高尾ビル解体撤去工事の工期については
高尾ビル解体撤去工事の看板 おそらく契約上の正式工期 平成28年6月24~平成29年12月28日 の他
建築物の解体・改修工事のお知らせ (環境の保全と創造に関する条例に基づく基準に従い、石綿等粉じんの排出・飛散
防止措置を講じて施工しています)の工事期間 平成28年9月5日~平成29年4月30日
道路占用使用許可証の期限 (数回の更新を経て)平成29年4月5日~平成29年7月4日(日数制限があるのかも)
現在は 平成29年7月6日~平成29年10月5日になっています。
と色々ありまして、現場の方から5月頃までかかるのではないかと聞いた記憶もあり勝手に7月4日で工事終了と思って
いましたが、基礎部分の解体にかかると、熟練の解体業者もこんな基礎は見たことない、50年にいい仕事をしていると、
まさに難攻不落の地下要塞にコンクリート剤劣化剤を注入しながらの解体作業が続いており当初の予定通り?今年末までかか
りそうな状況だそうです。
公団住宅の基礎の入念さについては定評の有るところで私も以前にポートアイランド団地(神戸市中央区港島完成昭和55
~昭和58年)の基礎工事を見たことがあると言う基礎の専門家の方から、同じポートアイランド内の他の団地とは全く違う
ものすごい基礎だったとの話を聞いたことがあります。公団のポートアイランド団地は阪神淡路大震災においても他の住宅が
玄関の開閉に支障が出る等の被害があった中、公団住宅の強さを証明しました。
高尾団地は姫路博覧会にモノレールを間に合わせるための突貫工事のイメージがありますがありますが公団住宅(特に高尾
団地のような市街地住宅系の高層団地)の基礎の伝統は守られていたのですね。
平成29年6月14日
記念すべき地上部解体から地中部解体への変更日で解体工事はお休みだったようです。
平成29年6月24日
平成29年7月3日
よくわからない写真が続きますが豊洲市場の謎の地下空間にさしかかったあたりでしょうか。
西の端に残った橋脚の運命が気になります。まさか保存されることは無いと思うのですが。
平成29年7月11日
地中梁は地上階の梁に比べて格段に太いです。
城下町の風情再生事業
とでも言うのでしょうか、以前から姫路は中堀内がすべて軍用地となったことと、空襲により中心部が焼失したことにより
武家屋敷や城下町らしい風景があまり残っていないと書いてきましたが。
写真 左 番外編 8 夢か幻か モノレールと姫路城桜の競演(2017.4.28)紹介した中堀と野里小学校です。手前の粗壁
仕上げの塀はヘヤーサロンです。民間の店舗も協力しています。野里門のすぐ西にあります。
写真 右 姫路城天守の真東にある城東小学校の白壁です。川は外堀川(姫路城外堀です)少し南に公園化された場所もあ
りますがこのあたりは橋に多少の意匠の工夫がありますがコンクリートで固められた都市河川です。治水の問題も
あるのでしょうが残念ながら堀ではなくてコンクリートで固められた排水溝です。
船場蔵復活?
番外編 4 姫路モノレールだけではなかった石見市長親子二代の執念(2017.2.2)で紹介した忘れられた外堀遺構の南側
船場川に面した水色に塗られた部分に船場蔵と書かれています。姫路藩には三ノ丸下三方蔵、船場内蔵・外蔵、飾磨津蔵、
高砂北蔵・南蔵の六つの米蔵があったと言われ船場内蔵は城内にあったので船場蔵は船場外蔵と思われます。船場蔵の付近
は明治以降は大蔵前町と呼ばれ明治22年姫路の市制施行地区にもその名が見られます。又番外編4の明治41年の地図にも
大蔵前の記載があり、姫路モノレールが走っていた頃の地図にも大蔵前公園の南(関西電力姫路支店)から高尾町の間が大蔵
前町となっています。(明治41年の地図では船場川の西側ですが川の付け替えにより船場川の東側となっています)
船場川に面して建つこの真新しい蔵はもしかして船場蔵を復活させた商業施設!(手前の柵が船場川です)
大蔵前橋(手前の欄干)越しに見てもなかなか堂々とした蔵です。
船場蔵の復活としてご紹介する予定でしたが掲載する前に平成28年12月29日も以て閉店(豆の王国さんでした)して
しまった没企画であります。実はこの建物が船場蔵を意識した建物であるかどうかも聞いておりません。建物は新しいもので
ありますので船場蔵の復元施設として新しい活用方法を期待して連載延長の穴埋め企画として紹介させていただきました。
大蔵前町について
大蔵前町が無くなっていたことは全く知りませんでした。相生町の旧町名表示板がありに姫路復興土地区画整理事業の完成
に伴う町名変更により昭和59年9月に博労町に合併とありました。大蔵前町の看板は見つけられませんでしたが同じ頃でし
ょうか。船場蔵の存在を伝える、地名遺産でしたが今は「大蔵前公園」と「大蔵前橋」に其の名を残すのみになりました。
是非残してほしい町名でしたが相生町が江戸時代から続く町名に対して大蔵前町はたかが明治なんでしょうか。
船場蔵について
大蔵前町がなくなり船場蔵も忘れられた存在でした。私は勝手に江戸の蔵前(浅草御蔵)に旗本・御家人が給料の米を受け
取りに来るような蔵と思っていたのですが、それは三ノ丸下三方蔵で船場蔵はとりあえず年貢米を納める蔵の一つだったよ
うです。しかし庶民に一番身近な蔵であったことは間違いなく、それが大蔵前町の町名の誕生につながったとおもいます。
蔵の立地によって城下で消費用の米蔵とか大坂で売却用の米蔵とかに使い分けされていたのかも知れません。
武士の給料は石・人扶持(1日米五合の計算で約1.8石)・俵と米で表されますが、〇人扶持や〇〇俵は米で支給されます
が、〇〇〇石は知行地を与えられ自分で年貢の徴収をするのが建前ですが姫路藩のように藩主の入れ替わりの多い藩では藩で
一括徴収した年貢米(蔵米)を支給するのが一般的になります。姫路藩では年貢は米で納められる他、米札で納められ藩士に
は米札が禄に応じて支給されていたそうです。(時代と藩により色々な形態があったようです)
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2018.1.26) があります。
高尾ビル解体撤去工事の看板 おそらく契約上の正式工期 平成28年6月24~平成29年12月28日 の他
建築物の解体・改修工事のお知らせ (環境の保全と創造に関する条例に基づく基準に従い、石綿等粉じんの排出・飛散
防止措置を講じて施工しています)の工事期間 平成28年9月5日~平成29年4月30日
道路占用使用許可証の期限 (数回の更新を経て)平成29年4月5日~平成29年7月4日(日数制限があるのかも)
現在は 平成29年7月6日~平成29年10月5日になっています。
と色々ありまして、現場の方から5月頃までかかるのではないかと聞いた記憶もあり勝手に7月4日で工事終了と思って
いましたが、基礎部分の解体にかかると、熟練の解体業者もこんな基礎は見たことない、50年にいい仕事をしていると、
まさに難攻不落の地下要塞にコンクリート剤劣化剤を注入しながらの解体作業が続いており当初の予定通り?今年末までかか
りそうな状況だそうです。
公団住宅の基礎の入念さについては定評の有るところで私も以前にポートアイランド団地(神戸市中央区港島完成昭和55
~昭和58年)の基礎工事を見たことがあると言う基礎の専門家の方から、同じポートアイランド内の他の団地とは全く違う
ものすごい基礎だったとの話を聞いたことがあります。公団のポートアイランド団地は阪神淡路大震災においても他の住宅が
玄関の開閉に支障が出る等の被害があった中、公団住宅の強さを証明しました。
高尾団地は姫路博覧会にモノレールを間に合わせるための突貫工事のイメージがありますがありますが公団住宅(特に高尾
団地のような市街地住宅系の高層団地)の基礎の伝統は守られていたのですね。
平成29年6月14日
記念すべき地上部解体から地中部解体への変更日で解体工事はお休みだったようです。
平成29年6月24日
平成29年7月3日
よくわからない写真が続きますが豊洲市場の謎の地下空間にさしかかったあたりでしょうか。
西の端に残った橋脚の運命が気になります。まさか保存されることは無いと思うのですが。
平成29年7月11日
地中梁は地上階の梁に比べて格段に太いです。
城下町の風情再生事業
とでも言うのでしょうか、以前から姫路は中堀内がすべて軍用地となったことと、空襲により中心部が焼失したことにより
武家屋敷や城下町らしい風景があまり残っていないと書いてきましたが。
写真 左 番外編 8 夢か幻か モノレールと姫路城桜の競演(2017.4.28)紹介した中堀と野里小学校です。手前の粗壁
仕上げの塀はヘヤーサロンです。民間の店舗も協力しています。野里門のすぐ西にあります。
写真 右 姫路城天守の真東にある城東小学校の白壁です。川は外堀川(姫路城外堀です)少し南に公園化された場所もあ
りますがこのあたりは橋に多少の意匠の工夫がありますがコンクリートで固められた都市河川です。治水の問題も
あるのでしょうが残念ながら堀ではなくてコンクリートで固められた排水溝です。
船場蔵復活?
番外編 4 姫路モノレールだけではなかった石見市長親子二代の執念(2017.2.2)で紹介した忘れられた外堀遺構の南側
船場川に面した水色に塗られた部分に船場蔵と書かれています。姫路藩には三ノ丸下三方蔵、船場内蔵・外蔵、飾磨津蔵、
高砂北蔵・南蔵の六つの米蔵があったと言われ船場内蔵は城内にあったので船場蔵は船場外蔵と思われます。船場蔵の付近
は明治以降は大蔵前町と呼ばれ明治22年姫路の市制施行地区にもその名が見られます。又番外編4の明治41年の地図にも
大蔵前の記載があり、姫路モノレールが走っていた頃の地図にも大蔵前公園の南(関西電力姫路支店)から高尾町の間が大蔵
前町となっています。(明治41年の地図では船場川の西側ですが川の付け替えにより船場川の東側となっています)
船場川に面して建つこの真新しい蔵はもしかして船場蔵を復活させた商業施設!(手前の柵が船場川です)
大蔵前橋(手前の欄干)越しに見てもなかなか堂々とした蔵です。
船場蔵の復活としてご紹介する予定でしたが掲載する前に平成28年12月29日も以て閉店(豆の王国さんでした)して
しまった没企画であります。実はこの建物が船場蔵を意識した建物であるかどうかも聞いておりません。建物は新しいもので
ありますので船場蔵の復元施設として新しい活用方法を期待して連載延長の穴埋め企画として紹介させていただきました。
大蔵前町について
大蔵前町が無くなっていたことは全く知りませんでした。相生町の旧町名表示板がありに姫路復興土地区画整理事業の完成
に伴う町名変更により昭和59年9月に博労町に合併とありました。大蔵前町の看板は見つけられませんでしたが同じ頃でし
ょうか。船場蔵の存在を伝える、地名遺産でしたが今は「大蔵前公園」と「大蔵前橋」に其の名を残すのみになりました。
是非残してほしい町名でしたが相生町が江戸時代から続く町名に対して大蔵前町はたかが明治なんでしょうか。
船場蔵について
大蔵前町がなくなり船場蔵も忘れられた存在でした。私は勝手に江戸の蔵前(浅草御蔵)に旗本・御家人が給料の米を受け
取りに来るような蔵と思っていたのですが、それは三ノ丸下三方蔵で船場蔵はとりあえず年貢米を納める蔵の一つだったよ
うです。しかし庶民に一番身近な蔵であったことは間違いなく、それが大蔵前町の町名の誕生につながったとおもいます。
蔵の立地によって城下で消費用の米蔵とか大坂で売却用の米蔵とかに使い分けされていたのかも知れません。
武士の給料は石・人扶持(1日米五合の計算で約1.8石)・俵と米で表されますが、〇人扶持や〇〇俵は米で支給されます
が、〇〇〇石は知行地を与えられ自分で年貢の徴収をするのが建前ですが姫路藩のように藩主の入れ替わりの多い藩では藩で
一括徴収した年貢米(蔵米)を支給するのが一般的になります。姫路藩では年貢は米で納められる他、米札で納められ藩士に
は米札が禄に応じて支給されていたそうです。(時代と藩により色々な形態があったようです)
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2018.1.26) があります。