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愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝)第一章 生涯の第一歩 四、初聖体

2019-10-28 18:55:52 | アンヌ・ド・ギニエ

四、初聖体

 初聖体が彼女の内的生活に、また等しく大なる奮発心の原動力となった。初聖体の準備の充、不充分、初聖体前の遠い準備は、人の生涯の分岐点であるといっても過言ではない。子供がいよいよ初聖体の年頃になったというので教師の所や、教会の公教要理の組に連れてきて、責任を果たしたように思う両親があるが、子供の心は、その頃にはもはや、ある程度まで固まっているので、ほぼ何物にか執着心があり、先入主のあるところには急速に、全然異なる霊的、超性的思想が入る余裕はない。まず先入主を駆逐せねばならず、超自然界への道を開くのは容易でない。しかも思う結果はなかなか得られない。このような子供は霊的の事柄には無知同様で、主祷文 、天使祝詞こそ諳んじているが、天主に心をひらかれる事なく、聖主もただ目に映る画像に過ぎず、聖寵は影を潜めている。幼子の霊魂に在します聖主は、洗礼に依って臨み、大罪さえなければその霊魂の中に、留まり給うという信仰によって、ただそれを信ずるのであるが、精霊の威力感化は誠に乏しく、教師はしばしば当惑させられる。あたかも雑草茂る未開の地を与えられたようなもので、その地に豊かな実りを収めるまでには非常な努力が要る。健全な精神、完徳への到達、まして終りなき幸福を我が子に願う親は、幼時の教育に心されたいものである。悪の萌芽を初めに防ぎ、心を清く空しくして、また神への愛慕の情を養って置くなら、確かに立派な初聖体拝領が出来るであろうし、準備も速やかに出来るのである。聖体に在します聖主を、汚れ無い子供の霊魂は、大人の想像以上に明らかな、鋭敏な感覚を持って悟る事が出来る。しかし往々この事について、人は誤解している様である。幼児に神の事を話す必要はない。超性界の事柄は未だ理解できないであろう等と考えている。事実は反対で、天主は智者よりも却って、この様な無垢な幼児に自ら現し、悟らせ給う。「幸いなるかな心の潔き人、彼等は神を見奉るべければなり」(マテオ五-八)とは、イエズス御自身の御言葉ではないか。幼児もまた教え方一つで超性界の高嶺に達する。却ってこの世の執着なく、心中に神を否む先入主が無いので、専ら神を求め、素直に神を考えるから、容易に霊魂を全く神に捧げ、聖主の君臨に任せ奉る事が出来る。そこでこのような熱心な心は、超自然の光の中を真っ直ぐに、イエズスに向かって突き進む事が出来るのである。
 一九一五年六月二十八日、父の逝去の一月程前、母はアンヌのことを次のように記している。「私は彼女の利口なのに驚く、初聖体について種々私に話し、私にもイエズス様の事を話してくれと言った。彼女の答えにはまたいつも驚かされる。だんだんに教え導くため、私は小さい公教要理の書物を買う心算である。彼女は誠に豊富な才能を与えられている。私は天主にこの愛らしい小さい霊魂の中に植え付けられている善を、よく伸ばし、導き得るよう教えて頂かねばならぬ」と。世の全ての母が、この母のような心で神より任された自分の幼児を導き、その心に主を迎え奉る日のために、早くから準備を怠らなかったら、善い聖体拝領が出来るのは当然で、成人する前にこの霊的の悪に対する守備が完全に築かれてあったら、大多数の者は立派に成長し、世の中は理想郷と化すであろう。天主は私どもの霊的な守りの為にも、聖体を備えてくださったのではあるまいか。
 アンヌは発育と伴って、いよいよ強く聖体拝領の望みに心を高鳴らせるのであった。その日が近づくにつれ、この望みが善に向かう心を、どんなに励ましたであったろうか。まず公教要理の稽古に行くという事は、どんなに嬉しかったか知れない。彼女は大いに宗教的傾向を示し、驚くべき活発な智恵と洞察力とを持っていた。
 はにかむにはあまりに単純な彼女は、五つにもならないのに二十人ばかりの9ツか十の子供に交じってすぐ馴れてしまい、楽しそうに振舞っていた。敬虔で注意深い、利口な答えが仲間の者を感心させた。「一ツの問いに行き詰っていると、一同の顔は無意識にアンヌの方に向いて行く。するとアンヌは低い聲だが、直ぐ問題を解決してしまう。『まあこの小さい子は何でも知っている。』と九つになる子供が、アンヌの利口な返答を聞くたびに、いよいよ感服して、思わず独り言を言うのであった。」とカンヌで公教要理を教えていた童貞は話した。
 救い主を迎え奉るために、知識のみならず心までもよく準備したから、神はこの子供に他の子供よりも、以上の智恵と清い心を与え給うた。それで公教要理で学ぶ事は直ちに、全部実行しようと努力した。彼女はどんな事をしてでも、どんなに難しくとも、愛する幼きイエズスの為に、気持ちの善い御住居を自分の心の中に準備しようと決心した。その心掛けの善い、純な素直さについては可愛らしい話しがある。クリスマス前のある日の事、修院長が公教要理に来る子供等を集めて訓示を与えた。幼児となり給う天主に、温かい布団を入れた気持ちの良い揺籃を、こしらえて差し上げるようにと言われると、「でも私縫う事を知りません。」とアンヌはすすり泣きを始めたが、直ぐにその揺籃というのは、心の中で犠牲を捧げる事であると説明されると、やっと安心して愛するイエズスの為、小さな犠牲を沢山に捧げるのであった。驚くべき熱心さと、絶え間ない忠実とで、この事に取り掛かった。「どんな小さな犠牲でも、アンヌが拒むのを見た事は決してない。」と、この頃のことを人々は言っている。
 まず第一の準備として、アンヌは初告解をした。恥ずかしがったりしてはいけないといい聞かされると、「私は神父さまに出来るだけ尊敬をもって話しますが、少しも恐ろしくはありません。神父さまは優しいイエズス様の代わりになられるのでしょう?」と答えた。
 初聖体の日はいよいよ近づいた。ところが熱心に待ち焦がれていた喜びの前に、思いがけぬ一つの妨げが起こった。司教が初聖体準備中の子供等の名簿に目を通して見ると、まだ6歳にしかならぬ子供のあるのに気づいて、直ぐにその子を除くように命じた。人々はこの子供は例外で、確かに立派な初聖体拝領が出来るといろいろ弁解した結果、ようやく許されたが、厳密な試験をする条件が付けられた。イエズス会の修院長自身がアンヌの試験官に選ばれた。周囲の物は大いに心配したが、当の無邪気なアンヌは落ち着き払っている。長い道をつれて行かれる間、一生懸命に沢山聖霊にお祈りしたから、聖霊はきっと助けて智恵を貸して下さるに違いないと確信していた。修院長は試験の時、公教要理の本を使わず、ネネットに質問された。不意を打ち、わざと迷わせるように順序を追わず、色々のことを飛び飛びに詰問されたが、何を聞かれても少しも間違わずみな確信をもって明瞭に答え、迷うような気色は少しもなかったので、今度は方法を変えてその子の良心の奥底まで突っ込みたいと考えられた修院長は、彼女の代表的な欠点は何かと問われた。すると彼女は「傲慢と不従順」と単純に臆せずに答えた。そして彼女は修院長からその事についても、良い訓戒を与えられた。どんな場合にも絶対に、即時に服従せねばならない。また言いつけられたら、直ぐにしなければならぬ。イエズス様も御自身もそう遊ばされたであろうと教えられた。また重ねて問答は続いた。「イエズス様はいつ服従されますか。」「ミサ聖祭に於いて聖変化の折」「いかなる言葉に従われますか。」「これわが体なり、これ我が血なり。」
 それから秘蹟についても話しがあって、また問われた。「どの秘蹟を受けましたか。」「洗礼と改悛「何を今に受けますか。」「聖体と堅信。」「そのずっと後には。」「たぶん婚姻。」と決定的にアンヌは言った。「品級は。」(注:叙階のこと)「まあ神父さま、品級は貴方がたのものです。」司祭はこの正確な、快活な返答にすっかり感服され、いつまでも彼女との問答を楽しまれたので、一体何事が始まったのであろうと、試験を室外で待ちあぐんだ人々は心配しだした。試験官は外に出てくると、結果を案じていた母に向かって言葉を尽くして賞賛した。「アンヌは準備が出来ているばかりか、私は私どもお互いに、この子供のような宗教教育を、常に受けていたいものだと思う」と。これはもちろんこの子供の知識の量を言われたのではないが、聖霊の特別の援助による、その超性的の知識の質の立派なことを言われたのである。こうしてアンヌは優しく強く、引き寄せ給うイエズスの聖心に向かって進む事が出来た。アンヌは潔白の中に、非常な熱心ご渇望をもって待ち望んだ。天使のごとく清く、また彼等のごとく愛した彼女は、天使のパンに飢えていた。