがここで会談し、これがもとになって翌年12月のINF全廃条約締結に至ったといわれる】。
中を覗きたくて階段をのぼってみたが、窓の位置が高すぎて自分の身長では見られなかった、残念
銅像あり【Einar Benediktssonという詩人。19世紀末~20世紀前半に活躍し、独立を促すナショナリズムの隆盛に一役買ったという】。
次は海沿いを北西へ進む。
画像左の尖塔はハットルグリムス教会。74.5mとそもそも高いうえ、丘の上に建っているので この町のどこからでも目に入るといっても過言ではない。
1kmほど歩くうち 次第に空が明るくなり、雪をかぶった山影が姿を現しはじめた。
東を振り返るとこんな感じ。
が、西側はまだ夜の雰囲気が濃く漂う。
モダンなモニュメントが登場。両サイドからの眺めを比較してもらえば、東西の様相の違いを感じていただけるだろう。
まずは西側に向かって撮影。
そして、東側に向かってパシャリ【なお、これは「The Sun Voyager」というタイトルの作品で、海に繰り出す人をイメージしているらしい】
水鳥が海上で羽を休めている。
第二の目的地ハルパに着いた時、来し方を振り返る。
この国では夜が明けていく様が実に美しい。えもいわれぬ色彩に移ろいゆく空・・・高緯度地域の夜明けは、朝が弱い自分にはありがたい贈り物だ
こちらがハルパ【2011年にオープンした多目的ホールにして、アイスランド交響楽団の本拠地。金融危機の影響もあり工事は一時中断したが、4年かかって完成】。
柱状節理をモチーフにしたデザインは角度により宵闇でも輝く。ちなみに5枚上の画像左、ひときわ青いのもハルパである。
こちらは別の角度から撮影。
ダメ元で入ってみたら、ごく限られた範囲ではあるが無料で見学することができた。
エントランスの天井。
窓の向こうには旧港が広がる。3日前まであの辺りに滞在していたんだよね・・・もう懐かしくなっている
第3の目的地セトルメント・エキシビションへ向かう途中、チョルトニン湖をかすめた。凍っていないわずかな水面に水鳥たちが集っていた。てか、白鳥って鳴き声が大きいのね、ビックリ【元々は貯水のためにつくられた人工湖。市の職員が湖にお湯を流して全面が凍らないように、鳥たちの居場所を確保しているそうだ。なんて優しいの】。
レイキャビクの街では、所々に不思議な彫像が存在する。画像右はそのひとつ【タイトルは「無名の官僚へのモニュメント」】。
葉牡丹が健気に咲いている。
先日来、市庁舎と思い込んでいたのはドゥムキルキャン教会と判明。閉まっていて、中には入れず
【1796年創立、レイキャビクのカテドラル。国会が開会する際にはこの教会でミサを執り行なった後、会議場に移動するという。現存するのは19世紀半ばの再建】
その横には国会議事堂【アルシングともいう。記事「その1」で言及したとおり、この国では930年からシンクヴェトリルにて毎年議会が開かれていた。ノルウェーの支配下に入っても続いていたが、デンマーク統治下の1798年に中断を余儀なくされた。しかし自治への要求が高まるなか19世紀半ばにアルシングは復活、1881年にはこの議事堂が建てられた。今日に至るまでレイキャビクで開催されている】。
首相官邸を見かけた時も思ったけど、この国ってこういうのが簡素よね。暴漢が突入してくるとか前提にないんだろうな、治安いいもんなぁ。
100mほどでセトルメント・エキシビションに到着【2001年に発掘された、レイキャビクで最古の人工建造物=9世紀後半の遺構を保存している】。
現在の地面より下に遺構があるため、入口を入って目の前の階段を降りるスタイルになっている。エントランスの壁には世界地図が飾られており、横のパネルには「約10万年前にアフリカ大陸でホモサピエンスが出現した。約1万2千年前には南極を除くすべての大陸に人類が住みついた。約1100年前、アイスランドに人類が定住するようになった。」と記されていた。
ここアイスランドは中央上部に赤く示されており、他にも赤く塗られているハワイ(画像左中央)・マダガスカル(画像やや右中央)・ニュージーランド(画像右下)はアイスランドの前後に入植があった場所という比較のようである。
この遺構が西暦871±2年のものであることを強調している。
入館料は2750kr、ガイドブック情報より1000kr(≒1180円)も高くて驚いた。値上げはコロナ禍で観光が退潮した反動、はたまた諸物価高騰、それとも単にガイドブック情報が古すぎただけ まぁ、こういう施設を維持・管理するのに費用がかかることは理解できるし、値上がりを理由に見学をパスする選択肢は自分にはない。
支払いを済ませ、左側の小ぢんまりした空間に足を向けると、人々がこの島に渡ってくるまでの過程を推測し映像にしたコーナーで、彼らが乗ったと思われる帆船のイラストもあった。
メインの展示室に入ると、まず中央の遺構が目に飛び込んでくる。これと同時期、9世紀後半の日本は平安時代の前半で、藤原氏が権力を強めていく時期かぁ・・・
一般的にヨーロッパの文明は日本に先行しているが、アイスランドは入植が遅い。それほど当時の技術レベルでは暮らしにくい気候風土だったのだろう。
入植初期の人々がいかに巨大な集合住宅を建てたかの映像解説もあり、模型もあった。
芝を用いたターフハウスの画像もあった。
館内に掲示されている英文の説明をしこたま脳内で翻訳したが、印象的だったのは以下の3点。
①レイキャビクが良い港であることから、この島の中心地として発展した。
②湿度が高い風土のため、水の確保には困らなかった。当時は石と灰で雨水をろ過していた。
③ゲノム解析の結果、男性のほとんどはノルウェーから、女性の半数はイギリスからしかも奴隷としてこの島にやって来たことが判明している。ただし、言語的あるいは社会制度的な側面を見ると、ノルウェー以外のスカンジナビア半島の国々やアイルランドの影響も多分にあるらしい。
海洋航海をつうじて広汎な範囲で交流がおこなわれたのね・・・
そして確かに・・・気温が低いわりにかさつかないよね。ハンドクリームやリップクリーム持ってきたけど、使わずとも問題ないし。湿潤なんだわ
天気がくずれる前にハットルグリムス教会のタワーに登りたい気持ちがはやったが、アイスランド国立博物館のほうが近そうなので先に向かう。南南西に600mほど、等高線のない地図では気づかなかったが、丘へのぼっていく道程だった。途中、チョルトニン湖越しに教会を遠望できた。
博物館はグレーの壁・シンプルな3階建てで、遠目にそれと示すのは幟くらい(この画像には写っていないが)。
こちらもfeeが500kr(≒590円)上がっていた、ははは
この島に人類が入植した後から時間の経過に沿って展示されている。
いきなり人骨が目を引いた【説明パネルによると、10世紀に40歳くらいで亡くなったと推定される女性の骨という。胸に三つ葉のブローチ(シェトランド諸島[イギリス領]でよく知られる)と、スコットランド風のケルト装飾が施された留め金具を身に着けていた。遺体のそばには木製の柄のついた長いナイフ、櫛、スプーンとして用いたと思われる貝殻、お守りと思われる石などがあった。定かではないが、調理器具が副葬されていることから、来世では家事を果たすよう期待されていたと思われる】。
子どもの骨も展示されていた【8ヶ月の子どもと推定されている。概して子どもの骨は大人の骨に比べて保存状態が悪いとのことだが、これは砂の中に埋められていたのが幸いしたらしい。大人と違って副葬品はなく、来世を想起させるものはない】。
このあと金属器などの道具の展示が続いたが、足早に通り過ぎる。自分が興味あるのはキリスト教を受容した後の文物だった。ハットルグリムス以外の教会に入るチャンスがないまま過ごしてきたので、特に渇望していたのだった。
【9世紀、アイスランドに移住してきた人々のほとんどが北欧にルーツを持ち、異教信仰(北欧神話)を擁していた。しかし彼らが島に到着した時には既に、俗世から離れて求道するためにアイルランドからやって来たキリスト教の修道士たちがいたし、北欧人たちが各地で捕まえて奴隷として島に連れてきた人々もキリスト教徒であったため、初期の定住者の多くはキリスト教徒であったといえる。が、その後のアイスランド社会では北欧人が実権を握ったため、異教信仰が主流となった。
10世紀末になるとデンマークとノルウェーでキリスト教が広まり、995年にはクリスチャンの王オラフがノルウェーで即位した。彼はノルウェー人が入植した地にも宣教団を送り、キリスト教に改宗するよう圧力をかけた。当時、アイスランドで洗礼を受けている者はわずかだったが、1000年にアルシング(アイスランドの議会)ではキリスト教を受け入れることを決断し、この問題で血が流れることはなかった。ただし、従前の異教信仰(北欧神話)を個人がもち続ける権利も得ていた。つまり、ずいぶん以前から私的にキリスト教を信奉する者は存在したが、アイスランドが公式に改宗したのは1000年ということになる】
この国がキリスト教に改宗した初期のころの遺物はあまり残っていないが、異教のお墓からキリスト教のアイテムが見つかることがままあるという。
このペンダントは11~12世紀のもの。その形は十字架であり、また北欧神話のトール神がもつハンマー(ミョルニル)でもある。
宗教画が描かれた木材の一部【11世紀後半の制作。元々は着色されていたかもしれないが、現在その痕跡はなくなっている。アイスランド北部の農家の屋根裏部屋で発見されたが、カテドラルの西壁のものではないかともいわれる】。記事「その2」でも言及したが、高緯度のこの地では希少な木材が使用されている。
全体像はこんな感じだったらしい。モチーフは最後の審判【全体の幅は7~8m。フレスコ画でよく表される題材だが、木彫の作例は珍しいという】。
聖母マリアの石像【高さ2m弱。制作時期については言及されておらず、不明。息絶えて十字架から降ろされた我が子イエスを見て悲嘆にくれるマリア様を表現している。なお、この国で石彫りの作品はわずかだという】。
未踏の地だから知らないけど、アイスランドの南東に位置するフェロー諸島(デンマーク自治領)・シェトランド諸島・ノルウェーなどの石像もこんななのだろうか??
個人的には、かつて訪れたアイルランド北部の石像たちを思い出さずにはいられなかった。ケルトの感じは全然ないけど、像全体の大きさや厚さ、太めの刻線ながら浅めの彫りの感じが似ている・・・海が横たわっているとはいえ、2,000㎞は決して遠くないんだなぁ
キリスト像【1200年前後の制作と推定されるロマネスク様式の彫刻で、かつての彩色の跡が残っている。アイスランド北部の教会に置かれていた】。
角杯【動物の角でつくった杯で、盟約を結ぶなど特別な乾杯の際に使用する。中世の北欧では一般的だが、アイスランドのは精緻な彫刻がほどこされているのが特徴】。
右上のをズームアップ。上段は知恵の木の下に立つアダムとイヴ、下段は磔刑【17世紀制作】。
聖歌が流れる小部屋もあった。薄暗かったので、展示物の写りがイマイチでごめんなさい
細やかな作りの十字架。後ろの壁画は人物の表情がユニーク。
こちらも面白い表情をしている。
ノルウェー王オラフの彫刻もあった。この国を改宗させたから、教会では崇められてきたのだろう。他国ではあまり見かけない、地域色の強いモチーフだなぁ。
小さめの十字架【左はロマネスク様式で13世紀、右は中世末期の制作】。
階段で3階にあがると、刺繍だけが展示されている1部屋があった。
コミカルな表情に魅かれた刺繍作品【アイスランド北部の教会の祭壇正面にあったもので、16世紀はくだらない制作とされる。磔刑の左右に聖母マリアと使徒ヨハネを配する。キリストの両眼が見開かれている表現は珍しいが、13世紀のイギリスの刺繍などに類例が見られる】。
別の部屋に入り、綺麗な色だなと思ったらクジラの骨を彫った作品群だった。大海に浮かぶこの国らしくて素敵
上の画像、一番下の細長い作品をズームアップ【18世紀初め制作の寝台パネル。枕元に刻まれている文字は「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネは私が横たわるベッドを祝福する」】。
う~ん、いい夢見られそう
2枚上の画像、右端の縦長の作品の最下部をズームアップ【息絶えたキリストを十字架から降ろす場面】。
3枚上の画像、右端の縦長の作品の最上部にズームアップ【中央にはキリストの昇天を見上げる人々と、父なる神に抱きしめられるキリスト。左上は磔刑、右上は昇天後 天上と地上の栄光の王として君臨するキリスト。なお、この大作は1600年前後にアイスランド南部の農夫が聖書の場面を彫り出したものという】。
人魚の彫像もあった。作風も素材も全然異なるが、これまたアイルランドはクロンファートの教会の壁にあった人魚像を思い出した。
訪れたことないけどデンマークには人魚姫像があるし、北海やノルウェー海周辺ではポピュラーな存在なのかなぁ・・・
博物館の最後は宝物ではなく、民俗コーナーだった。
最古の婚礼衣装【1859年の秋、レイキャビクで着用された。黒い布のジャケットの縁には銀の糸で刺しゅうを、スカートにも花柄の刺繍をほどこしている。腰にはベルトを巻く。頭飾りとベールをかぶる】。
19世紀の家【中世アイスランドの浴場付き更衣室が長い時間をかけて変化し、今や家族が仕事をしたり食べたり眠ったりする多目的空間となった。中世後期に気候が冷涼化したため、人々がかまどの近くで多くの時間を過ごすようになったのが始まりという】。
中はこんな感じ【裕福な家では、家主とその妻は独立した寝室で眠る。小さな家では家族みんなが同じ空間で眠り、大人と子どもの2人1組でベッドを使うという】。
階段を降りながらステンドグラスを眺めた。
出口へ向かおうとして、トール神の像を見かけていないことにふと気づいた。ガイドブックで推していた宝物、見ないでは去るに去れない。展示の並びからして1階にあるはず・・・
しばらくウロウロしてたどり着いた。かなり最初のパートにあったのだが、完全に見落としていた。
【1000年前後の制作と推定されるブロンズ像。高さ6.4cm。北欧神話に出てくるトール神とされるが、一方で栄光のキリストという説もある。像はトール神が持つハンマーと思われる物を握っているが、その形はキリスト教の十字架にも似ている。北欧神話とキリスト教が平和裏に共存したことを示す作例という(トール神; 北欧神話で雷をつかさどり、農耕の神として崇められる。敵対する巨人と対決し、そのハンマー[ミョルニル]を投げれば必ず敵を倒すという最強の戦神でもある)。
なお、この像は1815年またはその翌年にアイスランド北部で発掘されたが、14世紀末からこの国の支配者となったデンマークの首都コペンハーゲンにまもなく送られた。独立前ではあったが、アルシング(議会)1000周年にあたる1930年に他の宝物とともにデンマーク国立博物館から返還された】
三角形の帽子をかぶっているからか、サンタクロースに見えてしまうのは私だけではないはず
結局2時間で博物館を後にしたのだが、2階はかなりのスピードでまわった。丁寧に見学するならば、半日は必要かもしれない。
14時過ぎ、チョルトニン湖の間を横切る道を通って教会を目指す。下の画像の左右とも湖で、中央奥に教会がそびえる。
湖の北側。凍ってその上に雪が積もった湖面は、滑ったり雪合戦をしたりと格好の遊び場になっていた。なお、画像右の尖った屋根も教会だったが、閉まっていて入れず
歩いていると、ごく近くの上空を飛行機がかすめていった(下の画像、中央やや上)。アイスランド航空は市街の隣接地から地方都市へ飛んでいる模様だが、首都でこんな至近距離を飛行するのは中々ない気がする。
4日前も歩いたスコウラフェルススティグル通りをのぼっていく。今回は吹雪いていないので(笑)、人出は多め。
ふと脇道をのぞくと、下り坂の向こうに海が垣間見えた。
けだるげな午後の空に屹立する教会。
この日はミサだからと追い出されることもなく、祭壇周辺をじっくりと観察することができた。
祭壇はシンプルで、左右に小さなツリーが置かれている。赤い照明はイエスの血を意味するのか??
祭壇横の壁には大天使ガブリエルの壁画。
こちらは大天使ミカエル。
会堂内の座席の全てに飾られている編みレースは雪を彷彿とさせる白
人もまばらだった前回とは異なり、タワーにのぼるために行列して15分待った。のぼったところで足の踏み場もないのではと危惧したが、考えすぎだった。風の強さと気温の前に、そうそう長居もできないのだった
期待通り視界はクリアで、北西に海を見晴らすことができた。天候でこんなにも見え方が変わるんだね・・・あぁ、リベンジできてよかった
西の方角にはおもちゃ箱のようなカラフルな建物もあり、また雪が積もったモミの木すなわち天然のクリスマスツリーがチラホラ見える。
北東には雪をかぶった山が横たわる。
南東を向くと、教会の屋根の存在感大。
教会を出ようとして、扉の彫刻にハッとした。四つ葉の植物はシャムロック アイルランドからこの島に初めてキリスト教がもたらされたことを象徴しているのかも・・・
(この記事を書くにあたり調べてみたが、確たる情報に行きあたらず残念)
青みが増し、夜が訪れつつあることを告げる空。
坂道を下りながら、お土産購入タイムに突入。とはいえ、税の関係で空港が最安値という情報を得ていたので、買うのは最小限にとどめようと心に決めていた。
それにしても何にせよ高くて、気軽なお土産にするには引くような価格。これいいなと思うと1800kr(≒2,124円)くらいする。1000kr(≒1,180円)以下はほとんどないし、あったところでマグネット、キーホルダー、石鹸など・・・微妙そうなモノばかり 結局、空港で買うことにした【自分が見た中で安価だなと思った土産物屋は、最後に泊まっていたホテルの向かい側、ロイガヴェーグル通りとSnorrabraut通りの角にあるア〇スランドホテルの1階のお店。そう広くもなくて何でも揃うとまでいかないが、他店と比べて500円くらい安い感じだったので、興味のある方はぜひ】。
あとはハガキと切手を買い足さねば。実は、アイスランドで一度も郵便局に行かずじまいだった。ガイドブックに情報がないうえ、歩いていても見かけなかった。しかし、ハガキを売っているお店ではstampsがあるよと書かれていて、しかも表示がない店でもお店の人に聞いてみたら扱っていたので、充分に事足りた【ただし、1枚が400krと450krのお店があるので要注意 たまたま最初に買ったハットルグリムス教会の売店が400krだったので、450krと表示してあるお店では買わないようにしていた。が、同じ店でも違う日・違う店員だったら値が変わるという摩訶不思議。あちこちで買ってみたが、3ヶ所で400kr・2ヶ所で450krという結果だった】。
たいして買わずとも土産物屋で思いがけず時間を過ごし、とっぷりと日が暮れた。
お土産用のビールを入手するため、アウストゥルストロティ通りのvinbudinへ向かう。好物のワインの棚をついチラ見したら、スペイン産のDiabloが2800kr(≒3,304円)・・・日本で買うより500円くらい高い感じかなぁ。手を出すまでもなく、350㎖缶のビールを5本買って退散。
残すはオーロラ観賞ツアーのみ。バス停でのpick up前に夕食を済ませる必要があった。翌朝は出発が早く朝食をとる時間がないため、最後のまともな食事だった。
ネット情報によるとアイスランド料理推しのレストランがホテルの近くにあり、17時半ころ店の前を通りかかったら空いていた。が、店頭のメニューを見たらラムのスープがなかったのでやめて、泊まっているホテルのレストランへ行くことにした。
ビールにパン(ブリキ缶入り)と前菜。なお、画像中央のはこの国らしい溶岩の上に盛られたバター・・・なんだかオシャレ
ラムのスープ。燻製に比べると羊らしき香りはあったが、サイコロ状の野菜とパセリとあわせて美味しくいただいた。だいぶmodernizeされてるかもしれないけど
メインはタラ(cod)と迷ったが、カリフラワーのリゾット アスパラ添え(ヴィーガン料理)にしてみた。滋味深い、ほっとする味わいだった。
会計はしめて8,630kr(≒10,183円)。最後だからと値段よりも食べたいものを優先したら、それなりの額になっちゃった
さて、いよいよオーロラ観賞ツアーである。記事「その1」で述べたとおり元々は到着した日(12月26日)にツアーに参加する予定だったが、ピックアップ時間前から待てども迎えに来なかったのでtravel agencyにメールして、この日にやり直しさせてもらうことになったのだった。ただし、ホテルを移っているためpick upのバス停を15番から9番に変更したほうが都合がよく、その旨を28日にagencyにメールしたのだが、一向に返信がないのだった。
迎えのバスが来た時に拙いmy英語が通じなかったらメールの文面を見せて説明するつもりだったので、記載通りの15番のバス停で待つことに決めた。同じレイキャビク市内といっても片や外れ、かたや中心部にあり近くはない。40分かかると予測してホテルを出た。
目抜き通りのロイガヴェーグル通り沿いに北西へ進むと、年末のひとときを楽しむ人々でにぎわっている。通りの両側を埋め尽くすショップはきらびやかで、12月25日を過ぎてもクリスマス装飾がスペースを占めているのも欧州ならでは(「欧米」と言いたいところだが、アメリカはトランジットのみ・旅したことはないので、よく知らない)。
下の画像上部、吊るされた洗濯物にご注目あれ。サンタクロースの家かもと匂わせる遊び心にキュン
そして、爆音の方角を仰ぐと個人で花火をあげているのだった。新年のお祝いだとしたら1日フライングだなぁ、あれっ 過去に同じような現象を見かけて、同じことを思った気がする・・・あれはアムステルダムだったか?? 大晦日から元日への切り替わりにこだわりはないのかもしれないなぁ、文化の違いかも。
pick up時間は20時30分だが、30分前にはバス停にいるようにとメールに書かれていたため20時を目指した。が、結局19時45分に15番バス停へ到着。雪道を考慮しての計算だったが、日中に降らなかったので雪が少なくて早めに歩けたらしい。で、結論から言うとバス停で1時間50分待った。25分歩いた身体の熱がおさまると、だんだん強風に体感温度が下がった。さしものユ〇クロ様のインナーといえども、腰にカイロを貼っていようとも
20時には自分を含めて2組3人だった待ち人は増え続け、20時半過ぎには20人ほどに膨れあがった。そこから2グループに迎えが来て、残ったのは自分を含め4組7人。不安になりお互いに確認し合うと、みんなtravel agencyが異なっていた。
21時15分頃、スマホに着信があった。手袋をはずすのにモタつくうち切れたため、折り返しかけ直す。自分の英語力で通話は難易度高いが、ためらっている場合ではない。
若い女性の声で「どこにいるの?」と聞かれ、15番バス停と答えたら "O.K.” と言われる。念のため “I’m waiting here." と伝えて電話を切った。
そのころ他の2組は各々agencyに電話して、ツアー催行なしと告げられた模様。自分の次くらいにやって来た、すなわち同じくらい長時間ともに待っていたご夫婦の奥様が "Bye." と手を振って去って行った。そこからの15分、1人で待つのがしんどかった。4日前と違って絶対迎えが来ると分かっているのに、である。今思えば、寒さで肉体的にはいっぱいいっぱいだった
21時35分、大型バスが現れた。4WDやワゴンのような車に乗せていく旅行社もたくさんあったが、これは50人以上乗れるようなガチの観光バスだった。先ほど電話で会話したと思われる女性(というより少女、たぶん大学生)のガイドさんに迎えられ乗り込むと、席はギッシリで自分が正真正銘最後の客だった。
バスが出発するとガイドさんが “Thank you for patience." と言っていたので、9番のバス停で長く待っていてくれたのかも・・・
観賞ポイントまで30分かかるとアナウンスされたが、その前にガソリンスタンドでトイレ休憩があった。2ブースしかないのもあって相当時間を要し、かなり長い時間停車していた。
23時、view pointに到着すると若いガイドさん&長髪でややふっくら体型のドライバーさんはhot chocolateをつくって配り始めた。バウチャーに記載されていないサービスに驚いたし、手作り感あふれるat homeさが温かかった
日中の気候は穏やかで、バス停を目指して歩き始めた頃もclearだった空だが、バスを待つうちに雲がかかり始めた。そしてドライバーがwindyと言うとおり、時間が経過するほどに手強くなった。23時から0時半までポイントにとどまったが、オーロラはついぞ拝めなかった
早々に星空撮影に切り替えたツワモノもいたが、風の強さに本気で吹き飛ばされそうで、自分は1時間半のうち15分ほどしか外に出ず、車内でウトウトしていた(同様の人が多数)。
帰り道に、ガイドが「本日の日付とメールアドレスを登録したら、今後2年間は観賞ツアーに参加することが可能です」と告げた。
あぁ・・・そうなのか。4日前にダメもとで送った自分のメールに対し、travel agencyは前倒しでこの権利を私にくれたのね。合点したわ
それにしても、2年有効のうちにどれほどの人が再訪するのだろう?? 客の多くがリベンジを果たそうとしたら、ビジネスとして成り立たないんじゃないかな。オーロラに遭遇できず、無念の思いでこの国を去る人が多いという厳然たる事実があるのね。自分もその一人にすぎないのか・・・
停車中に隙を見てガイドさんに9番のバス停で降りたいと伝えたら快諾、しかも最初のdrop offが9番というラッキーぶり にもかかわらず午前1時半になっていたので、15番から歩くハメにならなくて重ねがさね幸いだった
1 レイキャビク ⇒ヘルシンキ (⇒帰国) (2023年12月31日)
午前の便に乗るため、7時に空港行きバスに乗ることになっていた。
オーロラツアー後に3時間しか眠れなかったが、帰国便逃すまじという緊張感でガバリと起き上がることができた。
7時少し前にチェックアウトすると、ロビーにスーツケースを放置して外出。ロイガヴェーグル通り沿いの最寄りのポストまで片道数分の距離を往復し、友人たちへのハガキを投函。なお、自分が歩いた範囲ではセンターホテルプラザの北東角のショップ付近にもポストがあった。共通していえることは、差し出し口が1つしかないこと。赤でJAPAN/Air Mailと書いたので、ちゃんと振り分けてもらえると信じるしかない【結果的に友人たちのもとへ無事届けられた】。
戻ってみると、スーツケースは無事だった。24時間出入り自由のホテルフロント(しかもガラス張りで通りから丸見え)を夜中に女性一人で担当するくらいだから、やっぱり治安がいいんだろうなぁ。
バスの到着は遅れ、寒空の下でたっぷり15分待たされた。結構な人数の人々が待っていて、乗りきれるのか不安だった。2台続けて来たバスの1台目に乗り込み、ドライバーに空港へ行きたいと告げたら手元のpadを操作して私の氏名を探し始めた。到着時(往き)とシステムが違っていて一瞬ビビったが、ちゃんと登録されていた。
ほどなくして市内のBSIバスターミナルで降ろされる。人の流れについて行くと、往きに市内drop offバスを待った側から建物に入り、反対側に出ると空港行きバスが待っていた。ふむ、こーいう構造になってるのか。
先着の別のバスの乗客が乗り始めていた1台目には乗ることができず、2台目にまわった。1台目の発車から2分後くらいに出発したものの、乗務員が空席を数えていてelevenと聞こえた気がした。悪い予感は的中、無線で連絡が入って途中2ヶ所に立ち寄って人々を乗せていく。10時5分離陸のフライトなのに、空港到着は2時間前を切るのが確定。満席の1台目だったらこんなロスないのに・・・一体何時にカウンターのチェックインが打ち切られるのだろうとハラハラしながら、バウチャーが送られてきた時にもう1本前のバスに変えてもらうよう交渉すべきだったと自分の落ち度を悔やんだ。
時間つぶしにメールをチェックすると、上司から緊急に対応してくれ案件が舞い込んでいた。最悪の場合、出勤する予定のない日に処理しなければならなさそうだった
いや、それどころではない、空港に到着した。離陸1時間25分前
急いでバスの脇腹の荷物庫前へ向かうと、自分のスーツケースが手前にあったのが幸いした。ダッシュで建物に入り、掲示パネルでカウンター番号を探す。右手へ15m、Fin〇airのカウンターに人は並んでいない。5つのうち3つがclosedとなり、係員が去ろうとするタイミングだった。economyと書かれたカウンターに残るベテランの女性スタッフに、飛行機に乗らなければならないと伝えると、"どこ行き?” ヘルシンキ!!と叫ぶ(後で知ったが、デリーやソウルなど多路線飛んでいるのだった)。
PCを操作してくれて、どうやら乗れそうと判明。はあぁ・・・オーバーブッキングじゃなくて助かった
boarding timeまで45分、あとはお土産を買うのみ。2階へ上がるとduty&freeがあり、まずバラマキ用のお菓子を買う。友人たちには温泉のシリカパックを目論んでいたが、小袋がなくてあきらめる。一番安そうなのが800kr(≒944円)の塩(小瓶入り)で迷う余地なし、まとめ買いする。
搭乗口付近のベンチで、前日オーロラツアーに行く前にスーパーで買っておいたサンドイッチをパクつく。具はすっかり気に入ったラムの燻製&ビーンズサラダ。
お腹が落ち着いたところで、上司に対応しますとメールを返信。そして担当者に電話してみたが、留守電になってしまった。
そしてふと出国審査がなかったことに気づく。そういえば、入国審査もなかった・・・
搭乗してみると、日本の大手旅行会社の団体一行近くの席だった。添乗員がやおら近づいてきて、私の隣の女性と後ろの男性はカップルだから座席を交換してもらえないかと英語で話しかけられた。“No problem.” と返し、颯爽と交代する。いつものことだが、日本人と見られていないのが印象的だった
3時間でヘルシンキに着陸。乗り継ぎは2時間しかなかったが、遅れないので焦りとは無縁。
出国審査官は「アリガトウ。サヨナラ」と。"Good Japanese." とほほ笑み返す。空港内に日本語表示が多かったし、日本人の利用客が多いのかな。こうして、今回の旅ではパスポートにヘルシンキの出入国のみスタンプが残った。
その後にふらりと入ったムー〇ンショップで2.5€(≒403円)のグッズを見かけ、安いなと思ってしまう。いや、フィンランドの物価が決して安いわけではあるまい。そう思わせるほどにアイスランドのそれが高いのだ。
なにげなくメールをチェックすると、先ほど留守電だった担当者からメールが届いていて、上司から聞かされた日程より4日後の対応で問題ないことが判明。な~んだ・・・
終わりかけとはいえvacation中に仕事に引き戻されたストレス解消、とかこつけて1杯飲んで搭乗するのだった。このさいフィンランド産じゃないことは問題なく、久しぶりのワイン(ロゼのスパークリング)が沁みる、くうぅ
★ 終わりに ★
帰国後にPCアドレスに届いていたメールをチェックしたら、travel agencyから何通もメールが届いていた。その最初が12月26日のオーロラツアーは中止しますという内容。そして、その次が26日のツアー代替として30日に振り替えますという内容(←スマホにも同じメールが送られてきて、現地で見ることができた)。更にその次が30日のオーロラツアーのpick up場所を調整しますという内容。最後が、30日は希望通り9番のバス停でpick upします、という内容だった。
これを見て、agencyに連絡先として登録したのはPCのメアドだったことを思い出し、いくつかの疑問が氷解した。まず、26日夜に迎えが来ず待ちぼうけをくらったと思い込んでいたが、連絡はなされていたということ。agencyに落ち度はないにもかかわらず、30日のツアーに参加できるよう手配してくれたこと。30日のバス停変更についても連絡が来ていて、おそらくツアーバスは9番のバス停で私を長らく待ったうえで電話がかかってきたこと。
当然ながら、登録したメアドに返信するのがagencyの原則だろう。送信者名を見ると、一連の自分のメールに対応してくださったagencyの担当者は複数おり、26日のオーロラツアーに参加できなかった分を30日に振替できる旨の連絡をPCとスマホの双方に送信してくださったのは担当者の配慮だったと思われる。要するにagencyは瑕疵なく連絡をおこなってくれたし、なおかつ自分の要望にも誠実に対応してくれたというわけ。travel agencyに多大なる感謝の念を表する一方で、9番のバス停で待たせてしまった同乗の方々に伏してお詫びしたい
閑話休題。12月29日、南岸ツアーの最終日にドライバー兼ガイドさんが「明日からブルーラグーンが営業再開するよ」と情報を提供してくれた。過去の記事で既報のとおり、10月に旅の計画を立てた際には温泉好きの血が騒いで 初日(12月26日)にブルーラグーンへ、30日にスカイラグーンへ行く予定だった。しかし、11月に発生した火山噴火の影響でブルーラグーンは営業中止となり、後者に賭けていた。ところが27日から生理になってしまい、いずれにも足を運ぶことが叶わなかった。26日に営業再開していればピンポイントで入れたのになぁ・・・と頭をよぎったのは言うまでもない。
この旅を振り返ると、オーロラを見ることができなかった、自分がアイスランドに初めて興味を持つきっかけとなったセリャランスフォスの滝の裏側にまわれなかった、温泉に一切浸かれなかった・・・客観的に総括するなら 何も果たせなかったのだろう、あらかじめ期待していたことは。
一方で、夜明けの美しさ・日の出から日没までの短さをはじめとする高緯度地域の冬の暮らし、雪原と空の境界が溶けあう白い景色、暗くても危険を微塵も感じない治安の良さ、人種差別なく温かいアイスランドの人柄・・・自分にとって未知の事象にあまた巡り合い、心魅かれた。
此度のようにすげなく振られることがあろうとも 懲りずに自分はまた旅に出る、まだ見ぬ世界を求めて
おしまい