前回が 番外編11 高尾団地・大将軍駅は旧船場川跡? 杭引抜機撤退 船場蔵と大蔵前町 でしたが今回は確定形です。
まずは工事の進捗状況です。基礎杭の撤去が中止になって工期に余裕が出来て時間がゆっくり進んでいます。
平成29年9月28日
作業予定版では整地工となっていました。木曜日でしたが工事はお休みのようでした。
平成29年10月7日
土曜日で作業予定版では整地工となっていましたが、十二所神社秋期大祭のため工事はお休みでした。
モノレールの橋脚の前を屋台が進みます。山陽電車の高架を越えるために高く上ったモノレールは高尾駅に向かって下って
来ます。このため橋脚は階段状に見えます。
かっての高尾団地の前を屋台が進みます。団地が写っていれば少しは歴史的な価値のある写真なんですが。
平成29年10月12日
建物周囲のコンクリートを撤去するため鋼板の壁からフェンスに仮囲いの組替えが行われていました。
平成29年10月24日
大将軍駅前のコンクリート床の撤去と西端に最後まで立っていた橋脚の鉄筋です。周囲にぎっしり鉄筋が入っています。
平成29年11月1日
土間コンクリートの撤去が進んでいます。
平成29年11月9日
もう瓦礫は見当たりません。トラックの通路用の鉄板を撤去していました。
高尾団地・大将軍駅は旧船場川跡
前回の、高尾団地・大将軍駅は旧船場川は旧船場川跡?の疑問を解明すべく高尾町、千代田町、十二所前町と聞き込みした
のですがご存じの方は誰もおられませんでした。そこでこのあたりはまだ姫路城の内と「日本城郭センター」へ行きました。
カウンター越しに「姫路モノレール大将軍駅は旧船場川跡ですか」と尋ねたところ資料を見ることなく即座に「そうです」
と返事がありました。更に「セイヒョウパーキングから大将軍駅が船場川跡ですね」と尋ねたところ姫路城と現在の市街地
との重ね図を出していただきましたが船場川についてはそこまでの記載が無く下の地図を教えていただきました。図書館で
コピーしましたが原本は彩色してありますが、白黒コピーのため船場と掘のみ着色しました。
姫路市街全図 昭和5年5月10日発売
この地図からはセイヒョウパーキングが船場川跡であったことは確定は出来ませんがほぼ間違いないと思われます。
新旧の船場川が有り「中之島」状態で有ったここは全くの驚きでした。では新船場川はいつ頃掘られたのでしょうか。大正
12年8月発行の地図にはありませんのでそれ以後だと思われます。旧船場川が埋められたのが昭和33・34年で、埋立て
時に新船場川を拡幅していますので、当初は直線化・一本化を前提とせずに治水対策のためのバイパスとして開削された様で
す。
市立女学校は現在の姫路市立琴丘高等学校になります。昭和13年に今宿に移転し昭和18年関西配電(関西電力)が移転し
て来ます。山野製菓工場は現在の姫路銘菓の玉椿の「伊勢屋」ではないかと思われます。船場川が高瀬舟や筏による流通経路と
して使用されたのは明治期までで「大蔵前筋」と呼ばれたこのあたりもその空地が学校や工場になっていたようです。
上の地図は姫路市の大東亜戦争における空襲による罹災状況をまとめた地図の一部です。編み目の部分は昭和20年7月3日
の空襲による罹災地域です。外堀の形状は前出の姫路市街全図よりもこちらの方が正確ですのでこの地図を使用します。
姫路市史第六巻 149ページに船場川改修及び外堀埋立工事の一節があります。以下要約です。
船場川が東西に分流しその東側に外堀の一部が残存している。外堀からは安田用水路が南方に通水している。また、船場川
東流より延末用水路が取水し、船場川西流より西延末用水路が取水している。このような複雑な状況から整理の必要を十分認識
しながらも区画整理の枠から外し放置されていた。しかしながら昭和24年頃から堤防敷及び水面を利用した不法建築のバラッ
クが急増し百数十戸に及んだ。このため復興土地区画整理事業として船場川西流を拡幅し一本化し他は埋立てて宅地とし売却代
金を財源とする市単独工事として事業費一億一千万円を以て執行し昭和33・34年度で完了、戦災復興事業の有終の美を飾る
ことができた。
優に70歳は越えた思われるも方も誰も知らなかった旧船場川が実は昭和33年まで存在していたとは、まったく意外でし
た。
遅くともに空襲の瓦礫で埋立てられたのではと思っていました。では空襲の瓦礫はどこに行ったのでしょうか。すでに戦前か
ら国鉄の姫路駅を200メートル南に移転させる計画があり着工していましたが戦争で中断していました。瓦礫は姫路駅の移転
予定地の埋立に利用されましたが、姫路駅の移転は大事業過ぎて戦災復興事業には組み入れられませんでした。平成になって最
近やっとやっと実現したのです。
姫路市住宅地図 中心部 昭和42年
前回と同じ住宅地図です。当時の住宅地図は航空写真から図化したものではありませんのでページが変わればどうしても繋が
りませんので原図のままです。
上図 水色に着色した部分はおそらく旧船場川の代わりに作られた排水路であると思われます。
下図 昭和42年頃にはまだ新・旧船場川の合流部が残っていたようです。旧船場川の真上に高尾団地・大将軍駅が出来たこ
とよくわかります。
写真 左 旧船場川の代りの排水路の船場川への合流部です。高尾団地の北側を探してみましたが水路が見当たりません。
またここから水が流れているのを見たことがありませんので水路はすでに廃止されたと思われます。
写真 右 外堀から流れていた安田用水路です。モノレールの北側で地上に現れます。
都市化と姫路市内の内水洪水
稲田悦治氏の学術論文です。少し関連する事を見つけましたので一部を要約して紹介させていただきます。ネットで公開され
ています。かなりざっくりまとめてます。付け加えた部分もありますので原本もご覧下さい。
中世末の市川の流路
中世末の市川の流路と姫路城の中堀・外堀です。原図に着色しています。破線部分は付け替え後の市川を加筆しました。
Aは飾磨樋門(下の三枚の写真です。)の位置です。Bは高尾団地・大将軍駅の位置です。船場川の真上です。
豊臣秀吉、池田輝政と続く姫路城築城前の姫路は市川の大きな氾濫原・河原のようなもので船場川は有力な支流の一つでし
た。
池田輝政の時代に、横手に樋門を作り船場川への流入を制御し、本流を東に移して城下の洪水の危険を減少させようとした。
また川跡利用して中堀としたこともよくわかります。
しかし当時の土木技術水準では木製の樋門は度々破られ市川の堤防の決壊もあり姫路は何度も大水害に襲われます。飾磨樋門
の説明文にある寛延2年(1749)の水害は、樋門を破った濁流が昔の流れに沿って二手に分かれて城下を襲い船場川沿い
の みならず野里八丁から城下にも流れ込みました。これにに市川決壊の濁流も加わり城門の崩壊大破6と被害は外堀から中堀
の間の城下に及び、死者337人行方不明63人に及び、市川流域全体では数千人にも及んだそうです。
姫路が水害の恐怖から解放されたのは飾磨樋門が明治36年に御影石と煉瓦の近代的な樋門に改修され、大正末に着工された
市川の総堤が完成した昭和の初めからに過ぎません。
市川の洗堰と船場川の始まりです。
昭和40年9月15日の姫路市の水害
自然災害安全神話の姫路をモノレールの着工直後の、昭和40年9月15日突如洪水が襲います。
A 飾磨樋門 B 高尾団地・大将軍駅
( C 神屋町で親水公園化された外堀 D 現代の外堀の始まりの地点 橙色 銀の馬車道を作るた
め外堀の半分がたてられた部分 後出の「忘れられた外堀遺構」で説明します。)
気候温暖、岩山が多くて地盤が頑丈そう、大きな台風の直撃の記憶の無い姫路に自然災害安全神が生まれるのに時間はかかり
ませんでした。
14日は雨は降り続いていましたが夜から小降りになり15日も雨が降ったり止んだりの天気予報でしたが昼前から突然、
雷を伴った豪雨となり斜線の広い範囲が浸水しました。豪雨と言っても1時間当りの最大雨量は43.8㎜12時から16時
の積算雨量も150㎜と大規模な水害を起こすような雨量ではありませんでした。当然、飾磨樋門も無事、市川も決壊して
いません。当時は「新しい都市型水害」言われて、すでに大都市を自認する姫路市民は変に納得していたところが有りました。
水害の直接の原因は船場川支流の増位川・大野川・雲見川等の氾濫、それを原因とした船場川の氾濫です。これには城北地域
の水田の急速な宅地化・山林の開発があります。また、明治期までは高瀬舟の運航のために定期的な浚渫が有った船場川がその
後放置されたこと、船場川に柱を立てた不法建築の増築やバラックの存在等、市内を流れる唯一の河川の船場川の改修と下水の
整備が追いついていなかったわけです。
以下原文のまま、
城北地域に甚大な被害を与えた大野川、増位川の濁流は雲見川の濁流と相まって船場川を一挙に氾濫させ、明治以降の河道
の付け替えで、新たに雲見川の流入地点となった一之橋付近では、水かさはとみに大きくなり、付近の住宅地を水没させたの
みならず、自動車なども立ち往生させた。
また、その下流の白鷺橋、工事中のモノレールの橋脚で流れをせきとめられてしまった濁流は、東西の両岸にあふれ、東岸に
あふれた濁流は、寛延2年の洪水流の跡を追って、国鉄姫路駅前に押しよせ、山陽本線軌道を60~70㎝、国道2号線を30
㎝の濁流下にそれぞれ沈、付近の商店その他5,300戸の床上、床下に濁流が流れこみ、市民は安全地域を求めて右往左往せ
ねばならなかった。
何とモノレールの橋脚工事が水害の原因の一つで有ったのかも知れないのです。
この水害はモノレールの開通式の石見市長の言葉にもあります。
姫路市が将来の都市交通機関として、鋭意建設中でありました日本ロッキード式モノレールが一応レジャー施設としてここに
完成し、5月17日開通を見るに至りました。
昭和40年9月着工以来例年にない悪天候が続き、また当地方としては未曾有の台風、集中豪雨等幾多の難関を克服して、遂
にその完工をみましたことは、ひとえに、都市交通機関としてモノレールの持つ画期的役割について深いご理解を賜りました関
係官公庁をはじめ地元各位のご支援のたまものであります。 以下略
工事中の足場等が洪水の原因だったかも知れないモノレールの橋脚。手柄山の手前にも船場川に建てられた橋脚が1本ありま
したがすでに撤去されています。(記憶違いで初めから無かったようです。)(再訂正 58番橋脚がありましたが平成28年
3月に撤去されました。)
忘れられた外堀遺構
番外編 4 姫路モノレールだけでなかった石見市長親子二代の執念(2017.2.2) の宿題です。
日本城郭センターにお伺いしたときに確認しました。姫路城の外堀に間違い有りません。写真 右 は安田用水路の流出口で
す。掘の南の2割ぐらいは場所的には船場川になります。
外堀らしさ残っている場所はここしかありません。姫路城外堀の案内板を是非お願いします。
世界遺産の姫路城も昭和33年頃は平気で外堀を埋めていたのですね。
東側の外堀については 番外編10 解体難攻?高尾団地・大将軍駅 いい仕事してます日本住宅公団(2017.7.28)で
城下町の風情再生事業の写真 右 で城東小学校前をご紹介しましたが
写真 左 城東小学校の南の神屋町で親水公園として整備された外堀。外堀の東の直線部分は「銀の馬車道」(明治時代に生
野銀山からの輸送路として作られた日本初の高速産業道路と言われる。)の建設のため堀の半分が埋立てられてし
まいました。この公園の南も建物の除去が行われており「銀の馬車道」は観光資源として売り出し中で公園化され
のではないかと思われます。水害被害地図C地点です。
写真 右 堀留町にある現代の外堀の始まりの地点です。暗渠の出口の上に説明板があります。昭和40年代はもっと上流?
まであり幅は狭いながらも堀らしい形状をしていたのですが度重なる道路の拡幅と排水効率を優先してこんな形状
になってしまったのでしょう。水害被害地図D地点です。
くいが残った話(杭と悔いですよ)
11月22日、このブログが始まって以来のアクセスがありました。
番外編 11 高尾団地・大将軍駅は旧船場川跡? 杭引抜機撤退 船場蔵と大蔵前町(2017.10.6)
に集中していました。訳が分からないまま喜んでいましたが。高尾団地の杭について報道があったようです。杭が抜けなかっ
た原因が書いてありますので要旨をご紹介します。
変形し「抜けない杭200本」 駅チカ開発中止 読売新聞(YOMIURI ONLAINE) 2017.11.22 10:24
基礎杭用H形鋼長さ16メートルを抜こうとしたところ機械が破損、振動を加える特別の方法で抜いたところ先端部が変形し
ていることが分かった。振動を加える特別の方法では引く抜くことができるが民家が多い地域なので近所迷惑になるとして引抜
きを残念ながら断念した。約1800平方メートルの跡地は、商業ビルは難しく平面駐車場かプレハブ程度の物しか作れない。
てっきりコンクリート杭だと思って書いていましたので杭が抜けない予想はまったく外れて大恥です。基礎杭用H形鋼が
JISで認められたのは昭和38年で当時としては新しい技術です。姫路博覧会が迫る中、コンクリート杭より工期的に有利
だったのでしょうか。
先端が変形したのは、支持基盤到達後、しっかり規定回数を叩いたからだと思います。(もしかしたら倍ぐらい?)杭が支
持基盤に達してなくて建物が傾き建て直しになったマンションがありましたが、やっぱり日本住宅公団はいい仕事をしてます。
「団地小説短編集を歩く」は
UR賃貸 10の団地と10話の物語「団地小説短編集」
の舞台となった団地の魅力をお伝えするブログです。
番外編は10の団地に含まれない団地の紹介です。
「団地小説短編集」500円+税
姫路地区では
姫路市大野町53
井上書林で発売しています。
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2017.1.26) があります。
旧船場川のおそらく正確な位置については
番外編 15 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅の今 またも「くい」が残った石見市長(2019.2.22)
をご覧下さい。
まずは工事の進捗状況です。基礎杭の撤去が中止になって工期に余裕が出来て時間がゆっくり進んでいます。
平成29年9月28日
作業予定版では整地工となっていました。木曜日でしたが工事はお休みのようでした。
平成29年10月7日
土曜日で作業予定版では整地工となっていましたが、十二所神社秋期大祭のため工事はお休みでした。
モノレールの橋脚の前を屋台が進みます。山陽電車の高架を越えるために高く上ったモノレールは高尾駅に向かって下って
来ます。このため橋脚は階段状に見えます。
かっての高尾団地の前を屋台が進みます。団地が写っていれば少しは歴史的な価値のある写真なんですが。
平成29年10月12日
建物周囲のコンクリートを撤去するため鋼板の壁からフェンスに仮囲いの組替えが行われていました。
平成29年10月24日
大将軍駅前のコンクリート床の撤去と西端に最後まで立っていた橋脚の鉄筋です。周囲にぎっしり鉄筋が入っています。
平成29年11月1日
土間コンクリートの撤去が進んでいます。
平成29年11月9日
もう瓦礫は見当たりません。トラックの通路用の鉄板を撤去していました。
高尾団地・大将軍駅は旧船場川跡
前回の、高尾団地・大将軍駅は旧船場川は旧船場川跡?の疑問を解明すべく高尾町、千代田町、十二所前町と聞き込みした
のですがご存じの方は誰もおられませんでした。そこでこのあたりはまだ姫路城の内と「日本城郭センター」へ行きました。
カウンター越しに「姫路モノレール大将軍駅は旧船場川跡ですか」と尋ねたところ資料を見ることなく即座に「そうです」
と返事がありました。更に「セイヒョウパーキングから大将軍駅が船場川跡ですね」と尋ねたところ姫路城と現在の市街地
との重ね図を出していただきましたが船場川についてはそこまでの記載が無く下の地図を教えていただきました。図書館で
コピーしましたが原本は彩色してありますが、白黒コピーのため船場と掘のみ着色しました。
姫路市街全図 昭和5年5月10日発売
この地図からはセイヒョウパーキングが船場川跡であったことは確定は出来ませんがほぼ間違いないと思われます。
新旧の船場川が有り「中之島」状態で有ったここは全くの驚きでした。では新船場川はいつ頃掘られたのでしょうか。大正
12年8月発行の地図にはありませんのでそれ以後だと思われます。旧船場川が埋められたのが昭和33・34年で、埋立て
時に新船場川を拡幅していますので、当初は直線化・一本化を前提とせずに治水対策のためのバイパスとして開削された様で
す。
市立女学校は現在の姫路市立琴丘高等学校になります。昭和13年に今宿に移転し昭和18年関西配電(関西電力)が移転し
て来ます。山野製菓工場は現在の姫路銘菓の玉椿の「伊勢屋」ではないかと思われます。船場川が高瀬舟や筏による流通経路と
して使用されたのは明治期までで「大蔵前筋」と呼ばれたこのあたりもその空地が学校や工場になっていたようです。
上の地図は姫路市の大東亜戦争における空襲による罹災状況をまとめた地図の一部です。編み目の部分は昭和20年7月3日
の空襲による罹災地域です。外堀の形状は前出の姫路市街全図よりもこちらの方が正確ですのでこの地図を使用します。
姫路市史第六巻 149ページに船場川改修及び外堀埋立工事の一節があります。以下要約です。
船場川が東西に分流しその東側に外堀の一部が残存している。外堀からは安田用水路が南方に通水している。また、船場川
東流より延末用水路が取水し、船場川西流より西延末用水路が取水している。このような複雑な状況から整理の必要を十分認識
しながらも区画整理の枠から外し放置されていた。しかしながら昭和24年頃から堤防敷及び水面を利用した不法建築のバラッ
クが急増し百数十戸に及んだ。このため復興土地区画整理事業として船場川西流を拡幅し一本化し他は埋立てて宅地とし売却代
金を財源とする市単独工事として事業費一億一千万円を以て執行し昭和33・34年度で完了、戦災復興事業の有終の美を飾る
ことができた。
優に70歳は越えた思われるも方も誰も知らなかった旧船場川が実は昭和33年まで存在していたとは、まったく意外でし
た。
遅くともに空襲の瓦礫で埋立てられたのではと思っていました。では空襲の瓦礫はどこに行ったのでしょうか。すでに戦前か
ら国鉄の姫路駅を200メートル南に移転させる計画があり着工していましたが戦争で中断していました。瓦礫は姫路駅の移転
予定地の埋立に利用されましたが、姫路駅の移転は大事業過ぎて戦災復興事業には組み入れられませんでした。平成になって最
近やっとやっと実現したのです。
姫路市住宅地図 中心部 昭和42年
前回と同じ住宅地図です。当時の住宅地図は航空写真から図化したものではありませんのでページが変わればどうしても繋が
りませんので原図のままです。
上図 水色に着色した部分はおそらく旧船場川の代わりに作られた排水路であると思われます。
下図 昭和42年頃にはまだ新・旧船場川の合流部が残っていたようです。旧船場川の真上に高尾団地・大将軍駅が出来たこ
とよくわかります。
写真 左 旧船場川の代りの排水路の船場川への合流部です。高尾団地の北側を探してみましたが水路が見当たりません。
またここから水が流れているのを見たことがありませんので水路はすでに廃止されたと思われます。
写真 右 外堀から流れていた安田用水路です。モノレールの北側で地上に現れます。
都市化と姫路市内の内水洪水
稲田悦治氏の学術論文です。少し関連する事を見つけましたので一部を要約して紹介させていただきます。ネットで公開され
ています。かなりざっくりまとめてます。付け加えた部分もありますので原本もご覧下さい。
中世末の市川の流路
中世末の市川の流路と姫路城の中堀・外堀です。原図に着色しています。破線部分は付け替え後の市川を加筆しました。
Aは飾磨樋門(下の三枚の写真です。)の位置です。Bは高尾団地・大将軍駅の位置です。船場川の真上です。
豊臣秀吉、池田輝政と続く姫路城築城前の姫路は市川の大きな氾濫原・河原のようなもので船場川は有力な支流の一つでし
た。
池田輝政の時代に、横手に樋門を作り船場川への流入を制御し、本流を東に移して城下の洪水の危険を減少させようとした。
また川跡利用して中堀としたこともよくわかります。
しかし当時の土木技術水準では木製の樋門は度々破られ市川の堤防の決壊もあり姫路は何度も大水害に襲われます。飾磨樋門
の説明文にある寛延2年(1749)の水害は、樋門を破った濁流が昔の流れに沿って二手に分かれて城下を襲い船場川沿い
の みならず野里八丁から城下にも流れ込みました。これにに市川決壊の濁流も加わり城門の崩壊大破6と被害は外堀から中堀
の間の城下に及び、死者337人行方不明63人に及び、市川流域全体では数千人にも及んだそうです。
姫路が水害の恐怖から解放されたのは飾磨樋門が明治36年に御影石と煉瓦の近代的な樋門に改修され、大正末に着工された
市川の総堤が完成した昭和の初めからに過ぎません。
市川の洗堰と船場川の始まりです。
昭和40年9月15日の姫路市の水害
自然災害安全神話の姫路をモノレールの着工直後の、昭和40年9月15日突如洪水が襲います。
A 飾磨樋門 B 高尾団地・大将軍駅
( C 神屋町で親水公園化された外堀 D 現代の外堀の始まりの地点 橙色 銀の馬車道を作るた
め外堀の半分がたてられた部分 後出の「忘れられた外堀遺構」で説明します。)
気候温暖、岩山が多くて地盤が頑丈そう、大きな台風の直撃の記憶の無い姫路に自然災害安全神が生まれるのに時間はかかり
ませんでした。
14日は雨は降り続いていましたが夜から小降りになり15日も雨が降ったり止んだりの天気予報でしたが昼前から突然、
雷を伴った豪雨となり斜線の広い範囲が浸水しました。豪雨と言っても1時間当りの最大雨量は43.8㎜12時から16時
の積算雨量も150㎜と大規模な水害を起こすような雨量ではありませんでした。当然、飾磨樋門も無事、市川も決壊して
いません。当時は「新しい都市型水害」言われて、すでに大都市を自認する姫路市民は変に納得していたところが有りました。
水害の直接の原因は船場川支流の増位川・大野川・雲見川等の氾濫、それを原因とした船場川の氾濫です。これには城北地域
の水田の急速な宅地化・山林の開発があります。また、明治期までは高瀬舟の運航のために定期的な浚渫が有った船場川がその
後放置されたこと、船場川に柱を立てた不法建築の増築やバラックの存在等、市内を流れる唯一の河川の船場川の改修と下水の
整備が追いついていなかったわけです。
以下原文のまま、
城北地域に甚大な被害を与えた大野川、増位川の濁流は雲見川の濁流と相まって船場川を一挙に氾濫させ、明治以降の河道
の付け替えで、新たに雲見川の流入地点となった一之橋付近では、水かさはとみに大きくなり、付近の住宅地を水没させたの
みならず、自動車なども立ち往生させた。
また、その下流の白鷺橋、工事中のモノレールの橋脚で流れをせきとめられてしまった濁流は、東西の両岸にあふれ、東岸に
あふれた濁流は、寛延2年の洪水流の跡を追って、国鉄姫路駅前に押しよせ、山陽本線軌道を60~70㎝、国道2号線を30
㎝の濁流下にそれぞれ沈、付近の商店その他5,300戸の床上、床下に濁流が流れこみ、市民は安全地域を求めて右往左往せ
ねばならなかった。
何とモノレールの橋脚工事が水害の原因の一つで有ったのかも知れないのです。
この水害はモノレールの開通式の石見市長の言葉にもあります。
姫路市が将来の都市交通機関として、鋭意建設中でありました日本ロッキード式モノレールが一応レジャー施設としてここに
完成し、5月17日開通を見るに至りました。
昭和40年9月着工以来例年にない悪天候が続き、また当地方としては未曾有の台風、集中豪雨等幾多の難関を克服して、遂
にその完工をみましたことは、ひとえに、都市交通機関としてモノレールの持つ画期的役割について深いご理解を賜りました関
係官公庁をはじめ地元各位のご支援のたまものであります。 以下略
工事中の足場等が洪水の原因だったかも知れないモノレールの橋脚。手柄山の手前にも船場川に建てられた橋脚が1本ありま
したがすでに撤去されています。(記憶違いで初めから無かったようです。)(再訂正 58番橋脚がありましたが平成28年
3月に撤去されました。)
忘れられた外堀遺構
番外編 4 姫路モノレールだけでなかった石見市長親子二代の執念(2017.2.2) の宿題です。
日本城郭センターにお伺いしたときに確認しました。姫路城の外堀に間違い有りません。写真 右 は安田用水路の流出口で
す。掘の南の2割ぐらいは場所的には船場川になります。
外堀らしさ残っている場所はここしかありません。姫路城外堀の案内板を是非お願いします。
世界遺産の姫路城も昭和33年頃は平気で外堀を埋めていたのですね。
東側の外堀については 番外編10 解体難攻?高尾団地・大将軍駅 いい仕事してます日本住宅公団(2017.7.28)で
城下町の風情再生事業の写真 右 で城東小学校前をご紹介しましたが
写真 左 城東小学校の南の神屋町で親水公園として整備された外堀。外堀の東の直線部分は「銀の馬車道」(明治時代に生
野銀山からの輸送路として作られた日本初の高速産業道路と言われる。)の建設のため堀の半分が埋立てられてし
まいました。この公園の南も建物の除去が行われており「銀の馬車道」は観光資源として売り出し中で公園化され
のではないかと思われます。水害被害地図C地点です。
写真 右 堀留町にある現代の外堀の始まりの地点です。暗渠の出口の上に説明板があります。昭和40年代はもっと上流?
まであり幅は狭いながらも堀らしい形状をしていたのですが度重なる道路の拡幅と排水効率を優先してこんな形状
になってしまったのでしょう。水害被害地図D地点です。
くいが残った話(杭と悔いですよ)
11月22日、このブログが始まって以来のアクセスがありました。
番外編 11 高尾団地・大将軍駅は旧船場川跡? 杭引抜機撤退 船場蔵と大蔵前町(2017.10.6)
に集中していました。訳が分からないまま喜んでいましたが。高尾団地の杭について報道があったようです。杭が抜けなかっ
た原因が書いてありますので要旨をご紹介します。
変形し「抜けない杭200本」 駅チカ開発中止 読売新聞(YOMIURI ONLAINE) 2017.11.22 10:24
基礎杭用H形鋼長さ16メートルを抜こうとしたところ機械が破損、振動を加える特別の方法で抜いたところ先端部が変形し
ていることが分かった。振動を加える特別の方法では引く抜くことができるが民家が多い地域なので近所迷惑になるとして引抜
きを残念ながら断念した。約1800平方メートルの跡地は、商業ビルは難しく平面駐車場かプレハブ程度の物しか作れない。
てっきりコンクリート杭だと思って書いていましたので杭が抜けない予想はまったく外れて大恥です。基礎杭用H形鋼が
JISで認められたのは昭和38年で当時としては新しい技術です。姫路博覧会が迫る中、コンクリート杭より工期的に有利
だったのでしょうか。
先端が変形したのは、支持基盤到達後、しっかり規定回数を叩いたからだと思います。(もしかしたら倍ぐらい?)杭が支
持基盤に達してなくて建物が傾き建て直しになったマンションがありましたが、やっぱり日本住宅公団はいい仕事をしてます。
「団地小説短編集を歩く」は
UR賃貸 10の団地と10話の物語「団地小説短編集」
の舞台となった団地の魅力をお伝えするブログです。
番外編は10の団地に含まれない団地の紹介です。
「団地小説短編集」500円+税
姫路地区では
姫路市大野町53
井上書林で発売しています。
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2017.1.26) があります。
旧船場川のおそらく正確な位置については
番外編 15 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅の今 またも「くい」が残った石見市長(2019.2.22)
をご覧下さい。