*太宰治作 前嶋のの演出 横浜相鉄本多劇場
「戯曲をひとつ入れたい」という主催側からの提案で選ばれたのが本作『冬の花火』である。椅子が数脚と木箱のようなものがいくつか置かれた舞台に和服の男性が登場し、下手のドアを開けるとそこから数人の男女がおぼつかない足取りで現れる。舞台に散った彼らは和服男性が手を叩くと、ひとりの女性を除いてその場にぱたんと倒れる。男性は用意してあった台本を、倒れた俳優ひとりひとりのからだの上に無造作に置いていく。倒れなかった女性は戯曲冒頭のト書きを読み始める。登場人物もひとりずつ読み上げられ、それを合図に演じる俳優がからだを起こす。和服の男性が太宰治であり、彼を同じ舞台に存在させることで、「太宰の頭の中にあるものを描きたかった」(演出家の話)のだそう。
昭和21年冬、東北の小さな町のある家が舞台である。娘の数枝は東京での生活に疲れ、小さな娘を連れて父とその後妻が暮らす家に疎開して終戦を迎えた。夫は出征したまま帰ってこない。数枝には東京に新しい男がいる。父親からこれまでの不義理や継母への態度を責め立てられ、「このうちを出て行け」と言われ、次の場ではずっと数枝に片思いしていた地元の男性が部屋に忍び込んできてしつこく求愛し、あげく刃物を持ち出す騒ぎになる。次は心労で倒れた継母が、実は六年前、あの刃物男と自分は云々という仰天告白をし、数枝はますます追いつめられていく。
ここまで寒々しくやりきれない話を本式に上演されることを想像すると、ちょっと引いてしまうが、今夜のようなスタイルだと少し距離感が出て静かにみることができる。演出の前嶋ののは音楽の生演奏と演劇を融合した舞台を手がけてきたそうで、今回楽器はなかったがおもしろいところがあった。数枝の娘が祖母に線香花火を買ってもらうのだが、2幕の地元男性求愛の場面で、数枝がその花火に火をつける。出番のない俳優が小さな声で「シュワシュワ」とでも言うのか、文字に置き換えにくい音声を発して、花火の音や燃える様子を表現するのである。不気味な音は数枝を取り巻く世間の声なき声のようでもあり、小さな希望すら蝕み食い散らしていく毒虫のようでもある。
母の告白に絶望した数枝は激情に駆られて叫ぶ。台詞の詳しい内容まで覚えていないが、この世の理不尽なることへの怒りと、もっていきばのない悲しみである。太宰は中央に椅子を持ってきて数枝をその上に立たせる。「ここからはお前が自分で話しなさい」とでも言うように。終幕、役目を終えた俳優たちは再び床にぱたんと倒れ、太宰はひとり立ち尽くす。
作家と戯曲と俳優の関係が舞台上に立体化されており、興味深くみることができた。ポストパフォーマンストークで、今夜のゲスト西山水木が「リーディングの場合、自分の台詞でないときは、人の台詞を読んだりして客観的な気持ちになる。役柄を演じるのではなく、戯曲を演じている」という発言をしており、なるほどなと思った。観客も然りで、登場人物に感情移入したり物語に没頭したりではなく、「戯曲」という存在と対峙しているのである。
「戯曲をひとつ入れたい」という主催側からの提案で選ばれたのが本作『冬の花火』である。椅子が数脚と木箱のようなものがいくつか置かれた舞台に和服の男性が登場し、下手のドアを開けるとそこから数人の男女がおぼつかない足取りで現れる。舞台に散った彼らは和服男性が手を叩くと、ひとりの女性を除いてその場にぱたんと倒れる。男性は用意してあった台本を、倒れた俳優ひとりひとりのからだの上に無造作に置いていく。倒れなかった女性は戯曲冒頭のト書きを読み始める。登場人物もひとりずつ読み上げられ、それを合図に演じる俳優がからだを起こす。和服の男性が太宰治であり、彼を同じ舞台に存在させることで、「太宰の頭の中にあるものを描きたかった」(演出家の話)のだそう。
昭和21年冬、東北の小さな町のある家が舞台である。娘の数枝は東京での生活に疲れ、小さな娘を連れて父とその後妻が暮らす家に疎開して終戦を迎えた。夫は出征したまま帰ってこない。数枝には東京に新しい男がいる。父親からこれまでの不義理や継母への態度を責め立てられ、「このうちを出て行け」と言われ、次の場ではずっと数枝に片思いしていた地元の男性が部屋に忍び込んできてしつこく求愛し、あげく刃物を持ち出す騒ぎになる。次は心労で倒れた継母が、実は六年前、あの刃物男と自分は云々という仰天告白をし、数枝はますます追いつめられていく。
ここまで寒々しくやりきれない話を本式に上演されることを想像すると、ちょっと引いてしまうが、今夜のようなスタイルだと少し距離感が出て静かにみることができる。演出の前嶋ののは音楽の生演奏と演劇を融合した舞台を手がけてきたそうで、今回楽器はなかったがおもしろいところがあった。数枝の娘が祖母に線香花火を買ってもらうのだが、2幕の地元男性求愛の場面で、数枝がその花火に火をつける。出番のない俳優が小さな声で「シュワシュワ」とでも言うのか、文字に置き換えにくい音声を発して、花火の音や燃える様子を表現するのである。不気味な音は数枝を取り巻く世間の声なき声のようでもあり、小さな希望すら蝕み食い散らしていく毒虫のようでもある。
母の告白に絶望した数枝は激情に駆られて叫ぶ。台詞の詳しい内容まで覚えていないが、この世の理不尽なることへの怒りと、もっていきばのない悲しみである。太宰は中央に椅子を持ってきて数枝をその上に立たせる。「ここからはお前が自分で話しなさい」とでも言うように。終幕、役目を終えた俳優たちは再び床にぱたんと倒れ、太宰はひとり立ち尽くす。
作家と戯曲と俳優の関係が舞台上に立体化されており、興味深くみることができた。ポストパフォーマンストークで、今夜のゲスト西山水木が「リーディングの場合、自分の台詞でないときは、人の台詞を読んだりして客観的な気持ちになる。役柄を演じるのではなく、戯曲を演じている」という発言をしており、なるほどなと思った。観客も然りで、登場人物に感情移入したり物語に没頭したりではなく、「戯曲」という存在と対峙しているのである。
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