*ヴィクトル・ユゴー原作 アラン・ブーブリル&クロード=ミッシェル・シェーンベルク作 ジョン・ケアード/トレバー・ナン潤色・演出 公式サイトはこちら 帝国劇場 6月12日まで
1987年から2500回以上の公演を重ねた東宝ミュージカルの大ヒット作だ。ロンドンオリジナル版の上演はこれが最後になり、帝劇開場100周年記念公演としても盛況の由。
すでに確固たる評価と人気を得ているスター俳優だけでなく、無名の新人、まったくのアマチュアも含めて全役をオーディションで選んだこと、最初はアンサンブルで参加した俳優が、再演を重ねるなかで次第に大きな役をつかんでいくこと(初演から10年の出演者たちの歩みは、萩尾瞳の『レ・ミゼラブルの100人』(キネマ旬報社)に愛情を込めて記されている)、いくつかのメロディが場面をかえ、歌い手を変えながら全編を歌でつづる形式など、それまでのミュージカルの既成イメージを大きく変える作品である。
自分は友人に誘われるまま初演をみて以来、「レ・ミゼ」の虜になってしまった。とくに島田歌穂のエポニーヌ。この人の歌を聴かなければ、自分はミュージカルという宝物を得ることはなかった。
さて今回は大学時代の同級生4人(初演に誘ってくれた友人はそのなかのひとり)での観劇となった。「どうしても鹿賀(丈史)さんのジャベールをみたい」と熱望する友人の声かけで実現した、いわば小さな同窓会である。そのため若干個人的内容の記事になることをご容赦いただきたい。
観劇日は初演からのメンバーが出演する「オリジナルバージョン」である。ジャン・バルジャンに今井清隆(さすがに滝田栄は無理でしたか・・・)、ジャベールは鹿賀丈史、フォンティーヌに岩崎宏美、エポニーヌは島田歌穂、テナルディエ夫妻は斉藤晴彦と鳳蘭。補助席まで出る超満員の熱気に溢れる。
何度か観劇し、ロンドン版のCDを聴いたりロンドンで行われた記念コンサートの舞台中継をみたり、物語の流れやメロディ、台詞も頭に入り、じゅうぶんに「知った話」である。しかし月並みな表現になるが、みるたびに新しい発見があり、「もっと変わってほしい」と欲が出る。
初演から24年も過ぎているのだ。俳優も年を取り、体型があからさまにそれを示している人、たまたま調子が悪い日なのか、以前とは格段に声量が落ちた人もいる。そのなかで鹿賀丈史は声量もほとんど変わらず貫録があり、島田歌穂は顔もからだも引き締まって無理なく娘にみえ、歌の魅力はいよいよ増している。歌いあげるナンバーはもちろんのこと、会話の台詞を歌うところが抜群で、それを技巧ではなく自然に聴かせる。
さて観劇の4人は、劇団の制作部、アマチュア演劇の指導者、歌舞伎を愛する高校教師、自分はこういうものを書いており、仕事も演劇への関わり方もみごとなまでにバラバラだ。大学時代から芝居の好みも違い、そういう自分たちがなぜ友だちでいるのかが不思議なくらいだが、自分の好き嫌いをはっきり言うと同時に、相手の好みについてあまり干渉や批判をしないという暗黙の了解があったように思う。自分たちの「演劇的共感」の接点が新劇や歌舞伎ではなく、小劇場演劇でもない『レ・ミゼラブル』であるが、正直に言うと、自分は企画発案者の友人ほど鹿賀丈史のジャベールに思い入れはなく、同時に島田歌穂のエポニーヌにここまでぞっこんなのは自分だけだろう。劇中のどこでハンカチを取りだすかで思い入れの違いがわかる(笑)。芝居の感じ方や見方はどこまでもバラバラで、それらを本気で議論すればおそらく大喧嘩だ。
別の知り合いだが、本作に対する酷評を聞かされたことも何度かあり、舞台そのものばかりか、『レ・ミゼラブル』を大切に思う自分までも全否定されたようで大変に傷ついた経験がある。そこで自分が思い知ったのは、激しく心を動かされた作品ほど、劇評まで行かない感想のレベルであっても、その熱を冷ました上で客観的な記述を心がけないと説得力を持たないということだ。彼らの意見にも一理ある。自分が本作をみるたびに感じる「欲」が、そこと一致する点があるからである。
四半世紀を経てなお友と楽しめる舞台に出会えたことに感謝しながら、もっと高く深いものを求め続け、それを書き記してゆきたい。ロンドンでは既に新演出版が制作された。日本での上演が早く実現すること、そしてまた同級生がそろって観劇できることを願っている。
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