優しく慈み深い父、何時も愛する子供等に取り巻かれて、彼らの為には何物をも惜しまず尽くしていた、父の姿は最早見られなかった。また残された母は如何にも悲しげに不安げに見えた。健気なアンヌの心は、直ちに自ら慰め手となるの必要を自覚し、雄々しくも奮い立った。
一九一四年の九月、即ち開戦後わずか一ヶ月以内に父は傷ついて帰宅した。戦の烈しさは、この短い月日に斯くも変わり果てた、彼一人の姿を見ても、察せられるのであった。ひざく痩せ衰え、疲労の極、面やつれいして見違える程であつたので喜び迎えた わずか四歳のアンヌも、弟のジョジョも、人違いして母の袖に堅くすがった。しかし間も無く、待ちわびた優しい壁を聞き、暖かい愛撫を受けると、初めて真に彼等の父である事が分かった。たちまちここにアンヌの心中に、善い性質が湧き起って來た。彼女は小看護婦となりすまして、全力を尽くしてこの大きな、大切な負傷者を労り(いたわり)慰め、欲しいという物を持つて来たり、まめまめしく、病床にかしづくのであった。身長に余る松葉杖を選ぶのは、か弱い彼女の腕には一と通りの重荷ではなかったが、その健気な心にはかえって軽かったのである。この負傷者も又、勇士の名に恥じぬ、雄々しい心の持主であったから、足を地につき、数?を選び得るようになると、義にはやる彼の心は、再び出征を望み、負傷した足の為、特別の履物まで作らせて、また戦地向かった。父の再び去った後の家庭の悲嘆は、一時父が帰っていただけひとしおで、アンヌもそれを最初の別れの時よりも遥かに深く感じた。ソンムの戦線に着いた二日目、またもやド、ギニエ中尉は奇蹟的に危い命を拾ったのであるが、重傷は免れなかった。今度は未だ傷口がふさがらい中、退院してクールで暫く静養する筈であったが、わずか数日を経ると彼の愛国心と義務的観念は、再び弾丸飛雨の巷(ちまた)に呼返してしまった。血気盛んな末頼もしい若者、家庭の柱石(ちゅうせき)と妻子に慕われおる者が一度出陣すれば、艱難辛苦に痩せ細り、生々しい酷い負傷の痕跡を受けて帰って来る。しかも又しても弾丸飛び散る戦場、辛苦の溶鉱炉の中に更に試練さるべく、義勇と情愛に心を引き裂かれ去って行く。送られる者の心、送る者の悲しみ、 父無き家の淋しさ、実に戦争は残酷であつた。この悲痛をアンヌは母と分かった。彼女は母を慰めようものと、小さい心を砕くのであった。そしてこの心の優しさが、彼女を向上させる梃(てこ)の力となったのである。ところがこの悲哀の中にも一つの喜びが アンヌの家庭を訪れた。
一九一五年の一月四日の朝、彼女は耳を裂く聲に夢を破られた。それはアンヌの床 の隣に置かれた揺籃(ようらん=ゆりかご)の中から起って来るのであった。淋しい家族を神は忘れ給わず、 もう一人の女児を与えて慰め喜ばせて下さるのであった。もちろんアンヌの喜びは想像に難くない。数日は大雪で寒さも殊の外で生後三日目の幼児には外出は案じられたから、司教の特別の許可で赤ん坊は自宅で洗礼を受けた。五歳のアンヌは妹の代母に立ちその役目を厳粛に果たした。「クレドを誦える時赤ん坊を触ってお出で、」と、主任司祭に命せられると、さも重大任務を帯びたかのごとく、真面目な面持で赤ん坊に手をかけていた。代母の使命を真剣に肩に荷なって、マリネットを全く自分の物のように思い、すべての権利を持つものと心得た。翌日椅子にやっとの思いでよじ登り、この「生きた人形」を摑まえた。赤ん坊はもちろん、代母の親心を察せずに泣き出した。泣き聲に驚いて駆けつけた家人が、「小さい子供は赤ん坊に触ってはいけない。」と叱ると、小さな代母は怒りに激昂して、大威張(おおいばり)で肩をそびやかし、「けれざ洗礼の日には出來るのです。」と主張して、大い に機嫌を損ねてその場を立ち去った。
一月八日頃、父がクールにちょっと立寄った。このたびは立派な動章を胸に輝かして来たの で、子供等は感歎の目を見張り、歓喜に胸を踊らせた。しかし再び別離の悲哀、戦乱の危害は繰返されねばならず、度重なる毎にアンヌはそれをいよいよ悟る様になった。それでますます母を優しく慰めようと勤め、父のつつがなきことを願う心から、心さな犠牲を数限りなく積む習慣を付け、その犠牲に合わせてしばしば祈を捧げた。 同月の十一日に、ギネエ中尉は三度目の負傷をした。ひどい重傷で危険な手術後、 付添人等は不安な心でその経過を見守るのであった。アンヌは父の手当てを受けている リヨンの病院に連れて行かれ、病院の仰々しい有様、事々しい病室の気配に深く感じ、 長く印象づけられて行った。このように神はアンヌに苦しみと悲しみを与えて、十字架の神秘の手ほどきをされたのである。(続く)
第一章 生涯の第一歩
一、試練
家の人たちにネネットと呼ばれていた、ジャンヌ、マリー、ヨゼ、アンヌ、ド、ギニエは一九一一年四月二十五日アンシイのクールに生まれた。幼時を過ごした此の古城は、フランスでも指折り数えられる風光麗しいアンシイ湖に臨んでいた。庭にはテラスがあってそこからは平らかな、真っ青な湖を囲む遠近の山々を、一望の下に楽しむ事が出来た。花に、緑に彩られた近くの丘は荘厳な遠景と対照して、変化ある風景に飽く事なき調和を見せている。自然は天主の光栄を賛美している。人の心を神に運ぶ!
多くの聖人等はこの自然美の中より、超自然を偲び、万物を賜った創造主に対する愛の焔に燃え立った。アンヌ、ド、ギニエもまた偉大な聖フランシスコを始め、多くの聖人を生み出したサレジオの聖地に、美しくかよわく咲き出でた一輪の花であって、この自然の教訓を悟り、自然の美しさから神を愛する事を学んだ。その家庭は純正は信仰と名誉を先祖から伝えていた。遠く遡れば聖ルイ王がある、母方の祖母フランソア、ユウラリ、マリイ、マデレン、デ、ブルボン、ブッセは、この聖王第六皇子クレルモン伯のロベールの直系であった。またバライ戦役の折、聖心の旗下で最初にフランス兵を指揮した名勇士ド、シャレット将軍派アンヌの大叔父でる。生まれ乍らこの子供はキリスト教的、英雄的環境と血統の下に置かれていた。完徳に達する道はすべて整っていた、とい言うものの恩寵を受ける者は受ける程、また試練をもうけなければならない。彼女もまた多くの不幸、苦しみによって試練されなければならなかった。
完徳に達するには環境を利用しなければならないが、それがどんな環境であるかには関わらない。人祖の例を思うに、完全な状態に造られ、特恩に浴して、あまつさえ我々には思い及ばぬほど智恵明らかに、心正しく、聖寵に満ち、死も苦しみをも、免れていたにも関わらず、意思の悪用によって、その試練に敗れたのは万人の識るところである。また神の戒めを重んじ従うことを決心し、なお悪に近寄らぬ用心が加わらなければならない。罪のたよりを避けよと、教える教会は経験によって、真実賢明な事を忠告しているのである。その秘訣を悟り忠実に従ったからこそ、アンヌは短かい月日に成功したのであった。心を照らし、強める助力の聖寵は、万人に与えられるのであるから、私どもとて成功しない筈はない、ただ彼女の様にその導きに従順に服し、不屈の精神をもって神の助けに頼り、忠実に進まなければならない。
偉大な聖人伝を繙(ひもとく)と、私どもからはあまりに遠い事で、到底そのような大業は果たし得ないと思うだけで眩暈を催すくらいである。却って失望に陥る事さえある。でなくとも完徳に進むなどという事は、我が事ならずすよう考えがちである。しかし、この幼児を見るに、人並み以上の短所、欠点を持ちながら、もっぱら聖寵の勧めに従い、倦(う)まず弛(たゆ)まず、おのれに打ち勝つ努力を以って、自分の務めに忠実に果たした事が見えている。私どもといえども彼女の勇気と忠実を以って、奮発努力すれば、神の我等に期待し給う程の完徳の道に、突進し得る筈ではないか。福音中にイエズスは「汝等の天父の完全に在す如く汝等も亦完全なれ。」(マタイによる福音書第5章48節)と。この意味は神の定められた私ども各自の境遇、地位、天に於いて許し給う幸福の度の応じての、最大限度を指し給うのである。
さて、アンヌはただ神の摂理に対して絶対必要なる「日々の戦い」に依って応じただけであった。いま述べようとするところの彼女の永続的忠実に、彼女の完徳に急進した秘訣が、潜んでいる事を読者も悟られるであろう。彼女の環境もよかったが、自発的な奮発心の調節と忍耐、意思の活動と善導を待ってのみ、環境は生きたのである。
まず今ここにアンヌの恵まれた環境を述べよう。これを読むとき父母たる者がその子女の善悪に進む最大原因となる事、彼らの永遠の幸福が自分の肩に掛かっている事、また子女に与える教養の善悪が、自分の永遠の賞罰を左右する事を自覚させられる。アンヌを語り賞賛する前に、彼女をこのように導いた父母の徳と、細心の注意、子女教育に際して自身の修養に、心を用いたことを忘れる事は出来ない。
ド、ギニエ伯とド、シャレット嬢は一九一〇年結婚後まずアンヌを与えられた。実は預けられたのである。この尊い貴重な霊魂は、この偉大にして高徳なる父母に依託された。幼きイエズスを聖マリア及び、聖ヨゼフに委任し給うた神は、全智の神であるから、もちろん人を選ぶ眼識も誤り給う筈はない。彼等にこそ、アンヌの如き宝は渡されるべきであったのである。その後引き続き三年間に、弟のジャック及び、二人の妹マドレンとマリー、アントアネットが生まれて家庭を賑わした。
この父、ギニエ伯は、誠にキリスト教徒の典型であった。フランス国一流の有名な学校ルゥ、デ、ポストに学び、なお陸軍の権威、我が皇族諸殿下が畏れ多くもフランスに御留学中学籍を置かせられた、サン、シイルの出身で、在学中彼の勤勉と信心は特に軍を抜きん出ていた。優れた成績を以って学業を終わると、軍役に無を投じ少尉に任官した。愛徳に秀でた若い士官は、兵卒等の上官であると同時に真の友であった。後、やむを得ない家庭の事情で、心ならずも軍職から退き家庭の人となったが、故郷に在っても無意味な生活に流れる彼ではなかった。熱心なカトリック信者で、堅忍不抜の努力家で、使徒的精神に満ち、自分の領地の処理統治に、己を忘れて尽力搬送した。彼は外に在っては社会人、公演家、新聞寄稿家であって、内に在っては善良なる夫、慈父、情けある主人で、ありとあらゆる方面に才能を発揮し、周囲の者を情けの泉に潤して、社会国家のため大いに貢献したのであった。彼の配下にある者はその慈愛仁徳に浴せざる者なく、その周囲はこの世乍らの楽園であった。彼は高尚でまた快活で、我が子の教育に材料にするつもりで、教会史を研究科目の筆頭に置き、法律にも志し、学位を得ると愛する公教会の為によりよき奉仕の縁(よすが)に備えた。
教区の青年を組に分け、各組に長を選び、自ら彼らを指導して、悪習と絶ち、善業をすすめ、生活の向上をはかり意義あらしめるよう計った。このような努力は徹頭徹尾、もっぱら教会と祖国への奉仕精神に一貫されていた。この偉大な人格者は自身善良なだけでは満足せず、周囲の者もまた彼を同じく、善良誠実たらしめんと努力した。朝には小作人等が、その日の業に出かけるところを迎えて激励監督し、夕べには終日労働を終えて家路に就くところを、待ち受けて慰め訓(おし)えんものと、サボイの地を端から端まで、東奔西走、席の暖まる暇もなかった。
自身行いの公平なるによって、人々の正しい心を養い、主義の潔白と見解の明らかになるによって、人々の広き了解を求め、人生観の高尚穏当なるによって、万人の高い尊敬を勝ち得たのであった。感化を及ぼし得る範囲内で、彼は周囲に善良な民、勇ましい信者を養成し、その権限外にまでも彼の仁慈は及ぼされて広く友を得、いたいけな愛し児を残して逝く、憐れな母親達の臨終の枕辺に看取って、長時間貧家に過ごすこともあった。
この父に対する、アンヌの愛は悲しみの中にいやまさった。というのは大戦はその当所からこの愛し合っている親子を引き離してしまった。当時、彼女は幼くフランスの数多(あまた)の家庭、殊に彼女自身の家族に苦しみをもたらしたこの恐ろしい戦禍について、充分了解出来なかった。けれども特に敏感なアンヌは、同年の子供等に比べては遥かに鋭くその悲哀を悟り、幼な心に刻まれた。父の出征後、万事が変わってしまった。(続く)
発行者は、聖パウロ会とありますけど、テレジアさまはなにも書かれていません。
今発行されている本は、訳された本でも、訳者がどちらの方か書かれていますけど
国会図書館ライブラリの本は一修道女としか書いていない本もあります。
修道生活って、体験したことがない私にはわかりません。
日々、犠牲の御生活のなかで、貴重な時間の中で、本を訳され、昭和16年12月には訂正5版を出されています。
非常に感謝に堪えません。
天国にいらっしゃるテレジアさま…… 今回のテキスト化、なんて思ってくださるでしょうか。
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この本を読んで思いますのは、
4つの福音書から、文が引用されているいうことです。
福音書の精読しなければ、と痛感させられました。