*永井愛作 岡崎栄演出 土曜午後9時より 公式サイトはこちら
2001年春初演の舞台の記憶は、今でも生き生きと蘇る。あの日以来、新国立劇場に通うのが楽しみになったのだ。劇場だけでなく、そこに行くまでの道のりや周辺の風景までもが一変した。たくさん笑って、終幕では自分でもびっくりするくらい涙が止まらなかった。(そのときのえびす組劇場見聞録の記事)。
テレビ版は作者の永井愛みずからの脚色で、母親の加藤治子、息子の平田満、それに中国人留学生の小川萌子は舞台と同じだが、母の恋人役の児玉清をはじめ、いしだあゆみ、渡辺えり子、段田安則、竹下景子と豪華キャスト。また舞台では台詞で説明されるだけで登場しないご近所の方々にも絶妙な配役がなされている。たとえば、店のテレビを一日中みているというメリンス屋のカズちゃんに徳井優。すごくはまっている!
舞台をみていて、「いかにも説明台詞だな」と思うことがある。もしこれが映像ならもっとすっきりした表現になるのにと。昨夜放送の第1回をみて、これと逆というか、少々違和感をもつ場面があった。父親は既に亡くなっており、登場しない。人物の台詞によって描かれる。が、その台詞のあとに少しぼかした感じの映像で父親(きたろう)が出てくるのである。息子の勉強机を運んだり、息子を殴ったり。台詞だけで語られる父親が、具体的なイメージを持つことには長短あるだろう。何か二重に説明されているような、妙な具合であった。舞台中継を録画したビデオは何度みても飽きないし、戯曲も繰り返し読んだ。舞台の呼吸が自分に染みついてしまったのだろう、大勢の人と時間と空間を共有して楽しんだ作品をテレビでみることに対する居心地の悪さもある。
しかし最も嬉しいのは、『こんにちは、母さん』を、空間は違うがもっと大勢の人と楽しめるということだ。実家の家族、しばらく会っていない友人。見終わったあといろいろ話したいし、どんなことを感じたかを聞きたいと思う。テレビ版にはテレビ版のよさがきっとあるだろう。第1回めから早くも思い入れ過多の兆し?いや、やはり『こんにちは、母さん』が大好きなのですよ。
2001年春初演の舞台の記憶は、今でも生き生きと蘇る。あの日以来、新国立劇場に通うのが楽しみになったのだ。劇場だけでなく、そこに行くまでの道のりや周辺の風景までもが一変した。たくさん笑って、終幕では自分でもびっくりするくらい涙が止まらなかった。(そのときのえびす組劇場見聞録の記事)。
テレビ版は作者の永井愛みずからの脚色で、母親の加藤治子、息子の平田満、それに中国人留学生の小川萌子は舞台と同じだが、母の恋人役の児玉清をはじめ、いしだあゆみ、渡辺えり子、段田安則、竹下景子と豪華キャスト。また舞台では台詞で説明されるだけで登場しないご近所の方々にも絶妙な配役がなされている。たとえば、店のテレビを一日中みているというメリンス屋のカズちゃんに徳井優。すごくはまっている!
舞台をみていて、「いかにも説明台詞だな」と思うことがある。もしこれが映像ならもっとすっきりした表現になるのにと。昨夜放送の第1回をみて、これと逆というか、少々違和感をもつ場面があった。父親は既に亡くなっており、登場しない。人物の台詞によって描かれる。が、その台詞のあとに少しぼかした感じの映像で父親(きたろう)が出てくるのである。息子の勉強机を運んだり、息子を殴ったり。台詞だけで語られる父親が、具体的なイメージを持つことには長短あるだろう。何か二重に説明されているような、妙な具合であった。舞台中継を録画したビデオは何度みても飽きないし、戯曲も繰り返し読んだ。舞台の呼吸が自分に染みついてしまったのだろう、大勢の人と時間と空間を共有して楽しんだ作品をテレビでみることに対する居心地の悪さもある。
しかし最も嬉しいのは、『こんにちは、母さん』を、空間は違うがもっと大勢の人と楽しめるということだ。実家の家族、しばらく会っていない友人。見終わったあといろいろ話したいし、どんなことを感じたかを聞きたいと思う。テレビ版にはテレビ版のよさがきっとあるだろう。第1回めから早くも思い入れ過多の兆し?いや、やはり『こんにちは、母さん』が大好きなのですよ。
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