*公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 3月1日終了 ウィルス感染予防のため上演を目前にしての中止や延期、上演中であっても前倒しの千秋楽を余儀なくされる公演続々の中、受付やトイレのアルコール消毒液設置やアナウンスなどはあるものの、ほぼ平常に近い状態での上演続行には観客も励まされる。
☆『帽子と預言者』ガッサーン・カナファーニー作 渡辺真帆翻訳 ナーヘド・アルメリ翻訳監修
☆『鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラー-』ラジャ・シェハデ作 デヴィッド・グレイグ脚色 吉原豊司翻訳
本邦初演の2本、演出はいずれも文学座の生田みゆき(1,2,3,4,5)。
正面壁ほとんどを覆うほど大きな本棚が置かれ、法律関係の資料らしきものがぎっしりと収納されている。左右の壁にはさまざまな家電や生活用品が瓦礫のように引っかかっており、その上部にモニター画面が1台ずつ。廃墟というには、まだ生々しい生活臭があるが、どこか幻想的な空気も漂わせる不思議な空間だ(美術は杉山至)。
『帽子と預言者』…当日パンフレットによれば、カナファーニーは1936年パレスチナのアッカーに生まれ、少年時代村の虐殺事件によって難民キャンプで暮らした体験を持つ。20代から政治活動を始め、パレスチナ抵抗運動で重要な働きをした。そのかたわら小説や戯曲を執筆したという。生まれた時代と場所がいずれも困難であったにもかかわらず、いやそのために才能を開花させた稀有な人物なのかもしれない。しかしそれゆえ1972年、36歳の若さで爆殺という痛ましい最期を遂げた。本作はその9か月後に発表された作品とのこと。本邦初演である。
舞台は法廷で、貧しい男が得体のしれない「モノ」を殺したとして裁かれようとしている。借金もあり、結婚前の恋人を妊娠させてしまったことも暴かれ、絶体絶命の危機に陥る。リアルな法廷劇ではなく、時空間はさまざまに交錯し、当事者の男はもちろん観客もまた振り回され、混乱させられる。法廷にはカメラマンがおり、舞台上部のモニターに裁判の様子を映し出したり、傍聴人が男の恋人やその母親になって過去の出来事を再現したり、舞台の様相は目まぐるしく変わっていく。演出の生田みゆきが「不条理演劇に分類されるような作風」とパンフレットに記しているのは、作り手の表現として慎重で賢明であろう。なかなか視点が定められず、手を焼きながらの観劇となるが、それだけに舞台の吸引力は凄まじい。その中でどこかふざけているようなふたりの判事が時おり舞台の空気や流れを壊し、それが観客をほんのいっとき笑わせてリラックスさせるとともに、ほんとうの恐怖の訪れを予感させたりなど、気が抜けない。特に判事のひとりを演じた山口眞司(演劇集団円)が国内外問わず、さまざまな戯曲に対して自然で柔軟な演技で堅固な舞台構築を担っていることを改めて思い起こす。堅実で安定感があるのに決して凡庸ではなく、「何かやらかすかも」と客席に期待も抱かせるのである。
『鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラー-』1951年生まれの作家であり弁護士、人権活動家のラジャ・シェハデが2002年3月から4月にかけて起こったイスラエル軍によるパレスチナ自治区ラマッラー侵攻の様子を、作家のモノローグで描くひとり芝居だ。こちらも本邦初演。80年代にシェイクスピア・シアターの創立メンバーとして活躍し、劇工房ライミングを経てなお活躍する田代隆秀が劇作家を演じる。正面の本棚を町や建物に見立て(前半での無味乾燥な法律関連資料から、本や人形など生活実感ある調度に変っている)、爆撃が一時収まってまで外出する場面もあり、溢れるようなモノに囲まれた狭い空間であるのに、街に暮らす人々の様相まで想像させ、一風変わったひとり芝居である。「イスラエルの違法で非人道的な占領に、戦闘員でも政治家でもない普通のパレスチナ人がどう向き合ったのか」(前述の生田の寄稿)は、予想していたほど暗くはなく、田代の快活な声や表情からは、悲しみや怒りよりも、生き生きとした力強さが感じられた。最初の1本に比べると、観客が視点を定めやすいことも理由のひとつだろう。わりあい明るい空気のなかに幕を閉じるが、この先彼はどうなるのだろう。あからさまな不穏が示されないことの恐ろしさが、観劇から時間を経て少しずつ迫ってくる。
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