「原則」を深く理解し、生活に取り入れるように誠心誠意努力するとき、私たちはT・S・エリオットの言葉にある真実を再三再四発見することになるだろう。
「我々は探究をやめてはならない。そして、我々のすべての探究は、最終的に初めにいた場所に戻り、その場所をはじめて認識することである」
:スティーブン・R・コヴィー 「7つの習慣名言集」より
この文章の意味について数年考えていた。
何か重要ことをいっていると思ってはいたが、理解できなかった。
今日、再びこの言葉に巡り合って、少し理解できたような気がする。
私の言葉で置き換えてみよう。
何か問題や課題が発生したとき、人間は過去の経験により解決しようとするが、真の解決はそんなに簡単ではない。
真の解決をしようとしたとき、解決のための探究が始まる。
探究を続けることによってのみ新しい発見がある。
そこで発見したものが、真の解決のための道具である。
そして、新しい発見という道具を使って、問題や課題が発生した時点に戻って解決に向けてチャレンジする。
そこで、問題が解決できればラッキーである。
できなければ、解決のための探究が始まる。
ふりだしに戻ったように見えるが、道具を一つ得ることができた。
しかし、新しく得ることのできたほとんどの道具は、すでに発見されている。
それは、ほとんどの場合、既存の道具の使い方を知ったに過ぎない。
先哲が発見した道具の使い方を知るために、我々は探究をやめてはならない。
使命があれば、未知なる道具を発見することもあるかも知れない。
知識は道具である。
知識を持っていても使えなければ意味がない。
知識を持っている人は知識を持っている人。
知恵のある人とは、知識を使う能力を持っている人のことをいうのだろう。
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