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愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝) 第四章 幼児の霊に於ける観想生活 四、聖体の中に在しますイエズスに対する愛-2

2019-11-04 10:30:51 | アンヌ・ド・ギニエ

 折しも遠景の山頂は、暁の光に照り輝き、眩い海原の様に光の波が跳ね返り、踊り狂って居た。嶺の頂上では、それが燦爛たる滝を模って(かたどって)、暗い山影や谷間に流れ落ちているように見える。その朝はちょうどツバメが電線に列をこしらえて並び、金色の太陽の光を浴びながら、さえずり合っていた。空気は甚だ爽快であった。なんと美しい景色であったろう!ジャックは感嘆のあまり、見る物事に、悦びの声を上げて飛び立った。しかしアンヌは母の傍に寄り添い、落ち着いて祈に耽っていた。そしてこのような大事な時に、弟が気を散らしているのを心苦しく思い、唇に指を当てて、「ジョジョ、今は聖体拝領の事を考えなくれはいけませんよ。」と真面目に諭すのであった。ミサ拝聴後、帰途もまた子供等はツバメの事、四方の麗しい景色の美しさ等、話し合うのであったが、アンヌは率直に、「ママ、私もジョジョの様に、早くお話ししたかったのでございますけれど、幼きイエズス様を、より良く拝領し奉るために、それを犠牲に致しました。」と言った。もちろん、御主が選り抜きの恩寵を、このような忠実な子供のために、取り除けて置かれたのに、何の不思議があろうか。
 かくも熱心な聖体拝領は、この小さな霊魂を育み、更に更に聖体拝領を渇望させた。彼女は神の御訪問の記憶に活き、また次の御来訪を待ち焦がれて暮らした。「ああ、ジョジョ、幼きイエズスが、あなたの心にお出でになったら、どんなにあなたは幸福になるでしょう。それがどんなに良いか、あなたにも解るでしょう。」と自分の味わう喜びに有頂天になって言っているのを聞いた人が有る。
 聖体拝領によって、その中に籠り在す神は、彼女の心に祝福をもって酬い(むくい)、この超性的幸福は、彼女の一生に充ち溢れた。「時々謹んで立ち止まり、『善きイエズスよ、有難うございます。』と、心を込めて言うのであったが、言い終わるとまた弟妹と遊ぶために行ってしまうのをよく見た。」ち家庭教師が記している。ある時、階段に跪いているのを見て、何をしているのかと問うと、「私の心に来て下さる事を、たいそうお望みになる御深切なイエズスにお礼を言っております。」と懐かしそうに言うのであった。救い主はいつも我らの間に在すという考えが、常に彼女の霊魂を占めて離れなかった。聖杯の上に輝かしい聖体の絵を描き、「この小さきホスチアの中に在すイエズスよ。御身をいかに深く愛し奉る事よ。」と言う言葉を書くのが大好きであった。またある時は、この真情の溢れた表白書に、愛のあまりに自分の希望や、温情の籠った祈を付け加えた。「我が愛する救い主、幼きイエズスよ、私の心を全く御身のものとして守り給え。」と。
 詩編の「我が霊は汝に飢え渇く。」という言葉は、その意味通り彼女に当て嵌まる。遊戯途中でも時々それを中止して、「ジョジョ、明日の聖体拝領の用意の為、少しお祈りをしませんか。」と独特の可愛らしい真面目さで、弟にささやく事もあった。そして弟を隅の方に誘い、二人で跪くと、ジャックはすっかりアンヌの良い弟子となりすまし、「ネネット、あなたが先に唱えてください。僕がその後について言うから。」と促すのであった。
 聖霊に照らされたるこの子供は、誠に純な宗教的観念を持っていた。信仰の道、祈りの道、特に偉大な愛徳の道によって、超性的の源に、真っ直ぐに突進した。彼女の望んだものは、幻でもなく、奇蹟でもなく、天主の誠の存在を喜ぶ幸福を望んだ。しかし神の慈愛を認める事の絶対に出来ない罪人らが、改心の恵みによって、天主の無限の御慈悲を明らかに悟れるようになる奇蹟を、アンヌが願ったという事は、我々が後に知るところである。
 聖体訪問の時、聖体の中に行ける神を認め、祭壇上に光々しき聖体の美しさを見上げて彼女の瞳は、崇高不動の状態になって、聖体顕示台に吸い込まれたように、輝かしき幻に打たれたように、その熱情と信仰を現していた。
 「イエズス様の生命が、私の中に、もっと増進する為に、私の霊魂は、もっともっとしばしば養われねばならぬ。」と書いている。「ゆえに出来るだけ度々、私は聖体を拝領したい。」とも書き付けてある。聖寵の生命は実に重大で、貴く(とうとく)、大切である。その栄養は即ちイエズス・キリスト御自身で、誠に善く、心から望み求むべきである。」と聖体拝領の渇望はいよいよ強くなり、妨げある時は、非常に悲しみ苦しんだ。当時カンヌの補助会の修院長をしておられた叔母に、「ママが今朝聖体拝領を許して下さらなかったので泣きました。」と訴えた。そして「けれども、もう今は慰められました。霊的聖体拝領のやり方を教えて戴きましたから。」と加えた。
 「神学的観念が、この子供は著しかった。」と言う者がある。「真の存在。」の価値を霊的聖体拝領の中に深く理解し、また一方にはその方法が、「生けるパン。」に飢える私どもの欲望を、最もよく緩和軽減し、満足を与える手段であり、慰籍(なぐさめいたわること)される事と悟っていた。
 生涯の終わり近くになると、この信心の厚い霊的聖体拝領の勤行は、習慣の様に毎日の事となり。「我が愛するイエズスよ、御身を喜ばせ奉らんがゆえに、霊的聖体拝領を終日何度もなす決心を立てました。」と約束するに至った。
 この決心を思いついた動機は、全く愛からで、再三同じ望みを書き付けている。(四、聖体の中に在しますイエズスに対する愛 終わり)

読んでくださってありがとうございます。 yui



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