小説タウンハウス 2 再録小説タウンハウス 第1回 アカシザウルス(2017.4.7)
小説タウンハウス 3 再録小説タウンハウス 第2回 明石中央体育会館(2017.5.12)
小説タウンハウス 4 再録小説タウンハウス 第3回 遊び放題(2017.6.30)
の続きとなります。例によってこのブログにはクイック一つで見る機能がありません。お手数ですがバックナンバーから
ご覧下さい。
4人のデートは続いていた。仕事の都合で英一か恵子が抜けた3人になることもあったが。
今日は楽しみにしていた“ぶどう狩り”である。市街化区域と市街化調整区域の接するこのあたりは一歩踏み出せば豊かな
田園地帯が広がる。約10㏊の岩岡観光ぶどう園はその境目にある。
健太と理恵は今採ったばかりのぶどうを食べている。
英一が恵子に言った。
「君が理恵ちゃんを一人で育てたい気持ちはよくわかる。あの子は賢い子供だ。もう少し大きくなって話せば、理さんの
ことも君の思いもわかってくれると思う。健太も悩んでいる。君にお母さんになってほしい。しかしお母さんも忘れては
いけないと。子供は大人が考える以上にわかっていると思う」
「僕も健太に君がお母さんに似ている訳を話さなければならない時が来ると思う」英一は、ぽつっと付け加えた。
つづく
岩岡観光ぶどう園
岩岡観光ぶどう園は戦後払い下げられた国有地をぶどう畑として開墾したのが始まりです。その後,都市に近い立地を活か
し観光ぶどう園として近郷近在の人々に親しまれています。
ぶどうは今年も豊作。お客様は大入りです。
国営ぶどう園 国史跡 近代産業遺産 播州葡萄園跡
「国営ぶどう園」の名を聞いて落語「ぜんざい公社」を連想された方も居られるかも知れません。
「ぜんざい公社」は古き良き時代、昭和30年代に国や地方公共団体が競って公団や公社を設立何でも民営化と真逆の時代
の時代の「お役所仕事」を揶揄した落語です。(現代化されたますが、ユーチューブでご覧になれます。)
オチは ぶどう園の客 「ここのぶどうは少しも甘くないじゃないか」
国家公務員の店員 「甘い汁は全部我々が吸い取っています」
しかし事実は、明治国家の壮烈な苦闘の歴史でありす。
奇しくも岩岡観光ぶどう園の真北約3.5㎞に国営播州葡萄園跡があります。現在の住所は加古郡稲美町印南四四九(葡萄園
池)になります。神戸市西区との境界はおそらく1本の道路のみで全く同じ風景が広がっています。そして同じように水に恵
まれない台地でした。
稲美町について
町内に鉄道の駅がないこともあり稲美町の知名度は高くありませんので若干説明をします。人口約3万1千人、面積約35
平方キロメートル、明石市、神戸市、三木市、加古川市と境を接しています。昭和30年加古村・母里村・天満村の三村合併
で誕生します。稲美町は三村の共通の地名いなみ野から採用されたと思いますが古くは印南野と書かれ水の乏しい台地で美し
い稲田が広がっていたわけではありません。稲美はおそらく町の発足時の当て字と思われます。岩岡・神出が神戸市ならば
稲美町も神戸市であっても不思議ではないのですが、そこは諸般の事情が有るようです。消防に関しては加古川市と一部事務
組合を作っています。
稲美町と言えば都市伝説として語られるのが「PRをしない花火大会」です。加古大池で行われる花火大会をは公称約二千
発以上に見応えがあります。町内にはチラシもありますがPRをしない花火大会として有名です。町民にゆっくり花火を楽し
んでもらう。合併をしない道を選んだ稲美町のポリシーでしょうか。平成13年の花火大会歩道橋事故以来、花火大会中止
により、花火大会難民となった明石市民の邪推でしょうか。
稲美町の有名企業と言えば「日の出みりん」のキング醸造でしょう。「クッキングワイン」も発売しています。ホームペー
ジによれば平成13年に「いなみワイン」を発売しています。画面右端の大きな門には「日の出商事株式会社」銘板がありま
す。煉瓦作り煙突もあります。創業の建物でしょうか。
全国に「業務スーパー」を展開する神戸物産も本社は稲美町にあります。住宅地として発展を図るほか製造業流通業・農業
の多角的な産業基盤をもつ町です。
国営播州葡萄園は富岡製糸場のワイナリー版
岩倉使節団(明治4年11月12日~明治6年9月13日)がフランスで注目したのがワイン造りでした。日本人の目から
見ればまるで荒れ地のような葡萄畑で作られた葡萄がワインとなり輸出されて巨万の富を得ていました。殖産興業として有望
であるばかりか日本人もワインを飲めば米の節約となります。(江戸時代は凶作年にはたびたび日本酒の醸造制限が行われて
います。)内藤新宿試験場、三田育種場を開設し実験栽培に着手しました。しかし東京の気候は葡萄の栽培には不向きで温暖
な西日本の貿易港の近郊で30町(㏊)規模の実証実験の葡萄園を作ることになり用地を探していました。
これを新聞で知った加古郡長北條直正は印南新村への葡萄園の誘致を決意します。雨が少ない雨く川も無いなみ野台地で
は江戸時代は綿作中心の農業が行われ、木綿は姫路藩の専売品としてとして73万両の姫路藩の借金返済に大きく貢献した。
しかし明治になり安い外国産の綿が大量に輸入され綿作は大打撃を受け、地租改正による重税と重なり、母里地区では総戸
数830戸のうち197戸が土地を失い村を去ることになっしまいました。百年来の疏水計画も多額の資金が必要で実現の
見通しはありませんでした。
土地の売却は苦渋の選択ではあったが一反(1,000㎡)当り6円、1,875円50銭の売却金で租税を払うことができ、葡萄園で
働くことにより多くの者が生計を立てることが出来ました。毎年1棟ずつ建物が建てられ、食料、馬料の調達でも村は潤うこ
とになりまた。葡萄の生産は順調に増加し醸造されたワインは極めて良質と判断された。
明治16年7月には松方正義が視察、10月には西郷侍従が視察し、多くの中央の要人高官が葡萄園をおとずれました。視
察に際し地元有志は村の窮状をを訴え疏水開発と国庫金貸し付けの必要性を訴え、やがて聞き入れられることにまります。
国営播州葡萄園は富岡製糸場のワイナリー版模範工場として歴史に名を残しもし建物が揃って残っていたら今頃は世界遺産
になっていたかも知れません。しかし終末は意外な形で訪れます。
葡萄の害虫(ブドウフィロキセラ)の発生です。明治18年に発生が確認されます。しかもこの年は台風による大被害を
受けます。明治20年には過去最高となる葡萄11トンを収穫しますが、明治23年頃からブドウフィロキセラにより枯死
する葡萄樹がますます増加、廃園を迎えることにまります。廃園の時期は明治24年から明治27年間と推定されます。
この間の明治21年3月に播州葡萄園は葡萄園の経営を委嘱されていた前田正名に払い下げられます。政府の財政緊縮策に
より政府の直営の鉱山・工場などが次々に払下げられました。
ブドウフィロキセラはヨーロッパで猛威を振るいます。明治2年にはアメリカ種の葡萄を台木にヨーロッパ種の葡萄を接
ぎ木することにより防げることがわかりましたがこれが普及するのに20年かかりました。ヨーロッパがブドウフィロキセラ
を克服するのに50年の歳月を要しました。播州葡萄園が接ぎ木法により再生することはありませんでした。
一方疏水計画は明治21年に着工、明治24年4月に完成します。葡萄園は急速に水田化します。播州葡萄園は巨大な葡萄
園池にその名に残して長らく幻の葡萄園となります。
淡河川疏水の完成は岩岡の人々にも希望を与えます。やがて山田川疏水として実現します。
仮題「岩岡の地図では池だらけなのに池がない不思議な風景」として回を改めてお送りする予定です。
播州葡萄園歴史の館
稲美町では播州葡萄園の倉庫と伝わる建物が解体されることになり移築し資料館とすることを計画しましたが強度の問題か
ら建物内に一部を復元、平成6年4月23日、稲美町立郷土資料館(稲美町国安)の隣に開館しました。
左 現在の地図に落とした播州葡萄園と 右 明治19年の地図に画かれた播州葡萄園
左 明治23年に申請登録された登録商標 現在は稲美町が登録し再び世に出るのを待っています。
右 観園之証 農業者の他一般の見学者も多かったようで質問があれば丁寧に説明すると書いてあります。
ワイン醸造を将来有望な事業として阪神その他の有力者が購入した土地は二百数十町に及んだそうです。
現地調査です。
画面右の中央より少し下に、ワイン瓶とグラス、葡萄の絵が播州葡萄園跡ですが何の目標もない台地、道も網状で非常に
わかりにくいです。(カーナビには登録されているかも知れません。)
タウンハウス岩岡からであれば、県道148を北上します。上岩岡北の信号をそのまま北上、道は少し狭くなりますが
ひたすら北上、タウンハウス岩岡から約3.4㎞で美樹庭石(株)の四つ角です。東側約300mに大きな葡萄園池の看板が小
さく見えます。
他の池に比べて特大の看板です。ハングル表記まであり観光地化を確信しているようです。
播州葡萄園跡
欧米農業を積極的に取り入れた明治政府は明治13年(1880)国営のぶどう園を当地に開設した。福羽逸人が内務省
勧農局から園長として派遣され、30㏊の用地に逐次ぶどうの苗付けをし栽培した。
明治16年にはガラス室で温室栽培が行われ、品種や栽培法、その他各種の実験も行った。事業は着々と進展し、その結
果、色味ともに佳良なぶどう酒の試醸にも成功した。ところが、ブドウフィロキセラという害虫の伝播でぶどう園は終末を
迎えた。
しかし、この事業は日本の園芸史に残る貴重な実験となり、西日本の温暖地におけるぶどう作り、及び醸造に得難い資料
を提供した。現在、当時のなごりを残すものとしてぶどう園池がある。
稲美町印南 平成元年7月 稲美町指定史跡
註 ガラス温室栽培は岡山に伝わり、高級葡萄のマスカットとなりました。いまも播州葡萄園からの子孫が育っています。
特大の葡萄園池の看板の裏側と池から見る明石海峡大橋です。白く輝いて主塔が見えることは事実であります。
葡萄園池 所在地 兵庫県加古郡稲美町印南四四九
歴 史
明治時代、印南新村は綿花の栽培で生計をたてていましたが、干ばつや高額な地租(税金)のため、住民の生活は非常に苦
しくなりました。このような状況のとき、やせた土地がブドウの栽培に適していることから、政府が土地を買い上げ明治十三
国営ブドウ園(播州葡萄園)を開設し、ブドウの栽培とワイン作りが行われました。しかし、害虫の発生や天候不順により収
穫が激減し、明治二十年代後半に閉園状態となりました。
これとほぼ同時期に、淡河川の水路工事が完成し、葡萄園内では水田化が進む中で、明治二六年頃に葡萄園池が完成したと
見られています(明治二六年測図 大日本帝国陸地測量部)。その後、昭和三三年のため池改修工事で、現在のため池の形に
なりました。
特 徴
現在の葡萄園池は総貯水量三三万七千トン、満水面積七.八ヘクタール、周長約一.〇キロメートルとなっています。また
池には淡水クラゲが生息しています。池からは神出天王山や農地のすばらしい景色を見渡すことができ、天気の良い日には
明石海峡大橋がみえます。
平成一七年三月 稲 美 町 葡萄園池土地改良区
註 一反当り2円から3円50銭の土地が23円と評価され高額な地租がかかりましたが、その後葡萄園の買収価格6円
を基準に見直されました。
公園予定地と葡萄畑
美樹庭石(株)の四つ角 西300m南100m
稲美町の公園予定地です。公園予定地の南に東京から移り住んだ専門家(農学博士の佐藤立夫氏)の葡萄畑があります。
平成15年16年に2000㎡の土地に1000本の葡萄が植えられ毎年500~600本のワインが作られているそう
ですがまだ市販はされていないそうです。(訂正 現在はわかりませんが市販さてことがあります。)
公園予定地は草ボウボウ、「夢の跡」の、「その又夢の跡」にならないように頑張って下さい。
もしも稲美町が神戸市と合併していたら
『殖産興業を急ぐ明治政府は瀬戸内の雨の少ない気候が葡萄の栽培に適しているとして明治13年、農業公園(写真上は
農業公園の神戸ワイン城)の西、約7㎞神戸市西区稲美町印南に国立の葡萄園とワイナリーを開設し葡萄の栽培と葡萄酒醸
造の研究を始めます。これは農業公園とほぼ同じ30㏊の大規模なもので、神戸ワインとして将来神戸港からの重要な輸出
品となることが期待されていました。(播州葡萄園の倉庫は農業公園に移築され)神戸ワインは日本で最古のワイナリーの
歴史を引き継次いでいます』となっていたかも知れません。きっと播州葡萄園ワインも売り出していたでしょう。
国史跡 近代産業遺産 平成19年度 経済産業省 播州葡萄園跡(園舎北側建物群)
美樹庭石(株)の四つ角 西100m
明治政府は殖産興業政策の一環としてフランスワワ
明治13年(1880)3月、内務省勧業局はその実験
官営ワイナリー「播州葡萄園」を開設しました。その
広大な葡萄園には60種以上の欧米産醸造用ブドウ
栽培され、ワイン醸造にも取り組みました。しか
被害と政府の官営事業払下げ政策などにより、明治
へ経営委嘱、同20年には民間に払い下げられました
播州葡萄園の商標ラベルが出願登録されましたが
淡河川疎水の開通以降、地価高騰を受けて葡萄園は
変えて売却され、明治30年代には廃園となりまし
教育委員会は当地の発掘調査において、モルタル壁
ガラス温室跡などをはじめ、ワインボトルや「兵
明治十三年・内務省勧農局」と記銘された瓦片な
記録を裏付ける多様な遺構・遺物を発見、ここが
位置する建物群の遺跡であることを確認しました。
で埋め戻し保存され、平成18年に園舎と醸造場を
の範囲が国史跡に指定、翌年には近代産業遺産
マムシ 毒ヘビ に注意 も大切なことですが張り紙で一部お伝え出来ません。張り紙の代わりに除草をしていただ
ければと思います。葡萄園池の西にあります。
もしかして稲美町役場の方がこのブログを読んで下さったのでしょうか9月4日に通りがかったところ看板周辺
公園予定地、葡萄畑ともきれいに草刈りがしてありました。しかし張り紙は重要だから残っていました。
国史跡 近代産業遺産 平成19年度 経済産業省 播州葡萄園跡(醸造場)
美樹庭石(株)の四つ角 西300m南100m 公園予定地の看板の西
『農務顛末(農林省蔵版)』には播州葡萄園の官営操業当時の報告書が編纂されています。それによると園内で実験栽培
された60種以上の欧米産醸造用ブドウのうち、「ボルドー・ノワール」「ブラック・ジンフィンダル」など数種は結果良好
でありました。そして来たるべき本格的なワイン生産に向けて園内には醸造施設が整備されます。明治17年(1884)に
「24坪の葡萄酒醸造場」、同18年に「30坪の葡萄室付ブランデイ蒸留場」、同19年に「76坪の葡萄酒醸造場」と
毎年1棟ずつ新築されていきました。それらの所在地は永く不明でありましたが、平成8年夏稲美町教育委員会は当地の
発掘調査によってレンガ積み地下室遺構を発見、その規模・構造が『農務顛末』に記される「明治19年建設の76坪の葡萄
酒醸造場」に一致することを確認しました。翌年にはレンガ地下室の北側で「24坪の葡萄酒醸造場」の素掘りの地下室遺構
も確認出来ました。「葡萄室付ブランデイ蒸留場」については明確な遺構が確認できませんでしたが、当時の地図などからレ
ンガ地下室醸造場の西側に位置したと見られます。発見された遺構は現地で埋め戻し保存され、平成18年に園舎と醸造場を
一括する約52,000㎡の範囲が国史跡に指定、翌年には近代化産業遺産に認定されています。
寄贈 神戸ワインサロン(創立30周年記念事業)
設置 稲美町教育委員会 平成21年7月
こちらの看板は マムシ 毒ヘビ に注意 以前に遙か雑草の彼方、近づくことも困難です。役場の方もそれで張り紙
を諦めたのでしょう。一般人はここに看板があることに気が付かないと思います。葡萄畑と公園予定地の境にあります。
看板の手前は葡萄畑ですがこちらも一部除草まで手が回っていないようです。フランスと違って日本では雑草がすごいで
す。こちらも頑張って下さい。
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小説タウンハウス 3 再録小説タウンハウス 第2回 明石中央体育会館(2017.5.12)
小説タウンハウス 4 再録小説タウンハウス 第3回 遊び放題(2017.6.30)
の続きとなります。例によってこのブログにはクイック一つで見る機能がありません。お手数ですがバックナンバーから
ご覧下さい。
4人のデートは続いていた。仕事の都合で英一か恵子が抜けた3人になることもあったが。
今日は楽しみにしていた“ぶどう狩り”である。市街化区域と市街化調整区域の接するこのあたりは一歩踏み出せば豊かな
田園地帯が広がる。約10㏊の岩岡観光ぶどう園はその境目にある。
健太と理恵は今採ったばかりのぶどうを食べている。
英一が恵子に言った。
「君が理恵ちゃんを一人で育てたい気持ちはよくわかる。あの子は賢い子供だ。もう少し大きくなって話せば、理さんの
ことも君の思いもわかってくれると思う。健太も悩んでいる。君にお母さんになってほしい。しかしお母さんも忘れては
いけないと。子供は大人が考える以上にわかっていると思う」
「僕も健太に君がお母さんに似ている訳を話さなければならない時が来ると思う」英一は、ぽつっと付け加えた。
つづく
岩岡観光ぶどう園
岩岡観光ぶどう園は戦後払い下げられた国有地をぶどう畑として開墾したのが始まりです。その後,都市に近い立地を活か
し観光ぶどう園として近郷近在の人々に親しまれています。
ぶどうは今年も豊作。お客様は大入りです。
国営ぶどう園 国史跡 近代産業遺産 播州葡萄園跡
「国営ぶどう園」の名を聞いて落語「ぜんざい公社」を連想された方も居られるかも知れません。
「ぜんざい公社」は古き良き時代、昭和30年代に国や地方公共団体が競って公団や公社を設立何でも民営化と真逆の時代
の時代の「お役所仕事」を揶揄した落語です。(現代化されたますが、ユーチューブでご覧になれます。)
オチは ぶどう園の客 「ここのぶどうは少しも甘くないじゃないか」
国家公務員の店員 「甘い汁は全部我々が吸い取っています」
しかし事実は、明治国家の壮烈な苦闘の歴史でありす。
奇しくも岩岡観光ぶどう園の真北約3.5㎞に国営播州葡萄園跡があります。現在の住所は加古郡稲美町印南四四九(葡萄園
池)になります。神戸市西区との境界はおそらく1本の道路のみで全く同じ風景が広がっています。そして同じように水に恵
まれない台地でした。
稲美町について
町内に鉄道の駅がないこともあり稲美町の知名度は高くありませんので若干説明をします。人口約3万1千人、面積約35
平方キロメートル、明石市、神戸市、三木市、加古川市と境を接しています。昭和30年加古村・母里村・天満村の三村合併
で誕生します。稲美町は三村の共通の地名いなみ野から採用されたと思いますが古くは印南野と書かれ水の乏しい台地で美し
い稲田が広がっていたわけではありません。稲美はおそらく町の発足時の当て字と思われます。岩岡・神出が神戸市ならば
稲美町も神戸市であっても不思議ではないのですが、そこは諸般の事情が有るようです。消防に関しては加古川市と一部事務
組合を作っています。
稲美町と言えば都市伝説として語られるのが「PRをしない花火大会」です。加古大池で行われる花火大会をは公称約二千
発以上に見応えがあります。町内にはチラシもありますがPRをしない花火大会として有名です。町民にゆっくり花火を楽し
んでもらう。合併をしない道を選んだ稲美町のポリシーでしょうか。平成13年の花火大会歩道橋事故以来、花火大会中止
により、花火大会難民となった明石市民の邪推でしょうか。
稲美町の有名企業と言えば「日の出みりん」のキング醸造でしょう。「クッキングワイン」も発売しています。ホームペー
ジによれば平成13年に「いなみワイン」を発売しています。画面右端の大きな門には「日の出商事株式会社」銘板がありま
す。煉瓦作り煙突もあります。創業の建物でしょうか。
全国に「業務スーパー」を展開する神戸物産も本社は稲美町にあります。住宅地として発展を図るほか製造業流通業・農業
の多角的な産業基盤をもつ町です。
国営播州葡萄園は富岡製糸場のワイナリー版
岩倉使節団(明治4年11月12日~明治6年9月13日)がフランスで注目したのがワイン造りでした。日本人の目から
見ればまるで荒れ地のような葡萄畑で作られた葡萄がワインとなり輸出されて巨万の富を得ていました。殖産興業として有望
であるばかりか日本人もワインを飲めば米の節約となります。(江戸時代は凶作年にはたびたび日本酒の醸造制限が行われて
います。)内藤新宿試験場、三田育種場を開設し実験栽培に着手しました。しかし東京の気候は葡萄の栽培には不向きで温暖
な西日本の貿易港の近郊で30町(㏊)規模の実証実験の葡萄園を作ることになり用地を探していました。
これを新聞で知った加古郡長北條直正は印南新村への葡萄園の誘致を決意します。雨が少ない雨く川も無いなみ野台地で
は江戸時代は綿作中心の農業が行われ、木綿は姫路藩の専売品としてとして73万両の姫路藩の借金返済に大きく貢献した。
しかし明治になり安い外国産の綿が大量に輸入され綿作は大打撃を受け、地租改正による重税と重なり、母里地区では総戸
数830戸のうち197戸が土地を失い村を去ることになっしまいました。百年来の疏水計画も多額の資金が必要で実現の
見通しはありませんでした。
土地の売却は苦渋の選択ではあったが一反(1,000㎡)当り6円、1,875円50銭の売却金で租税を払うことができ、葡萄園で
働くことにより多くの者が生計を立てることが出来ました。毎年1棟ずつ建物が建てられ、食料、馬料の調達でも村は潤うこ
とになりまた。葡萄の生産は順調に増加し醸造されたワインは極めて良質と判断された。
明治16年7月には松方正義が視察、10月には西郷侍従が視察し、多くの中央の要人高官が葡萄園をおとずれました。視
察に際し地元有志は村の窮状をを訴え疏水開発と国庫金貸し付けの必要性を訴え、やがて聞き入れられることにまります。
国営播州葡萄園は富岡製糸場のワイナリー版模範工場として歴史に名を残しもし建物が揃って残っていたら今頃は世界遺産
になっていたかも知れません。しかし終末は意外な形で訪れます。
葡萄の害虫(ブドウフィロキセラ)の発生です。明治18年に発生が確認されます。しかもこの年は台風による大被害を
受けます。明治20年には過去最高となる葡萄11トンを収穫しますが、明治23年頃からブドウフィロキセラにより枯死
する葡萄樹がますます増加、廃園を迎えることにまります。廃園の時期は明治24年から明治27年間と推定されます。
この間の明治21年3月に播州葡萄園は葡萄園の経営を委嘱されていた前田正名に払い下げられます。政府の財政緊縮策に
より政府の直営の鉱山・工場などが次々に払下げられました。
ブドウフィロキセラはヨーロッパで猛威を振るいます。明治2年にはアメリカ種の葡萄を台木にヨーロッパ種の葡萄を接
ぎ木することにより防げることがわかりましたがこれが普及するのに20年かかりました。ヨーロッパがブドウフィロキセラ
を克服するのに50年の歳月を要しました。播州葡萄園が接ぎ木法により再生することはありませんでした。
一方疏水計画は明治21年に着工、明治24年4月に完成します。葡萄園は急速に水田化します。播州葡萄園は巨大な葡萄
園池にその名に残して長らく幻の葡萄園となります。
淡河川疏水の完成は岩岡の人々にも希望を与えます。やがて山田川疏水として実現します。
仮題「岩岡の地図では池だらけなのに池がない不思議な風景」として回を改めてお送りする予定です。
播州葡萄園歴史の館
稲美町では播州葡萄園の倉庫と伝わる建物が解体されることになり移築し資料館とすることを計画しましたが強度の問題か
ら建物内に一部を復元、平成6年4月23日、稲美町立郷土資料館(稲美町国安)の隣に開館しました。
左 現在の地図に落とした播州葡萄園と 右 明治19年の地図に画かれた播州葡萄園
左 明治23年に申請登録された登録商標 現在は稲美町が登録し再び世に出るのを待っています。
右 観園之証 農業者の他一般の見学者も多かったようで質問があれば丁寧に説明すると書いてあります。
ワイン醸造を将来有望な事業として阪神その他の有力者が購入した土地は二百数十町に及んだそうです。
現地調査です。
画面右の中央より少し下に、ワイン瓶とグラス、葡萄の絵が播州葡萄園跡ですが何の目標もない台地、道も網状で非常に
わかりにくいです。(カーナビには登録されているかも知れません。)
タウンハウス岩岡からであれば、県道148を北上します。上岩岡北の信号をそのまま北上、道は少し狭くなりますが
ひたすら北上、タウンハウス岩岡から約3.4㎞で美樹庭石(株)の四つ角です。東側約300mに大きな葡萄園池の看板が小
さく見えます。
他の池に比べて特大の看板です。ハングル表記まであり観光地化を確信しているようです。
播州葡萄園跡
欧米農業を積極的に取り入れた明治政府は明治13年(1880)国営のぶどう園を当地に開設した。福羽逸人が内務省
勧農局から園長として派遣され、30㏊の用地に逐次ぶどうの苗付けをし栽培した。
明治16年にはガラス室で温室栽培が行われ、品種や栽培法、その他各種の実験も行った。事業は着々と進展し、その結
果、色味ともに佳良なぶどう酒の試醸にも成功した。ところが、ブドウフィロキセラという害虫の伝播でぶどう園は終末を
迎えた。
しかし、この事業は日本の園芸史に残る貴重な実験となり、西日本の温暖地におけるぶどう作り、及び醸造に得難い資料
を提供した。現在、当時のなごりを残すものとしてぶどう園池がある。
稲美町印南 平成元年7月 稲美町指定史跡
註 ガラス温室栽培は岡山に伝わり、高級葡萄のマスカットとなりました。いまも播州葡萄園からの子孫が育っています。
特大の葡萄園池の看板の裏側と池から見る明石海峡大橋です。白く輝いて主塔が見えることは事実であります。
葡萄園池 所在地 兵庫県加古郡稲美町印南四四九
歴 史
明治時代、印南新村は綿花の栽培で生計をたてていましたが、干ばつや高額な地租(税金)のため、住民の生活は非常に苦
しくなりました。このような状況のとき、やせた土地がブドウの栽培に適していることから、政府が土地を買い上げ明治十三
国営ブドウ園(播州葡萄園)を開設し、ブドウの栽培とワイン作りが行われました。しかし、害虫の発生や天候不順により収
穫が激減し、明治二十年代後半に閉園状態となりました。
これとほぼ同時期に、淡河川の水路工事が完成し、葡萄園内では水田化が進む中で、明治二六年頃に葡萄園池が完成したと
見られています(明治二六年測図 大日本帝国陸地測量部)。その後、昭和三三年のため池改修工事で、現在のため池の形に
なりました。
特 徴
現在の葡萄園池は総貯水量三三万七千トン、満水面積七.八ヘクタール、周長約一.〇キロメートルとなっています。また
池には淡水クラゲが生息しています。池からは神出天王山や農地のすばらしい景色を見渡すことができ、天気の良い日には
明石海峡大橋がみえます。
平成一七年三月 稲 美 町 葡萄園池土地改良区
註 一反当り2円から3円50銭の土地が23円と評価され高額な地租がかかりましたが、その後葡萄園の買収価格6円
を基準に見直されました。
公園予定地と葡萄畑
美樹庭石(株)の四つ角 西300m南100m
稲美町の公園予定地です。公園予定地の南に東京から移り住んだ専門家(農学博士の佐藤立夫氏)の葡萄畑があります。
平成15年16年に2000㎡の土地に1000本の葡萄が植えられ毎年500~600本のワインが作られているそう
ですがまだ市販はされていないそうです。(訂正 現在はわかりませんが市販さてことがあります。)
公園予定地は草ボウボウ、「夢の跡」の、「その又夢の跡」にならないように頑張って下さい。
もしも稲美町が神戸市と合併していたら
『殖産興業を急ぐ明治政府は瀬戸内の雨の少ない気候が葡萄の栽培に適しているとして明治13年、農業公園(写真上は
農業公園の神戸ワイン城)の西、約7㎞神戸市西区稲美町印南に国立の葡萄園とワイナリーを開設し葡萄の栽培と葡萄酒醸
造の研究を始めます。これは農業公園とほぼ同じ30㏊の大規模なもので、神戸ワインとして将来神戸港からの重要な輸出
品となることが期待されていました。(播州葡萄園の倉庫は農業公園に移築され)神戸ワインは日本で最古のワイナリーの
歴史を引き継次いでいます』となっていたかも知れません。きっと播州葡萄園ワインも売り出していたでしょう。
国史跡 近代産業遺産 平成19年度 経済産業省 播州葡萄園跡(園舎北側建物群)
美樹庭石(株)の四つ角 西100m
明治政府は殖産興業政策の一環としてフランスワワ
明治13年(1880)3月、内務省勧業局はその実験
官営ワイナリー「播州葡萄園」を開設しました。その
広大な葡萄園には60種以上の欧米産醸造用ブドウ
栽培され、ワイン醸造にも取り組みました。しか
被害と政府の官営事業払下げ政策などにより、明治
へ経営委嘱、同20年には民間に払い下げられました
播州葡萄園の商標ラベルが出願登録されましたが
淡河川疎水の開通以降、地価高騰を受けて葡萄園は
変えて売却され、明治30年代には廃園となりまし
教育委員会は当地の発掘調査において、モルタル壁
ガラス温室跡などをはじめ、ワインボトルや「兵
明治十三年・内務省勧農局」と記銘された瓦片な
記録を裏付ける多様な遺構・遺物を発見、ここが
位置する建物群の遺跡であることを確認しました。
で埋め戻し保存され、平成18年に園舎と醸造場を
の範囲が国史跡に指定、翌年には近代産業遺産
マムシ 毒ヘビ に注意 も大切なことですが張り紙で一部お伝え出来ません。張り紙の代わりに除草をしていただ
ければと思います。葡萄園池の西にあります。
もしかして稲美町役場の方がこのブログを読んで下さったのでしょうか9月4日に通りがかったところ看板周辺
公園予定地、葡萄畑ともきれいに草刈りがしてありました。しかし張り紙は重要だから残っていました。
国史跡 近代産業遺産 平成19年度 経済産業省 播州葡萄園跡(醸造場)
美樹庭石(株)の四つ角 西300m南100m 公園予定地の看板の西
『農務顛末(農林省蔵版)』には播州葡萄園の官営操業当時の報告書が編纂されています。それによると園内で実験栽培
された60種以上の欧米産醸造用ブドウのうち、「ボルドー・ノワール」「ブラック・ジンフィンダル」など数種は結果良好
でありました。そして来たるべき本格的なワイン生産に向けて園内には醸造施設が整備されます。明治17年(1884)に
「24坪の葡萄酒醸造場」、同18年に「30坪の葡萄室付ブランデイ蒸留場」、同19年に「76坪の葡萄酒醸造場」と
毎年1棟ずつ新築されていきました。それらの所在地は永く不明でありましたが、平成8年夏稲美町教育委員会は当地の
発掘調査によってレンガ積み地下室遺構を発見、その規模・構造が『農務顛末』に記される「明治19年建設の76坪の葡萄
酒醸造場」に一致することを確認しました。翌年にはレンガ地下室の北側で「24坪の葡萄酒醸造場」の素掘りの地下室遺構
も確認出来ました。「葡萄室付ブランデイ蒸留場」については明確な遺構が確認できませんでしたが、当時の地図などからレ
ンガ地下室醸造場の西側に位置したと見られます。発見された遺構は現地で埋め戻し保存され、平成18年に園舎と醸造場を
一括する約52,000㎡の範囲が国史跡に指定、翌年には近代化産業遺産に認定されています。
寄贈 神戸ワインサロン(創立30周年記念事業)
設置 稲美町教育委員会 平成21年7月
こちらの看板は マムシ 毒ヘビ に注意 以前に遙か雑草の彼方、近づくことも困難です。役場の方もそれで張り紙
を諦めたのでしょう。一般人はここに看板があることに気が付かないと思います。葡萄畑と公園予定地の境にあります。
看板の手前は葡萄畑ですがこちらも一部除草まで手が回っていないようです。フランスと違って日本では雑草がすごいで
す。こちらも頑張って下さい。
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