「知」と「痴」という字があります。
「知」はともかく「痴」については、誰もが、「こんなものいらない」という。
けれども私は、人間はこの「知」と「痴」の両方をあわせ持たないといけないと思います。
いまの世界は「知」ばかりです。
たしかに「知」によって人類は進歩発展を遂げてきたわけですが、「知」だけでは人間は幸せにならないのです。
なぜかというと、人に対する思いやりを失っていくからです。
むしろ「痴」のほう、すなわち愚直さを持っている人の方が人に対する思いやりがある。
それが貴いのです。
私は、子どもたちと学校のトイレ掃除をする運動を続けてきました。
わずか二、三時間でも、子どもたちの心映えに打たれたことがあります。
わずか二、三時間でも、子どもたちの心映えに打たれたことがあります。
たとえば「いままでトイレを汚しても平気だったけれども、掃除をしてみたら、もうこれからは汚せない」とか「いままで家のトイレはおばあちゃんが掃除をしてくれて、何とも思わなかったけれども、おばあちゃんがこんなしんどいことを毎日やっている、私もときどきでいいから手伝いたい」といった感想が自然と出てくるのです。
トイレ掃除とは、ある意味で「痴」の世界です。
非効率で不合理で、そこに知性はないけれども、思いやりの心を養えます。
だから「痴」性から学べることも忘れてはいけません。
トイレ掃除とは、ある意味で「痴」の世界です。
非効率で不合理で、そこに知性はないけれども、思いやりの心を養えます。
だから「痴」性から学べることも忘れてはいけません。
:鍵山秀三郎著 「すぐに結果を求めない生き方」
何事も実践が大切である。
あらゆることが、やってみないとわからないことがある。
やってみて、初めてわかることがある。
現場に身を置かないとわからないことがある。
仕事の論理は学ばないと分からないが、労働の力学は実践しないとわからない。
「知」性とは動物を越えた振舞い方であり、「痴」性とは動物としての振舞い方である。