*太宰治原作 椎名泉水演出 横浜相鉄本多劇場 公式サイトはこちら
2月に上演された「福田恆存を読む!」に続く企画(そのときの記事)。舞台中央に椅子が2脚、台本を置くための譜面台が4つ。天井から小さなランプがいくつかと、紐の先に黒い紙がついたものが何本かつり下がっている。冒頭白い服の少女が現れ、英語で讃美歌を歌う。キリスト降誕を祝う歌だ。続いて黒いTシャツにジーンズの4人の男性が登場し、二人は椅子に座り、あと二人は後ろに立つ。ユダを4人で演じる趣向である。
高校時代、太宰を好きな友人の影響で『駆込み訴え』を読んだ。読み始めたら最後、ものすごい力でぐいぐいと引き込まれ、まるで自分がユダの訴えを聞いている役人のような気分になってしまった。
4人の俳優はユダの激しく揺れ動く心情を表す。訴えるもの、自分の気持ちを話すもの、気持ちをうまく言葉にできず、ため息やうめき声を発するものなどである。俳優は顔も声も違うのだが、誰かが際立つこともなく、しかし心情による台詞の振り分けが実に絶妙的確で、演出家が原作を深く読み込んでいることがわかるし、活字で書かれたものを読んで、そこから湧き出るイメージを立体化することに成功していると思う。
さて冒頭の少女はイエス・キリストを演じる。たとえばユダが「あの人がこんなことを言ったのです」等と言うとき、イエス・キリストとして台詞を言うのである。バレエのような所作で舞い、黒い紙を引っ張る。とそこから白い羽根が舞い落ちる。演じた少女は14歳とのこと、からだつきも細くて台詞も少々たどたどしい。ユダが憎しみと同じくらい愛しており、自分も愛されることを切望した相手が、ふわふわとつかみどころのない存在であるということだろうか。裏切り者、悪役のイメージが強いユダであるが、太宰の『駆込み訴え』には、神が人間を救済することが成就するためには、キリストは十字架で死ななければならなかった、そのために必要な人間として、神に選ばれたものの悲しみややりきれなさが感じられる。
映画『ゆれる』のパンフレットに、西川美和監督が主演のオダギリジョーと香川照之に参考として『駆込み訴え』を勧めたという記事があり、どちらがユダでも想像するだけでぞくぞくする。しかしひとりでユダを演じる場合、その俳優の個性が前面に突出して、名人芸披露的になる可能性がある。今回4人のユダがよかったのは、それぞれが自分の台詞を言うときと同じくらいの真剣さで別のユダの台詞を聞いていた点である。もちろん台詞の振り分けが非常に細かく、相当に注意していなければタイミングをはずしてしまうから必死で聞いていた面もあるだろうが、揺れ動く自分の心を案外冷静で客観的にとらえると同時に、どうしようもなく持て余したユダの苦しみが伝わってきた。
再び高校時代の話。「最後の『へっへ』がすごいよね」と友人と意見が一致した。訴えの最後にユダが自分の名前を名乗る。そのときの笑いである。4人のユダは聞き取れないくらいの小さな声で「へへへへ・・・・」と静かに笑った。『駆込み訴え』は、裏切りの密告だけではない。イエスへの強烈な、それゆえに複雑にねじくれた愛の告白でもあったのだ。全部言ってしまった。これで終わりだ。安堵したような諦めたような、静かで悲しい笑いであった。天上の音楽のような美しい女性の歌声が聞こえる中、ユダの訴えは終わる。
高校生だったわたしの心に強烈な印象を残したユダは、オダギリジョーでも香川照之でもない、黒いTシャツを着た4人の俳優が入れ替わり立ち替わり現れるようになった。太宰を好きなあの友達に、今夜のステージを見せたいと思った。
2月に上演された「福田恆存を読む!」に続く企画(そのときの記事)。舞台中央に椅子が2脚、台本を置くための譜面台が4つ。天井から小さなランプがいくつかと、紐の先に黒い紙がついたものが何本かつり下がっている。冒頭白い服の少女が現れ、英語で讃美歌を歌う。キリスト降誕を祝う歌だ。続いて黒いTシャツにジーンズの4人の男性が登場し、二人は椅子に座り、あと二人は後ろに立つ。ユダを4人で演じる趣向である。
高校時代、太宰を好きな友人の影響で『駆込み訴え』を読んだ。読み始めたら最後、ものすごい力でぐいぐいと引き込まれ、まるで自分がユダの訴えを聞いている役人のような気分になってしまった。
4人の俳優はユダの激しく揺れ動く心情を表す。訴えるもの、自分の気持ちを話すもの、気持ちをうまく言葉にできず、ため息やうめき声を発するものなどである。俳優は顔も声も違うのだが、誰かが際立つこともなく、しかし心情による台詞の振り分けが実に絶妙的確で、演出家が原作を深く読み込んでいることがわかるし、活字で書かれたものを読んで、そこから湧き出るイメージを立体化することに成功していると思う。
さて冒頭の少女はイエス・キリストを演じる。たとえばユダが「あの人がこんなことを言ったのです」等と言うとき、イエス・キリストとして台詞を言うのである。バレエのような所作で舞い、黒い紙を引っ張る。とそこから白い羽根が舞い落ちる。演じた少女は14歳とのこと、からだつきも細くて台詞も少々たどたどしい。ユダが憎しみと同じくらい愛しており、自分も愛されることを切望した相手が、ふわふわとつかみどころのない存在であるということだろうか。裏切り者、悪役のイメージが強いユダであるが、太宰の『駆込み訴え』には、神が人間を救済することが成就するためには、キリストは十字架で死ななければならなかった、そのために必要な人間として、神に選ばれたものの悲しみややりきれなさが感じられる。
映画『ゆれる』のパンフレットに、西川美和監督が主演のオダギリジョーと香川照之に参考として『駆込み訴え』を勧めたという記事があり、どちらがユダでも想像するだけでぞくぞくする。しかしひとりでユダを演じる場合、その俳優の個性が前面に突出して、名人芸披露的になる可能性がある。今回4人のユダがよかったのは、それぞれが自分の台詞を言うときと同じくらいの真剣さで別のユダの台詞を聞いていた点である。もちろん台詞の振り分けが非常に細かく、相当に注意していなければタイミングをはずしてしまうから必死で聞いていた面もあるだろうが、揺れ動く自分の心を案外冷静で客観的にとらえると同時に、どうしようもなく持て余したユダの苦しみが伝わってきた。
再び高校時代の話。「最後の『へっへ』がすごいよね」と友人と意見が一致した。訴えの最後にユダが自分の名前を名乗る。そのときの笑いである。4人のユダは聞き取れないくらいの小さな声で「へへへへ・・・・」と静かに笑った。『駆込み訴え』は、裏切りの密告だけではない。イエスへの強烈な、それゆえに複雑にねじくれた愛の告白でもあったのだ。全部言ってしまった。これで終わりだ。安堵したような諦めたような、静かで悲しい笑いであった。天上の音楽のような美しい女性の歌声が聞こえる中、ユダの訴えは終わる。
高校生だったわたしの心に強烈な印象を残したユダは、オダギリジョーでも香川照之でもない、黒いTシャツを着た4人の俳優が入れ替わり立ち替わり現れるようになった。太宰を好きなあの友達に、今夜のステージを見せたいと思った。
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