先月末、遂にコロナに罹患いたしました。幸い自宅療養で済みましたが、まだ体力気力ともに心許ない状態のため、最新号の因幡屋通信70号の紙媒体の発行を断念し、再びblogにて公開することになりました。↑画像は観劇予定をすべてキャンセルした2月のカレンダーです(涙)。皆さま、くれぐれもご自愛を!
メイン劇評は、「あなたを笑う人がいても」と題しまして、昨年12月上演の瀬戸山美咲作、栗山民也演出『彼女を笑う人がいても』を取り上げました。
小説家の「吉田とし」と聞いてピンとくるのは、70年代から80年代にかけて少女期を過ごした方ではないでしょうか。当時、理論社の青春ロマン選集や集英社文庫のコバルトシリーズなどに吉田としの多くの作品が収録されており、図書館で借りては同級生たちと夢中になって読み耽ったものです。
その中で最も強く脳裏に刻まれているのが『たれに捧げん』です。主人公の奈緒子はミッション系の女子高に通う少女。姉が結婚したことで、その夫の弟である修と出会いました。時は70年安保闘争の前夜、高校生にまで及んだ激流に身を投じた修と奈緒子はひたむきに愛し合います。物語中盤であったか、安保闘争についてほとんど知らない奈緒子に、修が一編の詩を渡します。それが樺美智子の「最後に」でした。これがわたしと「彼女」の最初の出会いです。
再会は意外に早くやってきました。高校1年のとき、数学担当の女性教師が「最後に」を紹介したのです。先生は当時20代後半だったか、樺美智子とその生涯について、ごく短く語ったようにも記憶しますが、周辺知識も関心もない高校生にとってはあまりに唐突で、教室にはうっすらとした困惑だけが残りました。わたしはかろうじて「吉田としさんの小説で読んだ詩だ」と思い出しましたが、授業の後友だちと話題にすることもありませんでした。その彼女との3度目の出会いが今回の舞台『彼女を笑う人がいても』です。
あなたを笑う人がいても―彼女との再会
公益財団せたがや文化財団主催
瀬戸山美咲作 栗山民也演出『彼女を笑う人がいても』
12月4日~18日 世田谷パブリックシアター その後、福岡、愛知、兵庫を巡演
物語は2021年の現在、東日本大震災の被災者の取材に行き詰まった大手新聞社の記者高木伊知哉(瀬戸康史)の逡巡を縦軸に、そこから遡ること半世紀、1960年6月の安保闘争さなかに命を落とした女子学生=「彼女」の死の真相を巡り、同じく新聞記者だった伊知哉の祖父・高木吾郎(瀬戸二役)の奔走と挫折を横軸に進行する。8人の俳優のうち7人が二役を演じ継ぎ、ふたつの時代を生きる人々のすがたを通して、「彼女」の存在を炙り出してゆく。その「彼女」こそ、「最後に」の詩を残した樺美智子である。
瀬戸山美咲の関わる舞台ならば、これまでは作・演出いずれであっても躊躇うことなくチケットを予約したのだが、今回に関してはなかなか決心できなかった。瀬戸山の戯曲は言葉を重視し、登場人物のやりとりを聴かせることに力点を置く。サンモールスタジオ、こまばアゴラ劇場、雑遊など、小さな劇場で良き手ごたえを得てきた印象が強い。その瀬戸山の戯曲に対し、3階席まである世田谷パブリックシアターが適切であるのだろうか。この懸念の理由は、2020年晩秋、神奈川芸術劇場KAATでの『オレステスとピュラデス』(杉原邦生演出)の印象である。奥行も袖も高さもたっぷりある大劇場の構造を活かし、さまざまな趣向の凝らされたステージであったが、スペクタル性を強調した演出が必要な作品であるのか、もっと登場人物の言葉を聴きたいというもどかしさが残ったためだ。
舞台奥のスクリーンに映し出されたのは半世紀前の6月、国会議事堂前を埋め尽くす黒い傘の写真である。「彼女」の死を悼んで訪れた人々だ。舞台にも同じように黒い傘をさしてひとり、またひとりと登場する。その中央に瀬戸康史が立ち、客席に向かって「七社宣言」を読み上げる。これは樺美智子が亡くなった直後、東京の主要な新聞社7社、それに賛同した48の地方新聞が「暴力を排し、議会主義を守れ」と同じ声明を紙面に掲載したものである。となると、この瀬戸康史は吾郎なのか?と思ったところで、舞台下手がアパートらしき一室になり、東日本大震災で被災し、別の町で生活している岩井浩一郎(大鷹明良)と梨沙(木下晴香)親子のもとに伊知哉が訪れる場面となる。
このあと舞台は伊知哉が異動の内示を受ける新聞社のデスク、60年4月の大学の教室、国会議事堂の前、「彼女」が運ばれた病院、2021年の信州の一軒家、最後は東北地方のある街の海辺となる。
時と空間が交錯する構造だが、家具調度類は最小限に抑えられ、俳優も基本的にモノトーンの衣裳で、二役の演じ分け、演じ継ぎを演劇的な趣向として誇張する造形はしない。音響も照明も控えめな静かな舞台である。
冒頭の瀬戸康史がどちらの役かを確認したのは観劇後、「悲劇喜劇」(2022年1月号)掲載の本作の戯曲を読んでからである。しかし彼が「吾郎」であると捉えることも可能な作りであり、趣向に重きを置かない作劇、演出ともに好ましく受け止めた。観劇前の懸念はほとんど杞憂であり、良き手応えを得ることができた。ただ、大きな躓きや妨げにはならなかったものの、疑問点や引っ掛かりがあり、それについて考えてみたい。
まず本作の特徴のひとつである二役の効果について、2点を挙げる。
本作が初舞台となった渡邊圭祐は、伊知哉の後輩記者で、ウェブメディアへの転職を目論んでいる矢船聡太と、安保闘争グループに入ってはいるが、地域の子どもたちの世話をする「セツルメント」の活動に軸足を置いている寡黙な青年松木孝司を二役で演じた。前者はいかにも現代の若者らしく軽いノリの立ち居振る舞いながら、学生時代はボランティアサークルに所属していたという意外な経歴を持つ(これを知って、あからさまに「引く」伊知哉の反応がおもしろい)。
60年代当時の人物のなかで、唯一現在の場面にも登場するのが松木である。83歳になった松木を演じるのは吉見一豊(演劇集団円)で、以前の彼と同じ男性とは思えないほど快活で大らかな雰囲気の老人だ。
その松木老人と、伊知哉に取材に同行した聡太が向き合う場面がある。いわゆる「中の人」が自身の演じる人物の数十年後と対面している。渡邉と吉見の外見はまったく似ていない上に、その雰囲気も、青年時代と現在では別人のようである。役の中の人、過去の人物が絡み合う対面の場には、お互いに対する違和感と共感の入り混じる奇妙な空気が漂った。凡庸な作家であれば、この設定に乗って軽妙なやりとりを作りそうであり、客席の自分も微かに期待したが、そこは瀬戸山美咲、筆がすべることはなく、淡々とした進行に安堵した。松木老人は、記者時代だけでなく、新聞社を辞めてタクシー運転手となった吾郎との思い出を語る。非常に重要なエピソードであるが、東京で就職せず、地方に職を求めて半世紀の年月のあいだ、松木自身に何があったのかはほとんど語られない。自己を語らないのが松木の性質なのかもしれないが、他の人物関係にはない特異性のある配役であり、渡邊圭祐→吉見一豊のリレーの演劇的効果をもっと味わいたかった。吉見は今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(三谷幸喜脚本)の堤信遠のような憎々しげな悪役を、いささか大仰な造形で見せることが少なくなく、舞台における複雑で微妙な演技を知る者としては、今回の二役にあとひと息欲しいところである。
次は、今回の出演者のなかで特に注目した阿岐之将一である。阿岐之を初めて観たのは、2020年年1月のTriglav(トリグラフ)公演『ハツカネズミと人間』(ジョン・スタインベック作 中西良介翻訳 新井ひかる演出@スタジオHIKARI)のスリム役であった。大恐慌時代のアメリカ・カリフォルニアの農場の労働者たちのリーダーで、知的な風貌と落ち着いた佇まいを持つ人物だ。もめごとに対して常に冷静で的確な態度を崩さないが、農場で飼っている犬が子犬を産んだとき、「(そのうち何匹かを)間引いてきた」とあっさりと言う。不要な存在を消すことができる男なのである。心の奥底が計り知れず、背筋がヒヤリとする一瞬であった。
2度めはそれから1年後、オフィスコットーネプロデュース『墓場なき死者』(ジャン・ポール・サルトル作 岩切正一郎翻訳 稲葉賀恵演出@下北沢・駅前劇場)である。阿岐之は第二次世界大戦末期、ドイツ占領下のフランスで、レジスタンス兵士を執拗に拷問する民兵クロシュを演じた。相手を痛めつける所作や台詞はゆったりと甘美なほどで、かと思うと自軍の劣勢の情報に怯え、甲高い声で「マリア様!」と叫ぶなど、この人物の背景を想像させて魅力的であった。いずれの人物も緻密に造形しながら、それでいて技巧的なところを見せない。
今回阿岐之が演じたのは60年代の青年・湊雄平である。学生グループのリーダーだ。吾郎とは安保闘争以前の砂川闘争で知り合った。同じ高校の先輩後輩であったことから、フランクにつきあう間柄である。立ち位置のぐらつく後輩たちを容赦なく叱咤しつつ、吾郎の幼い息子の土産にと、「そこの洋菓子店で安売りしてて」とカステラを手渡す。きれいな箱入りの高価なショートケーキではなく、茶色い紙袋へ無造作に入れられた安売りのカステラであるところに彼の暮らしぶりや、相手に負担を感じさせない配慮が現れている。「彼女」が謎の死を遂げたことに納得できず、自身も傷つきながら懸命に真相をつかもうとする熱血青年が、半世紀後どんな人物になるのか非常に期待したのだが、出演俳優のなかで、阿岐之のみ一役であった。過去と現在が必ずしも整った相似形でなくともよいのだが、阿岐之であればどのような役柄であっても誠実に、凡庸でない造形を見せる期待があっただけに、敢えて一役とした作家の意図を図りかねる。残念というより不思議である。「たとえばこんな人物が必要では?」と即座に提示できないのはもどかしいが、本作に対するもの足りなさの大きな要因のひとつである。
2度めはそれから1年後、オフィスコットーネプロデュース『墓場なき死者』(ジャン・ポール・サルトル作 岩切正一郎翻訳 稲葉賀恵演出@下北沢・駅前劇場)である。阿岐之は第二次世界大戦末期、ドイツ占領下のフランスで、レジスタンス兵士を執拗に拷問する民兵クロシュを演じた。相手を痛めつける所作や台詞はゆったりと甘美なほどで、かと思うと自軍の劣勢の情報に怯え、甲高い声で「マリア様!」と叫ぶなど、この人物の背景を想像させて魅力的であった。いずれの人物も緻密に造形しながら、それでいて技巧的なところを見せない。
今回阿岐之が演じたのは60年代の青年・湊雄平である。学生グループのリーダーだ。吾郎とは安保闘争以前の砂川闘争で知り合った。同じ高校の先輩後輩であったことから、フランクにつきあう間柄である。立ち位置のぐらつく後輩たちを容赦なく叱咤しつつ、吾郎の幼い息子の土産にと、「そこの洋菓子店で安売りしてて」とカステラを手渡す。きれいな箱入りの高価なショートケーキではなく、茶色い紙袋へ無造作に入れられた安売りのカステラであるところに彼の暮らしぶりや、相手に負担を感じさせない配慮が現れている。「彼女」が謎の死を遂げたことに納得できず、自身も傷つきながら懸命に真相をつかもうとする熱血青年が、半世紀後どんな人物になるのか非常に期待したのだが、出演俳優のなかで、阿岐之のみ一役であった。過去と現在が必ずしも整った相似形でなくともよいのだが、阿岐之であればどのような役柄であっても誠実に、凡庸でない造形を見せる期待があっただけに、敢えて一役とした作家の意図を図りかねる。残念というより不思議である。「たとえばこんな人物が必要では?」と即座に提示できないのはもどかしいが、本作に対するもの足りなさの大きな要因のひとつである。
次に気づいたのは「父の不在」である。伊知哉が吾郎の息子ではなく、孫である点だ。吾郎にとって「寝顔を見ると仕事をがんばろうって思えます」と言うほど大切な息子は、前述のカステラの場面で「正ちゃん」という呼び名で、3歳であると記されるだけで、新聞記者を辞めてタクシー運転手となった父から息子への思いは不明である。そして祖父吾郎の取材ノートを伊知哉に見せたのも父(正ちゃん)ではなく、伊知哉の母(吾郎からすると息子の妻)であることにも、高木家三代の複雑な歴史を思わせる。「新聞社に就職が決まった僕に、母が突然段ボール箱いっぱいのノートを渡してきた」と伊知哉は語る。この短い語りの裏に何かが秘められているのではないか。吾郎は息子に仕事について語ることがあったのか。伊知哉の母が義父である吾郎の取材ノートについて何かを知っており、ずっと仕舞い込んでいたが、伊知哉が新聞記者になると知って、「突然」渡したのである。義父の過去について、夫と話したことがあったのか等々、さまざまに想像がわく。
人物の相関関係や背景など、すべてを明確にする必要はなく、敢えて見せない、語らせないことによって、それが作品の魅力になる場合もある。前述のように本作の手応えは良いものであった。疑問や引っ掛かりがあるけれども、改訂版や続編を望むより、作品の余韻、余白として味わいたい。
中学生の時に、青春小説のなかで出会った「彼女」と再会したのは、今や気鋭の劇作家・演出家として活躍する瀬戸山美咲の舞台であった。「彼女」を追いながら、過去と現在の人々は自分の生き方を見つめ、迷いつつ歩き続ける。「誰かが私を笑っていてもかまわない。最後に人知れずほほえみたい」という謎めいた言葉には、諦念や自嘲を乗り越えた静かな決意がある。『彼女を笑う人がいても』の「彼女」とは、客席に居る「あなた」であり、「私」である。本作の「余白」が次にどのような作品に結実するのか。わたしの瀬戸山美咲への夢と期待はさらに続いていく。
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