父の急死は彼女の心に、新しく愛の焔を燃え立たせる原因となり、その時から激励して善に邁進(まいしん)するため、アンヌは自ら感ずべき克己の道に就いた。そして絶えずその善い心構えを見せていた。大抵毎朝一人で起き、母を起こして「愛する父の為に」祈りを捧げる催促をした。父の逝去後、母の深い悲しみを心密かに感じていたので、その苦しみを見るにつけ、何とか慰めたいとと思い、母を慰めることにより、自ら善くなったのである。
その著しい進歩の理由は只、神の意のごとく愛し始めたからである。アンヌは「母の苦しみが減じるよう」に祈り、小さな犠牲を捧げた。母に少しでも悲しみを与える事は避け、出来るだけ喜ばせようと心を遣い、徳をもって慰めようと努めた。小さな子供の心遣いは、次に示す彼女の言葉をもっても察せられるであろう。「愛するママ様、私達に出来る事で、ママを一番驚かせ、楽しませることは私達がいつでもお利巧にする事だと知っております。また、御喜ばせする為に、いつでも言う事を聞く様に努め、ママや御祖父様のいけないと仰る事を、決してしない心算で御座います。」さ書き、終りに謙遜の心から他の人の名を先に書き、最後に自分の名を置いた。「赤ん坊、レレーン、ジョジョ、 ネネット」と。
玩具に余念ないはずの四歳の子供でありながら、「神と父がその心に非常に微妙な情を与えて悲しみを和らげる事を教えた。」と言われるほど、情操が彼女の心を占めていた。母の傍を離れない様にして相手になり、出来るだけの事をして、傷いた母の心の真の慰めとなり、頼りとなるように尽くした。小さな犠牲を重ね、信仰の偉大な精神に照らされて、些事に至るまで他人の為に尽くすように努める中に、それが彼女の上に多大の聖寵を 呼下す原因になったた事は、想像に難くない。天国という観念がこの忠実な霊魂に知らぬ間に侵入し始めていた。このような変化が彼女の霊魂の中に密かに行われていたが、あまりにその結果が顕著なので、間もなく人にも認められるようになった。
威圧的ですぐに反抗して口答えする子供が、従順な優しい子供に変わったのである。嫉妬心の強い心が、ただ他人の為という言葉なかり心掛けるよういなった。聖寵の感化はこの可愛らしい子供に超性的の印を付けた。 そのころからアンヌは、天主に何ごとも否まず、イエズスはかたじけなくも彼女の心に下り給いて、さらに深い愛と献身的な寛い(ひろい)心を求め給うた。
まず第一に病が彼女を襲った。一九一六年の二月、ちょうど彼女の五歳の終わりごろであった。カンヌに避寒して春の来るのを待っていた。そのとき非常にたちの悪いパラチフスに罹った。これは長引く病で、夜に入って四十度以上も発熱しているとき、解熱療法として入浴せねばならなかった。この治療は子供によって随分辛かったが、ただ「フランスのため」と言うだけで足りた。彼女は言われるままに大人しく、人の為すに任せていた。救世の玄義を教えられ、イエズズの苦難に我等の苦しみを合わせれば、多くの霊魂を助けられると聞かされていたので、どんなに苦しい事も辛い事も捧げて耐え忍ぶのであった。神の愛が心にどんな影響でも及ぼし得るかが分かる。その時分、母の申し分のない立派な教訓感化の上に、なお彼女を導く手段が講じられた。即ちこの大切な任務に家庭教師が注意深く選ばれ、アンヌ等の指導監督の任にあたった。幼児の家庭教育が、将来の善悪の基を築き、いかなる人格をも養成し得るを思えば、もっぱら揺るがせにすべからざる重大問題である。アンヌはビイ嬢の教導に委託された。そして直ちに彼女はまた最も信頼する友となってしまった。普通家庭教師は家族の者にマドモアゼル(mademoiselle)と呼ばれるのであったが、 その呼び方がいかにも職業的に響くというので、アンヌの優しい心遣いはそれに忍びず、特別にドモアズ (注 demoiselle=お嬢さん ?)と呼ぶ事になった。一事を推して万事を知るべしで、それがいかに些細な事でも、人の気持を推察して、優しさを発揮するのが彼女の常であった。このやようにに早くからアンヌは、優しい徳の閃きを見せていた。
家庭裁師の手記を見ると、「私が最初アンスを見知ったのは、一九一六年の一月十七日であった。僅か四歳の子供ながら、全く魅せられてしまった。私のところに挨拶に来たその様子には、普通のその年頃の子供に見られぬ、飾り気のないなかにも自然な慇懃さを示しているのであった。段々知るにしたがって私は、彼女がいかに可愛らしい愛嬌を持ち、そのうえ特別に徹底的な親切と、珍しい柔和と控目とを兼ね備えているかを見、生れながら性質のよい、ほとんど完全な子供であると思ったので、母親から落ち着きがなく、弟に対しても意地悪のうえ、嫉妬心を抱いていると聞かされた時は、意外で信ぜられぬ心地がした。」と言っている。「このように幼少なるにも拘らず確実な判断力と熟した知恵を見、私は彼女に大いなる信頼を置き、年不相応な敬愛を持った。」と言っているが、 これは真実な証明である。
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三、最初の発心
私共は生来の性質、気力、激情すら、聖寵の支配下にあって、自発的に改心を志せば、その霊魂が驚嘆すべき高さにまで導かれるのを見る。しかし、それを抑え導き、神に到らせるには「日々の戦い」が必要なのである。アンヌのようなか弱い子供が、大奮発して潔く戦う有様は素晴らしいものであつた。さて、いかなる発心の第一歩が踏み出されたであろうか。
すべての聖人のように、アンヌもまた試練により鍛錬され、試練の中に育った。悲惨な打撃を受けた後、優しい父は天国で神の御胸に抱かれていると、説き聞かされてから、 大いに信頼、希望を与えられて力付けられた。天国とは「この世で神に善く仕えた忠実な霊魂の住居で、そこで天主を見、天主は彼等を栄光と歓喜に浸らせ給い、最早天主を失う不安もなく、背き奉る悲しみもなしに愛し得るのである。」ということがわかっていた。天国についてのこの考えが天国に愛する父を求め、確実に彼女にとっての新しい出発点の目標ともなったのである。四歳頃、普通人はその年頃の幼児の知恵は、いまだ朦朧として、はっきりせぬものと思っているが、なかなか子供といえども侮りがたい。却ってこの発育盛りは非常に輝かしい時期で、知恵は日一日と目覚め、信仰は急速に生き生きと盛んになって行くのである。それは人生に於ける知恵の惑乱期である。もしも私共が幼時、成年者の言語がどんなに響いたかという事を記憶するならば、幼児の傍に在るときの話題に注意するであろう。大人の思いも寄らぬほど、幼児はその意味を汲む事がある。この敏捷で感覚の鋭い知能は、光まばゆい一点の曇りなき朝日を浴びるようにすべてを受け入れるのである。鳥の羽毛のように軽く飛び来たって、すべての言葉が清い心に忘れる事の出来ない印象を深く刻み付けるのである。子供等は誰にでも質問を連発して、自分の疑問を晴らそうとする。そして次第に知識を得る。すべてが驚嘆の因(もと)で感激の種となり、何事でも出来ない事はないものと信じている。たとえその答えが虚偽であろうとも誠と信じる。彼等の心はあまりに清く、虚偽の存在を夢にだに知らないから、その信頼は絶対的である。私共はただ真実を彼らに与えねばならぬ。ところが教養ある両親が我が子に平然と虚偽を語り、その場の面倒を切り抜けている有様は、不幸にも度々見るところで、それが世の常の如くなり終わっているのは実に嘆かわしい。このような環境に育つうち、後日親に倣って虚偽を吐き、また親の信頼しがたき事を知る時は、熱の権威は地に落ち、不良児となってからけん責も効果なき至るのである。ゆえに幼児の質問に答えるのは実に重大な意味を含むのである。洗礼によってその心に与えられた超性徳(聖徳?)は、 最早目覚めているのであるから、善く導きさえすれば、どんな高嶺にも暴き得られるのである。もし彼等の信仰が養われ、欠点が打ち勝たれ、祈りが教えられ、祈りの精神を味わい好む様に導かれたら、すでに神と超自然の光に照らされ、聖寵に満ちた子供の霊魂とイエズスとの間に、完全な愛の一致が成立するのである。この無邪気な清い親しみある心中に愛は速やかに翺翔(こうしょう)し、その愛により完徳の道に、突き進む事が出来るのである。(つづく)
アンヌはまた少しも恐怖という事を知らなかった。一九一三年の春、二歳になるかならぬ時、動物園に二倍の年かさの従姉と共に連れて行かれた。ジラフ(giraffe=きりん、麒麟)を見た二人は、 感極まって呆然としていたが、我に驚るこ急に後から従姉の身体を抱えて「さあ私が抱いていて上げますから撫でておやりなさい、」と姉顔に言った事もあった。生来の大胆さは時には度を過すほどで、しばしば燃え立つ熱心を抑制しなければならなかった。また、彼光の命令的な傾向を圧倒する必要があった。二人は大きな砂山で遊ぶことになった。痩せ型で神経質なアンヌは、じきにその頂上に馳せ上がって、先がけの功名を誇った。相手を同じく引き上げようとしたが、怖がって泣き出した。するとアンヌは、大威張りでその臆病な事を罵り、人が見付けてこの暴君の手から憐れな子を引き離して救うまで、泣くのも頓着無しに、引張ったり、突き飛ばしたり、乱暴に小突き回したのであった。
また或る時は、たいそうチョコレートを欲しがって、いつまでもねだって止まなかった。だれかがその箱を、子供の手の届かないガラス戸棚の上の安全地帯に載せてしまった。折よくそこに来客があって、大人が話に身を入れている間に、今こそとこの意地汚しは、こっそりそのその隅に椅子や腰掛を高く積み上げて踏み台を築き上げ、望む物を取ろうと企てた。 足場の釣り合いを取ってよじ登り、いよいよ望みの袋を手にいれようとする刹那(せつな)、気づかれて捕らえられ酷く叱られた。これによって見ても、穏やかな性格にに生れ付いていたのでもなく、意地汚しという汚名を免れ得ないのである。強情に生まれついていて、自分の望みに対しては少しも障害を認めず何事も為し通し、どうしても自我を立てるのであった。それは戦争中の事であった。ある日、父の傷口の手当てをしている部屋に入ろうとしたところ、事もあろうに、アンヌの御意を遮った者が有ったので、戸も割れんばかりに猛り立って、なだめ静ませる迄には大骨折りであった。このような癇癪持ちが柔和その者のごとく、徳を勝ち得たのである。
しかしまた、アンヌには情の厚い一面もあった。驚くべき熱情をもってすべてを愛した。しかし同時にこの愛情があまりに過ぎて、抑えきれぬ嫉妬の焔ともなって燃え立つのであった。後には心から愛し、慈しんだ弟のジャックが生れた時、彼女は僅かに十四ヶ月であったが、母が最早自分の事だけしてくれず、独占できない事が我慢できなかった。可哀想に、この邪魔な赤ん坊は生れ出るとすぐ、罪もないのに悪い待遇を受けた。ある日、床の上で、アンヌの手の届くところの敷物の上に、寝かされているのを見るや、善い機会とばかりまっしぐらに駆けて行って頭を打った。また別の時、母の膝に抱かれている赤ん坊の眼を目掛けて埃(ほこり)を投付けたほど、幼心にも嫉妬心が盛んであつた。幼時の写真を見れば、 その勝気な性質が窺われるであろう。
(二、幼き霊魂の戦場 終わり → 三、最初の発心)