国会図書館の本を読みやすく

国会図書館デジタルの本を、手入力しています。編集終了のものは、ブックマークからダウンロード可能です。

愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝)第二章 ささやかな犠牲の道  二、克己の道

2019-10-30 18:10:35 | アンヌ・ド・ギニエ

 二、克己の道

 己に克とう(かとう)という熱烈な決意が、彼女の内的生命に新しい奮発心を起こし、普通聖徳に進む道に塞ぐ障害を越えさせた。絶えず進歩したいと願う者は、いつも己を捨てねばならぬ。アンヌはこの真理を悟り、それに依って生き、神の為に己を捨てる機会を一度として捕り逃した事がない。しかし今ここで法外な償い、または激しい過度の苦業を想像してはいけない。このようなものには多くの場合注意を怠ると、傲慢が姿をやつしているのである。また、自分の身に我意によって害を加える事は、第五戒によって禁じられている。最初完徳に志す者は、熱誠のあまり、この誤りに陥りがちで、大満足のうちに底知れぬ淵に深く落ち込んでしまうのである。或る修道者が指導者の許可に満足せず、気ままに身を打擲(ちょうちゃく)した。許可の度数を超過すると、不思議な聲があって、一ツ二ツとその数を数え、数え終わるや悪魔は姿を現して嘲笑しつつ「超過の数は我が物なり」と言った話しがある。アンヌは従順の徳と聖霊の光に忠実であった。この道に於いて踏み迷いはなかった。いつもしっかりした精力をもって、変わらず穏当な判断によって平和の中に成長していった。調和した秩序だった均衡は特長であった。奮発心が起こるときにも、勘定に走らず、惰力に任せず、均衡を取った事に私どもは気づくのである。この霊魂の活動性は、ただ神に向かってのみ働いた。しかもいたって簡単な平凡な方法によってであった。アンヌは聖フランシスコ、サレジオの名著の霊的教義に基づいて努力実行し、またリジューの聖テレジアの、到るところで人気を獲得したと同じ方法によったのである。ジュネーブの名司教聖フランシスコの書物にあるように、「我等の完徳に到るは行為の数を重ねるばかりではない。完全を獲得するのでもない。ただそれを行うにあたっても完全清廉なる目的の趣旨の如何(いかん)に依るのである。いざ我等は行為の目的の趣旨を清めようではないか。そして全てを神の為、その栄誉の為になし、受くべき報いは神に於いてのみ予期しよう。」リジューの童貞は記している。「私のする事は偉大な霊魂たちが、幼時からありとあらゆる難行苦行に身を任せたのとは遥かに遠く、単に自分の意思を曲げ口答えを差し控え、差し出がましい事なしに周囲の人の為、人助けとなり、また人を慰め喜ばす事であるから、それがどんなに小さくとも全力を尽くし、数多く行うだけである。この小事を行うによって、私はイエズスの浄配(清らかな配偶者)となる用意をするのである」と。アンヌも同じ道を取った。彼女も我意を砕く事(特に彼女のは強いのであったが)、また万人の為に己を犠牲として捧げる愛を絶えず努める事、もっともささやかな義務をも完全に果たす事を習った。ここに彼女の全ての償いはなされた。しかしこれは激しい苦業の生涯を送ったと同様である。外見上は少しも大した事をしたとも見えぬ所に価値があり報いが多く、人々から賞賛され偉大な生涯を送り、苦業に名を挙げた者でも実質に於いては竜頭蛇尾に終わる事もある。勿論それは行いの動機、またそれに伴う愛の有無、多少に応じて実際の価値が定められるので、神の御目にはいかなる愛によってなされたかが価値あるものとなるのである。この子供がこのような年少からこの道に入ったのは、神の霊感によるのは明らかで、ただ示し給うところに導かれたのであった。あるとき小さい犠牲の数を買い留める方法を教えられた。それは葉のついていない木の絵に、犠牲を捧げる度、その枝に一枚ずつ葉をつけるので、特別の努力を以って克己するのに非常に善い方法であった。しかし普通子供には微妙な聖寵のご要求はなかなか了解出来ない。特別な光明の援助がなくては、彼女と言えどもささやかな事柄が自然の生命を助け、あるいは神の愛の御働きを妨害する事を知る事は出来なかったろう。何事も人一倍の忠節によって行うこの霊魂に、智識の賜物の感化は著しかった。彼女の生涯を特に飾ったこの絶え間ない克己も、また神の援助なくては達せられない。「克己の機会を一度も逃さぬ事。」剛毅の賜物の感化を置いて、他に幼い子供の徳を解釈する事は出来ない。またここにアンヌの賞賛すべき完成の原因が潜んでいるのであった。アンヌのやまざる克己について、全ての証言は一致している。アンヌが己を忘れる事は特別で、どんなにそれが苦しくとも、他人の為だけを考えて生き、他人への奉仕に身を委ねたのである。ごく幼時から己を捨てる事の最も優れた事を理解していた。彼女はいつも、より易しい事を選ぶ誘惑に、また全ての肉感的誘惑に反抗する事を知っていた。「それはどちらでもよい。皆善い事だもの」と言って、弟や妹の望みを満足させる為に、自分の好みを捨てる事は幾たびとなくあった。彼女の家庭教師もまた彼女に就いて「どんな小事でも犠牲を拒む彼女を見た事はない」と言っている。
 アンヌの生涯に深い関係を持っていた或る証人は、「彼女の苦業に身を懲らす事は一時として止む事なく、その理由は犠牲の捧げられる機会を決して取り逃した事が無かったからである。」と証している。その生涯は犠牲によって織られているともいわれるであろう。「初聖体後彼女の書いた手帳を見ても、犠牲の数は数え切れぬ程である。」と補助会の修院長は記している。(二、克己の道 終わり)

読んでくださってありがとうございます。 yui


愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝) 第二章 ささやかな犠牲の道  一、戦闘準備-2

2019-10-30 18:09:12 | アンヌ・ド・ギニエ

けれど、どんなに義務的観念が強かろうとも、意思が定まらぬうちは結果はない。最善を悟るまでは行いは見合わせた。この子供の生涯を知れば知るほど、私どもはアンヌの意思の強硬な事と、実行に不屈な事を感じる。一九二一年の四月の黙想の時、アンヌは「私は幼いイエズスに倣いたい」と書いている。彼女はしなければならないとか、望むと言ったのではない。堅い決心を示したのである。「幼きイエズスの範(てほん)に倣うために、一日の終りに勝利の数を勘定する決心を立てる。もし時が長すぎると思われたら(それを我慢する)努力を神に捧げる」と。意味が良く言い表せていないが想像に難くはない。―このような手段で義務を果たす努力をしよう。弛まず飽きる事なく続ける事はなかなか難しい。その時間がいかにも長く感じられる。他の子供達に交じって何もかも忘れ、笑ったり遊んだりしたいと思うと、二つの願いの間にあって苦しいが、その気持ちに打ち勝つ努力を、幼きイエズスに捧げようという意味であろう。「より善き道に我が霊魂を導かねばならぬ」と力を込めて完徳の道、イエズスキリストが聖人達に示された天国への道を歩もうと決心している。「私の霊魂は天国に行くように運命づけられている。人は身をやつすためには惜しまず無駄遣いをするけれど、自分の霊魂の為には少しも心配しない。私の霊魂は永遠の生命の為に造られている。無限の幸福を勝ち得るか、または無限の不幸、苦痛を招くか、全善の天主はかたじけなくも幸福を人間に与えようと思し召されるが、幸、不幸いずれを味わうかは、自分の肩に掛かっている。自分の責任である。「ママが私を天国に行かす事は出来ぬ。」とこれも一九二一年の黙想の時認めた考えである。アンヌはこの実行に全力を尽くした。
 九才の頃、アンヌは何事も救い主に倣わんものと決心してこう書いている。「どういう手段を取ったら良いであろうか。我が中にあるイエズスを成長させ奉るための、種々の妨害と戦う事、自分の欠点、傲慢や怠惰の傾向と戦うためには、「日々の戦い」が必要である。肉体が滋養を要する如く、霊魂を保つにも、霊的滋養を与える必要が大いにあるのである。その滋養とは何であるか?全ての真理、全善、美等言われるべきものがそれである。また、母の膝の上で学んだ事、皆それである。」私どもは彼女が厳格に守って確固たる決意によって、この聖なる子供が、決して単なる抽象的の愛でなく、付帯的の実行的行為によって、愛を証明した事を見る。(一 戦闘準備 終わり)

読んでくださってありがとうございます。yui