ちょうどこれと同じく、私は父なる天主様に深く愛される子の子供でありまして、聖書にも「我が来たりしは義人を招ぶ為にあらず、罪人を招びて改心せしめん為なり(ルカ5の32)とある通り、罪人を改心させるためにご自身の御子を遣わされたるところの天主様に愛せられる子供であります。そして私は多く赦されたからではなく、みな赦されたのでありますから、深く愛せねばならぬ義務があります。否、罪悪にに陥らないよう私に恵んでくださったばかりでなく、この誘惑を遠ざけてくださったのでありますから、私は聖女マリア・マグダレナよりもなお一層深く聖主を愛さなければなりません。発狂するまでに愛さねばならないのであります。私は黙想会や説教の時に度々こういう事を聞きました。それは「真に痛悔した霊魂よりも多く主を愛した霊魂がまだ見当たらぬ」という事でありますが、私はこの言葉が偽りになって欲しいのです。余計にイエズス様を愛する私の身にとっては、この言葉に反対したいのであります。
しかし話は又わき道に入りました。どこから続けましょうか?
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