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愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝) 第四章 幼児の霊に於ける観想生活 四、聖体の中に在しますイエズスに対する愛

2019-11-03 19:04:39 | アンヌ・ド・ギニエ

 四、聖体の中に在しますイエズスに対する愛

 全ての愛を越えて、救い主への特別な愛を、アンヌが持っていた事は当然である。「優しきイエズス。」と呼び奉る。その特別な調子からも、その真情が思い遣られて、他に適当な言い表し方は考えられない。間断なく心の中に思い慕っていた程、聖主を深くお愛し申しあげていた。「イエズスの為に、我が心が百合の如く、清く在りたい。」とか、「イエズスが私の中に活き、かつ大きく延び給う様希う(こいねがう)。」等とは、しばしば彼女の口から洩れていた言葉であった。幾たび遊戯半ばで、「善きイエズスよ、御身を愛し奉る。」と申しあげたであろう。何事にも、何処にも、神様についての考えが付きまとって行った。仕事や遊びの最中でも、目に見えぬ天主の存在の感に打たれた有様に、人々は幾たびか感慨を深めた。彼女は眼を天に上げ、一時沈黙に沈み、それからまた優(しとや)かに務めや遊びを続けるのであった。イエズスの為には、犠牲を拒む様な事は決してなかった。アンヌが苦業の道を進み、愛を表現したいと思っていた事は、私どもにも了解できる。勿論その犠牲なるものは到って軽少であったが、その数は驚くべく多かった。これは、アンヌの愛の働きが絶え間なく心の忠誠が普遍なる事を示している。幼きイエズスの聖テレジアのように、彼女は最愛の御者の為に、見出した花を摘み取らずにはおかなかった。熱心は彼女をして、自分の心に燃えるこの聖き望みを、周囲の者にも起こさせようと励ませた。ある日、美味しい物をイエズス・キリストの愛の為に控えるようにと弟に勧誘した。こういう勧誘は、時たまならば兎も角、あまり始終の事であったので、可愛そうに弟の本性は反抗してしまった。「ええ、ネネット、それはあなたが今日すればいい、僕は明日にでもしますよ。」と答えた。
 この二つの心持ちは、霊魂の差異を現わす。普通の信心と冷却する事のない愛の熱烈と、いつも即座に奉仕しようとする霊魂とは遥かに異なり、遠く及ばぬことを示している。この子供は何か恵みを受けた時、救い主に対して感謝の念をあまり深く感じたので、感謝の意を現わす術に当惑した。ある時は自分の願いが聞き届けられたというので、イラクサで腕を擦っていた。「優しきイエズスをこれで喜ばせ奉れると思いましたから。」と事もなげに単純に答えた。「及ぶ限りいつももっと犠牲を捧げる事、もっと人の為に尽くす事、」これが彼女の御恵みに対する報恩の手段であった。
 天主の賜物に対する感謝の心を起こさずにいられないのは、聖霊が彼女の霊魂に、深奥なる感化を及ぼし給う新しい兆しであった。天主への強く絶えざる、感恩の心情は、聖人に於いてのみ起こるのである。
 この小さい天使のような子供が、何物にも勝って救い主を愛慕し奉ったのは、尊ぶべき聖体の玄義のなかに於いてであった。彼女の生涯の暁、聖体のイエズスは、その心を奪い占有し給うた。六歳のときであった。聖体の祝日の前日、アンシイ・ル・ビュウ(ANNECY-LE-VIEUX)の教会で、修道女が臨時の祭壇を設えていると、「童貞様、もし私に可愛いイエズス様の為に、花束が造られたら、本当に嬉しいのでございますけれど、お手伝いしてもよろしゅうございますか。」と聞きに来た。「宜しいですとも。」と許可されると、大真面目で心を込めて、見事な花束を造った。出来上がったのを見ると、目を輝かし、何かの望みに心を奪われたように、おずおずと近寄って、「童貞様、これをイエズス様の間近く置いて下さいますか。」と頼んだ。この可愛らしい話しを以っても、彼女の霊魂の内部が窺い知れる。控えめな謙遜と、非常に清い熱愛の隠れた感動と、無数の小事に心と愛とを集中し、実行するのを見るのである。ミサ聖祭、聖体拝領、聖体中に在しますイエズスが、彼女の拝礼の中心となり給うた。まだ読み書きも知らぬ頃、早や彼女は絵入りの祈祷書で、ミサ聖祭の時、司祭の動作に合わせて、一つも逃さず熱心に拝聴した。超性的な智識を広める教会の、儀式典礼に深い興味を持っていた。聖主はアンヌの純潔と、深い愛によく適応する様に計らい給うた。ある冬の事であった。日曜日にアンヌは教会に行かないで、床に就いて居らねばならなかった。家中が協会に行っている間、妹のマリネットと床の中で、アンヌはミサを一通り歌っていたのである。またある日、母の友達が教会に行く途中で立ち寄ったので、アンヌは「私も御一緒にお連れ下さいませんか。」と言った。母の許しを得て、飛んで戻って来た時は、「そんなにミサに行きたいのですか。」と問わずには居られぬ程、その顔は喜びに溢れて、輝いていた。そして「それはもう、私はミサが大好きでございます。それから御存知でしょう。ほら、聖体拝領はもっと好きでございます。」と答えた。これこそが彼女の心の叫びに他ならなかった。
 ミサ聖祭の間の、彼女の沈思状態は、また特別であった。その日の福音を読み終わると、目を閉じ、頭を心持ち傾け、手を組み合わせ、霊魂の深い感動をもって祭壇上に在すイエズス・キリストの聖心に心を合わせて、夢中になっているのであった。ただ特別の信愛心が形に現れただけの事であった。
 この深い沈黙は、聖体拝領の刹那まで続いた。彼女の霊魂の聖体に対する欲求は、一挙一動に表われた。目を輝かせ、待ち焦がれた許婚者が近づく如く祭壇に進み、いよいよイエズスの来臨にあたっては、あたかも生ける拝礼その物と化するのであった。拝領台より戻るとき、アンヌには世に何物も存在せず、ただ「神のみの中に全く失われる。」のであった。自分の席まで、盲人のように導かれなければならなかった。
 その顔つきは不思議な光輝を呈した。汚れなき清浄潔白な子供が、聖体拝領後、聖台から戻る有様を一目見た者は、その美しい清い姿を忘れることは出来ない。ある目撃者は「輝く恭しい高々しさと、愛に輝く生ける聖体顕示台が進んで来ると言った人が有るが、全くその通りである。」と言った。また聴罪司祭のG神父の手紙の中に次のような事が書いてあった。
「罪なき聖嬰児等の祝日に、教会で晩課の折に誦える賛美歌は、天主の玉座の下に、彼等が栄冠とバルムを勝ち得て、喜び戯れる様を思わせるが、私にはこれとは異なり、彼女が深く愛し奉るイエズスの尊前にひれ伏して、御主を拝領するネネットより他には、彼女に就いて考えられない。」と。この愛の壮観は、照り映える顔つきを透視して窺われた。それは人々の霊魂を天主に引き上げ、言葉通り「教化する。」のであった。彼女を見た人が、「神の御前では、この子供に比較して、我々はいかに小さいものであろう。」と言った。またある不信仰者さえ「実際これは神のものである。ここに於いては神の存在を否定する事は、自分にも出来ぬ。」と言ったそうである。
 聖体拝領の遠きと近きの準備に腐心に対して、与えられた報酬は、熱誠の著しき増進であった。拝領の前日、彼女は翌日聖体を受ける事を考えていた。「ある晩、私と一緒に自習室に入り、その静けさを利用して、小さな祈祷文を取り、聖体拝領の祈りを読み、翌日の重大な出来事に対して、熱心に用意した。そして私にも自分の喜びを分かってくれた。」と家庭教師が記している。このような事は、彼女の特長であり、また日常の事であった。ミサ聖祭が近づくと、愛と忠誠を込めて深い沈思に入り、何物もそれを乱し破る事は出来なかった。
 アンヌは弟と共に、母に伴われて、アンシイ・ル・ビュウ(ANNECY-LE-VIEUX)にミサ拝聴に出かけた。そこで聖体を拝領するのである。教会へ行く途中は、湖水の方に少し傾斜している牧場を横切って、続いて延びている道を行くのであった。天気の良い朝等、路傍の草木は葉末ごとにダイヤモンドの露を輝かせて、見る目を楽しませた。 (つづく)



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