*山本周五郎原作 戌井昭人脚色 所奏演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 26日まで
戌井の舞台を見たのは、彼の本拠地である鉄割アルバトロスケット『高みからボラをのぞいている』(2006年8月)と、あうるすぽっとプロデュースの『季節のない街』(2012年10月)であろうか。後者は戌井が山本周五郎の原作の脚色と演出を担い、所が演出助手をつとめている。これまでのさまざまなことがつながって、今回の『青べか物語』に結実したのであろう。
戌井昭人の祖父は文学座創立メンバーであり、演出家でもある戌井市郎だ。孫の昭人自身も文学座附属演劇研究所の35期生として研修科に1年通い、退所した。文学座通信693号に掲載の「文学座とわたし」には、かつて祖父が心血を注いで演劇活動を行った場であり、自分も学び、考えるところあって退所したいきさつのある文学座で台本を書けることを、祖父もきっと喜ぶであろうし、「一番喜んでいるのは、実はまだ生きている、わたしなのです」と記されている。
今夜の初日の舞台は、その戌井の素直な喜びが気持ちよく伝わってくるものであった。何せ創立80周年を迎えた日本演劇界屈指の大劇団である。祖父への畏敬の念もあろう。祖父と長年ともに仕事をしてきた大ベテランの俳優やスタッフもいる。また原作者の山本周五郎作品には長年の熱い読者が多く存在する。大変なプレッシャーもあったはず。戌井には大胆で伸び伸びと自由な舞台を作る、開放的な演劇人のイメージがあるが、原作に対する謙虚な姿勢や先輩方への畏怖があり、複雑で微妙、繊細な色合いを感じさせるところもある。しかし最終的には「これで悪いか!」という堂々たる書きっぷりが好ましい。演出の所との息も合っているのであろう。
『青べか物語』は、うらぶれた漁師町・浦粕(うらかす。浦安のこと)を訪れた作家の「私」がしばらく暮らした町と人々の暮らし、そこで起こった出来事が短い章で書き連ねられた小説である。ノンフィクションの性質もあり、老若男女、あくの強い人々がこれでもかと登場する群像劇でもあり、それをひとつの舞台にまとめあげるのは大変なことだ。『赤ひげ診療譚』のようにどっしりした人物が軸になるヒューマンな内容ならまだしも、作品の核、芯をどこにどう捉えるか。うっかりすると冗長で、とりとめのない舞台になる危険がある。
細長い演技スペースを、客席が左右から挟む形になり、俳優は主人公であり、語り部でもある「私」役の上川路啓志含め、10名全員が複数の役を演じ分け、演じ継ぐ。「このダンスシーンをカットすれば、もっとエピソードが盛り込めるのでは?」と感じるところもあったが、最終的に1時間50分休憩なしの1本の舞台として成立したのは驚くべきことだ。
小説の舞台化ということを、改めて考えてみた。小説の内容をすべて舞台にすることは困難であるし、そうすることが「舞台化」ではないから、逐一原作と比較して、ここは同じ、あそこは違うと「照合」していてはつまらない。戌井の脚色には突き抜けたところがあって、冒頭の人物の登場の動きや、最後に小説の世界と今現在がぶつかり合い、劇世界を混沌に陥れるところなどに、それが現れている。主人公が子どもたちから魚を買わされるエピソードは、原作では非常に深く、複雑な内容と表現を持つものである。舞台はシンプルにさっぱりと仕上がっており、それを物足りないと感じなかったのは、前述の戌井の「突き抜け感」と、小学三年生の長を演じた鈴木亜希子の造形のためであろう。鈴木は昨年の久保田万太郎作品『かどで』では、乳呑み児を抱えて北海道へ旅立つ、苦労の塊のような「忍ぶ女」役の印象が強い。そこから想像もできない今回の弾けっぷり。後半の巡査役も、相当に作り込んだ演技なのだが、あざとさやわざとらしさの一寸手前で踏みとどまっているところに「良心」が感じられて出色である。
欲を言えば、いささか大仰な造形の人物が幾人かあり、もう少し抑制しても大丈夫ではないか。そして、もし希望を抱くことが許されるなら、まことに不勉強だが山本周五郎作品好きとして、また今夜の舞台で鈴木亜希子に魅了された者として、戌井昭人と所奏なら、原作の「繁あね」の章(繁役はもちろん鈴木さんで)をどう舞台にするのかを知りたい。自分の気になる箇所が舞台化されていないことを物足りない、残念だという不満ではなく、希望として抱ける舞台に出会えたことは、観客としてやはり大きなる幸福なのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます