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愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝)第四章 幼児の霊に於ける観想生活  五、聖なる愛徳の広まり

2019-11-04 18:38:17 | アンヌ・ド・ギニエ

 五、聖なる愛徳の広まり
 
 七歳の頃、かほどの純潔と熱心の籠った、頻繁な聖体拝領の結果として、彼女の親愛の情は大変化をきたした。彼女の霊魂は、万事超聖的な事柄に、無造作に、容易に進むことが出来た。それは年に似合わぬ、霊的な発達によって、聖霊が他に比類なき程度に、楽々と彼女に働き得給うた事が認めれらる。初聖体がまず彼女を神秘的生活に導き入れたものと思われる。何人も年端の行かぬ子供に、その様な事が不可能であるとは決して言えない。神学者たちは、観想生活に入るに、大人が普通の場合、長い困難な道程を経る必要があるに反し、子供は到って簡単、平易、迅速に出来ると証明している。デ・ラ・タイユ神父の言われるには、「神は観想生活の恵みに導き給うときに、この初歩の苦しみを彼らには免除し給うのである。その理由は、いまだ真新しい、純な、これらの霊魂は、神の賜の働きを妨げたり、信仰の光を遮ったりする様な悪い習慣が、幸いな事にはついていないからである。それで離欲を履行する努力の必要もなく、鋭敏すぎる慈愛心を断つ苦しみも要らず、またこの光々しい域に、急速度で到達する事が楽にできるのである。ゆえに子供等が、聖霊の賜の、より大いなる感化を容易に受け得られる間に、早く天主をわきまえ知り得る年に達したならば、すぐに聖霊を受け奉る事が大いに必要である。聖体も同様である。愛の秘蹟は、観想生活を助けるには、何よりのものである。初聖体を早く受けた子供らが、多くの信仰深い、模範的な成人と同様、神の賜を豊かに受ける事に私どもは気づき、感激させられる。決してこの地上の生命から、斯かる惠は受け得られるものではない。全くこの神秘的な交わりによるものである。」(同神父のL’oraison Contemplativeの中より抜粋)
 アンヌの生涯は、このローマの学者の説を裏書きするものである。初聖体の数か月後、即ち、アンヌが七歳の頃、彼女の信心は著しく進歩した。ある日こんな会話が母と交えられた。「ママ、ミサの時、本なしでお祈りしてもよろしゅうございますか。」「なぜ?」「なぜかと申しますと、私は祈祷文のは、もう諳んじて知っておりますから、読んでいると気が散ります。けれども、愛するイエズス様と、お話ししていれば、少しも気が散りませんもの。それはちょうど誰かと話をする時は、何を言うかわかっておりますから、気が散る事がないと同様でございます。」「では何とイエズス様とお話しするのですか。」「私がイエズス様をどんなにお愛ししているかという事、またそれからママ、あなたの事、そのほか(兄弟や親類の人達)の方々の事、そしてイエズス様が、皆さまに良い御恵みを下さり、善い人にして下さるようにと、また全ての罪人等の事もお話し致します。」少し顔を赤らめて付け加えた。「それから私がイエズス様にお目にかかりたいと望んでいる事も申し上げます。」不安に心を締め付けられる思いで、私は聞いたと母が書いている。「それではもしお前が、幼きイエズス様に、お目に懸かるようになった時の、私の心の辛痛を考えてはくれないのですか。」「ああ、ママ、どういたしまして、もちろん私はその事を考えます。そして本当に、あなたにお悲しみを与えたくはございません。でもパパは早もう天にお出でになるし、ママも今にお出でになるのでございますし、他の人もみないずれは行くところで、そこが私どもの目的地でございますもの。」かくも可愛らしい、清い、この霊魂の中に何が起こったであろうか。永遠に向かって動かし給う神の御手は、いかに微妙なものであろう。清い、質朴な、簡単な言葉の中に、神との親密な生命が窺い知られる。ある一人の童貞にアンヌは、自分の信愛心が、類稀なるものである等とは、夢にも思わず話した。「私が祈りに耽ると、幼きイエズス様は、私に話して下さいます。」「何と話されますか。」「私をどんなにか愛していて下さると。」と事も無げに答えた。またある時は、非常な喜びを制しかねるように、「ママ、私は嬉しくて堪りません。私は幸せでございます。善いイエズス様は、私が愛しきれぬほど、もっと私を愛してくださいますって。」と言った。この確心は、彼女の心の奥底深く深く植え付けられていた。それは何物も妨げられぬ、確実な慰安で、愛情に満ちた彼女の生命を照らしていた。太祖アブラハムのごとく、天主の御前に在るという、可憐な確信によって道を歩んだ。彼女の最も親しい一人の幼な友達と、真面目な、崇高な、霊的な事柄を語るのを好んでいた。彼女はしばしばその友に、自分の秘密を隠し切れなかった。「善きイエズス様は、私を深く愛し給い、私も彼を深く愛します。」と。可愛らしい微笑みと熱情をもって付け加えた。「私どものためにあのように苦しんで下さったのですもの、私どもはその善きイエズスを深くお愛しせねばならないでしょう?」と。
 それからまた、いかに全てを救い主に任せ奉っているかという事を説明している。喜びも、悲しみも、望みも、要求等をも彼に語りまいらせるのであった。それは幼児が慈しみ深き父か、最愛の親友に話すようであった。「我肉を食し我血を飲む人は我に止り、我も亦之に止る。 活ける父我を遣はし給ひて、我父に由りて活くる如く、我を食する人も亦我に由りて活きん。」(ヨハネ聖福音書六章五七~五八節)救い主はまた付け加えて、「我を愛する者は我父に愛せらるべく、我も之を愛して之に己を顕すべし。」(ヨハネ聖福音書十四章二一節)我らの白百合のごとき幼児に於いて、この約束が成就したという強い確信を、私どもは持つのである。
 聖霊は、聖書中に隠れたる真理の意義を彼女に知らせ給うた。それは神の王国の神秘をよく悟る惠である。アンヌが信心深い心で読み、感ずべき熱心を以って耳を傾けた、聖書の尊い御言葉から彼女は何を見出したであろうか。あふれる光明は、超自然の知識を彼女に与え給うた。この神聖な嗜好は、取りも直さずもっとも崇高な七つの賜である。次の話はいかにも、よくこの嗜好を表している。
 彼女の最後の夏であった。ある日曜日、教会の晩課に弟と共に参列して後、帰る時の事である。長い祈に飽き飽きしているところに加えて、道は吹き荒む風に塵埃が巻き上がって目も開けて居られぬ始末に、ジャックはいかにも不機嫌であった。晩課は実に長く退屈千万である。可哀想にジャックは、霊的の喜びを味わうにはあまりにも小さすぎるのである。しかし姉にしてみると、その無理解が残念で堪らない。それで弟に近寄って一生懸命説得した。「でもジョジョ、もしあなたがお祈りをよく読んでみたら、それがどんなに美しいか分かりますよ。」と言って、ちょっと沈思してから、ユデイカ、メ "Judica me"(詩編四十二)という詩編を説明し始めた。「ジョジョ、よくお聞きなさいよ。神の祭壇に我近づかん。常に新たなる喜びを、天主は我に与え給う。本当にこれは良いでしょう。この意味がよく分かりましたか。神が新しいよ転びをもて我が霊を満たし給うと。」聞き手はとにかく、アンヌにはそれが分かった。なぜなら、彼女に於いてこれらの事が実際体験されていたから。まことに天主は、彼女のよ転びを毎日新たにし給う。日々それを殖やし給う。それは彼女自身の全てを輝かすのであった。
 また、彼女にまでかたじけなくも降り給う。この親密な神に対して、いかほどの信頼心を持っていたことであろう。全く捧げ奉った彼女は、全てを神に期待し、また同じく神の御手より全てを受け奉った。御父の摂理に対する信仰に、彼女の平和も委託もまた基づいていた。ある日彼女の傍で、誰かが非常に当惑しているのを見て、優しく「何をそんなに困っていらっしゃるのですか。人に苦しみや、困難がある事はよく知っております。でもその為には神様がいて下さるではありませんか。」救い主の御約束に、アンヌは実際信頼しきっていたのである。「汝等が我名に由りて父に求むる所は、何事も我之を為さん。」(ヨハネ聖福音書十四章十三節)彼女は願い、それが叶えられても少しも驚く事はなかった。「神の光栄の為でございますもの。天主は私に拒み給う事は御出来になりません。」と淡泊に確信をもって話した。このようにして願う惠は重大な事ばかりでなく、至って軽少な事までも願っていた。「ある日、巻いた糸がまたしても転がって見えなくなるので、その度に私が探していると、アンヌは簡単な短い祈を天主に向かって誦えていたが、私の方を振り返って、糸がすぐ見つかる様になりましたでしょう?」と言ったと家庭教師は話した。アンヌはいつもこの調子で、それは全く聖書の要求に適っている。即ち「全ての考えを神に向け投げかけていた。」そして救い主は彼女を育んで行かれた。
 彼女の愛は常に増大し、ごく単純、安易な観想生活の高嶺に到達し、また増加した光は、彼女の愛に新しい熱心を与えた。
 子供には珍しい事であるが、彼女は至って幼少の頃から、聖三位に対する熱い信心と、その光栄を獲得するという強い望みを持っていた。五歳になるかならぬ頃に、栄誦は天主の栄のみを求め、被造物は何者をも願っていないから、完全な祈であると人が話すのを耳にして以来、非常に感激して、幾日間か栄誦をロザリオのごとく繰り返して庭を散歩しながら誦えていた。生涯の終わりまでこの祈を誦える時には、いつも特別な敬意と謹慎のしるしを示した。最後が近づくにつれ、いよいよ何事もまず第一に天主の栄光の為という、聖なる熱情に燃えていた。最も頑なな罪人等が天主の光に浴して、直に照らされる為にと、全ての行いを捧げた。天主の光栄という事が、彼女の最高至純な意向の目的であった。彼女の生涯に深い親密な関係にあった、ある人は、「アンヌは何事も神の光栄になるかどうか、確かめてからでなくては何もしなかった。彼女の信仰には、これが全ての苦しみの原因となった。罪人等のために祈り、苦業をし、彼らが悔悟して天主の光栄を認め奉る事を切に望んだ。」と言っている。「至善の天主とその勝利。」これこそアンヌの目標としていたところで、彼女の愛徳はここに於いて頂点に達し、中心の目的に向かって急進した。愛によりアンヌは天主に非常に親密に結ばれていたので、聖書の言葉通り、「何事も聖旨にかなう如く。」でなくてはしなかった。罪が霊魂に在って、神の仁愛の光輝を暗くするという事を、あたかも自分自身が当の罪人のごとく、非常に悲しみ、神に叛く事といえば、彼女の心をして真に傷つけ、傷ましめたのである。聖心に特に寵愛を受けたこの子供の愛が、かくも親しく麗しい天国の親睦を結んだことは、愛と親密の増進の新しいしるしであった。世に行われる様々な悪について人が話すのを聞くたびに、いくたび彼女の眼は涙に潤ったろう!また誰かが自分の義務を疎かにして果たさぬ事を聞くと、一時憤慨するが、またすぐ気を取り直して、彼女の心からは、祈りがほとばしり出るのであった。「ああ、天主よ、彼らを赦し給え、彼らは為すところを知らないのです、彼らを善にし給え。」と。
 周囲の者で誰も召命に就いての考えを知恵付けた者はなかったが、一九二一年の九月頃、カルメル会に入りたい事、下の妹をそこに同道したいという望みのある事を漏らした。これは決してこの霊魂の中に、特別な恵みによって沸き起こったのでもなく、漠然たる本能のごとくに起こる気持ちでもない。この考えは深く、かつ確固たるもので、全き贈り物として、アンヌが一生の燔祭を、己が造り主に捧げんと決心した事を意味しているのである。この決心の動機について問うと、「天主の御栄のため。」と答えた。神聖な事柄についての生き生きとした智恵を持っていた事が、自然に現れるような、真剣な確信をもって答えた。自分の理想に引き寄せようと望んで居た幼い妹に、しばしばこの計画を話していた。これもイエズスに多くの許嫁を与えたいという特殊な望みからであった。彼女はこの召命を、自分の周囲の者にも共にうけさせ、万一、自分が望みを果たし得なくなった場合は、他の人に自分の決心を継続させようという心組みであった。このような年端の行かぬ子供には似合わず、強い生き生きとした持続的な決心を定め、稀有の犠牲を払っている事が確実に認められる。
 終わりには神に向かって、いかほど謁見え(まみえ)奉りたいかという、強い望みを繰り返し申し上げるうちに、この望みが疑いなく聞き届けられるに違いないという予感が生じた。だんだん天国が近づいたことを感じながら、幼い友達の一人に天国について話していた。ただこの世を去るにあたって一つの心残りがあった。それは裏切られ給うたイエズスの為に、自身を神に捧げ、修院内の厳格な生活に耐え忍びたいという事が、彼女を地に引き付けていた一本の絆であった。それで代わりに妹にカルメル会に入会するよう、弛まず説き勧め、同意を促した。アンヌは自分自身の死を予期して、万一をおもんばかり、代理人を探していたのであった。
 幼き聖人が望みを掛けていた妹は、姉の非情な熱心を記憶に呼び起こして、感嘆の言葉に窮し、ただ「ネネットは言い尽くし得ぬほど、神の愛を持っていた。」と言っている。この幸運な弟妹等は、今はもはや二十歳過ぎにもなったから、アンヌの貴い教訓を懐かしい思い出として、充分その価値を味わいつつ、天国で、なおさら熱心に見守っている、姉の期待を満足させようと、競い合い、姉の列聖運動を、どんなに望んで居る事か。 (五、聖なる愛徳の広まり 終わり)



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