因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋リーディング キャサリン・グロヴナー作『いつか、すべて消えてなくなる』

2008-04-15 | 舞台番外編
*キャサリン・グロヴナー作 谷岡健彦翻訳 大阪・伊丹市アイホールでのリーディング公演は2月17日に終了
 一昨年昨年に続き、今年も翻訳者のご厚意で戯曲を読ませていただいた。自由に戯曲と向き合える機会はほんとうに貴重だ。今回の因幡屋リーディングは、1978年生まれのキャサリン・グロヴナー作『いつか、すべて消えてなくなる』である。

☆リーディング公演は終了しておりますが、将来この作品が本式に上演されることを強く願っています。このあたりから少し詳細な記述になりますので、ご注意くださいますよう☆

 男の死体がある。ポール(30代前半の男性 バーの店主)がそれを愛撫するように触れて退場する。冒頭から漂う死の匂い。警官である主人公アナ(30代の女性)が署に溺死体発見の報告をする。が、アナは死んだ男と会話を始める。「マーク」という名の男性が姿を消したらしい。場面替わって、自分の掘った穴に入って死のうとしている少年アダムがいる。それをみつけたポールがアダムを助け、自分の店に連れてくる。彼らの過去や、なぜそこでふたりが出会ったのかはよくわからない。マークの両親のうちをアナが訪ねる場面になる。マークがアナの夫であることがわかる。アナと彼女の夫の両親、アダムとポール。関わりのなさそうなふたつの話が、不安定な平行線を描きつつ続いていく。

 実は読み始めるまでにだいぶ日数がかかった。自分の気負い過ぎが原因である。最初の読みがいちばん重要だ、舞台をみるのと同じように、ほかのことに気を取られずきっちり読まなければと思ったのである。さらに登場人物を動かせない不安があった。戯曲読みの大きな楽しみは、「この役をどなたに演じていただこうかしら?」と考えるところにある。配役が決定すればすいすいと読めるが、人物の性格を把握しかね、具体的なイメージのないままにホンを読むのは、自分にとっておそろしく不安なことなのだった。

 生きた人間と死体が会話をする。まずここで劇の世界に引きつけられる。しかしその仕掛けや絵面に囚われすぎると、作り方としてはあざとくなり、みる方としてはこの作品の深さを感じ取ることができなくなる可能性がある。仮に映像なら死体は死体として横たわったまま、アナも口を聞かないまま声だけ聞かせて、もっと自然に両者の会話を描くこともできるだろう。このほかにも、アナが見知らぬ男や外国人男性と言葉を交わす場面がある。彼らは行きずりの人物で、物語の本筋に関わってはこないのだが、ふとこれは居なくなったマークが違う姿で現れたようにも思えるし、愛している人を見失ったアナの彷徨う心が幻影をみているようにも感じられる。いささか見当違いの深読みかもしれないが、新約聖書に復活したイエスが現れていろいろ話しているのに、弟子たちは一向にその人がイエスと気づかず、まるで見知らぬ相手のように接している箇所があるのを思い出した。

 読めば読むほど深みにはまり、登場人物の心のうちがわからなくなる。配役はいまだに決まっていない。人物の顔やイメージが鮮明にならず、実際の舞台がどうなるかも想像しにくい。なのに戯曲は何度も繰り返して読めるのである。たとえば第6場、ポールの店で、アダムが食器を洗う場面である。諍いのあと、アダムは「ごめんなさい」と謝り、ポールは「黙って洗え」と答えるやりとりが何度か繰り返される。ここが自分は好きだ。ふたりがどんな表情で、どんな声なのかはわからないまま、台詞が、言葉が少しずつ変った色合いを見せるのがわかる。
 最終場、ふたつの話が一気に交じりあい、アナ、ポール、アダムが激しくぶつかりあったのち、寂寥感のなかに薄明かりが差すような終幕を迎える。希望というにはあまりに微かであるが、ほんのりとした温もりが感じ取れる。アダムが床を掃く音。アナの寝顔。実際の音や女優の顔ではなく、言葉そのものが聞こえ、見えてくるのである。

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