ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 4410

2021-08-18 22:37:24 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4410 会話の基本

4411 『ボッコちゃん』

 

思考とは、もう一人の自分との会話のことだ。会話のできない人は、思考もできない。語句を並べて思考したつもりになるだけだ。

会話の基本は、〈聞かれたことに対して機械的に答える〉というものだ。

 

<「名前は」

「ボッコちゃん」

「としは」

「まだ若いのよ」

「いくつなんだい」

「まだ若いのよ」

「だからさ……」

「まだ若いのよ」

この店のお客は上品なのが多いので、だれも、これ以上は聞かなかった。

(星新一『ボッコちゃん』)>

 

「上品なの」ではないのと会話をするのは、危険だ。

 

<「ぼくを好きかい」

「あなたが好きだわ」

「こんど映画へでも行こう」

「映画へでも行きましょうか」

「いつにしよう」

 答えられない時には信号が伝わって、マスターがとんでくる。

(星新一『ボッコちゃん』)>

 

「マスター」のような調整役を〈M〉と書く。Mを頭の中に呼べる人は冷静だ。

「奥さんは心得のある人」(下十三)という報告が真実なら、静の母はMでありえた。

 

<「殺してやろうか」

「殺してちょうだい」

彼はポケットから薬の包みを出して、グラスに入れ、ボッコちゃんの前に押しやった。

「飲むかい」

「飲むわ」

(星新一『ボッコちゃん』)>

 

M抜きで問答をするのは命がけだ。だから、卑怯な人は、一方的に語ること、書くことに逃避する。語ること、書くことは、賢さの証明にはならない。全然。

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4410 会話の基本

4412 「私を愛してくれるものと」

 

公正な司会者Mが不在のとき、Dとの問答は危険を伴う。

 

<ハムレ さあ、この剣にかけて、さあ。

亡 霊 〔地下から〕 誓え! 

(ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場)>

 

父の「亡霊」はハムレットのDと解釈できる。

ハムレットにはMがいなかった。だから、彼は悲劇的な最期を遂げることになる。

 

<リンダ こうするしか、しようがないんでしょうね。

ウィリー そうさ、一番いいことさ。

ベン 一番いいことだ! 

ウィリー それしかないのさ。これで万事――さあ、おやすみ。疲れた顔をしているよ。 

リンダ すぐいらしてね。

(アーサー・ミラー『セールスマンの死』)>

 

ベンは実在した。だが、このベンはウィリーのDだ。ベンの亡霊ではない。だから、この場面のベンは、リンダには見えていない。勿論、声も聞こえていない。

ベンに相当するのが、Sの場合、「一種の魔物」(下三十七)だ。本当の「魔物」なら、ハムレットの父の亡霊と同格になる。

Sは、自分の両親の亡霊のようなものを空想する。これが「黒い影」などになる。Sがこれらに負けるのは、Mのようなキャラクターを作り出すことができなかったからだ。

 

<私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然(はっきり)見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世に居なくなった後でも、居た時と同じように私を愛してくれるものと、何処(どこ)か心の奥で信じていたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」七)>

 

「突然死んだ」というのは、おかしい。突然死ではない。「突然」は「疑いました」に係るのか。だったら、これは不図系の言葉だ。別種の物語への飛躍の露呈だ。

〈父母の霊魂はSを守護した〉いう具体的な物語は、皆無だ。

「居た時と同じように」は「愛してくれる」に係るだけでなく、「信じていた」にも係る。両親の生死に関わらず、Sには〈「父や母が」「私を愛してくれ」ている〉という実感、つまり被愛感情を抱いたことがなかったのだろう。「父や母が、この世に居なくなった後」だから被愛妄想的気分に浸ることが楽になったわけだ。「何処(どこ)か心の奥で信じて」には、〈頭では全然違うことを考えて〉という含意がある。

Sの自己欺瞞の見事さを、Pは讃嘆するのだろう。読者も同様。

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4410 会話の基本

4413 イヤミの同類

 

Dは誰にでもいるはずだ。私にはいる。

 

<デモンはソクラテスの意志をある一瞬に停止させ、なすべきことを告げるよりもむしろ、しようとしていたことをやめさせるのです。直観は、ソクラテスのデモンが実践上で行なうのと同じことを、思索の面でしばしば行なうように思われます。少なくとも同じ形で直観は始まり、また直観が最もはっきりした現われ方をするのも同じ形によってです。すなわち直観は制止するものです。広く受け入れられてきた見解、明白と思われてきた主張、科学的として通ってきた命題、これらを前にして直観は、とんでもない、不可能だ、との言葉を哲学者の耳にささやくのです。

(アンリ・ベルクソン『哲学的直観』「媒介的イメージ」)>

 

Sの場合、こうした「直観」がうまく働かなかった。SのDは、〈自分の物語〉の主人公Sにとってのみ「明白と思われてきた主張」あるいは「倫理上の考(ママ)」(下二)を代弁する人格として現れていたのだろう。「直観」の代弁者でないばかりか、常識的な倫理観の代弁者でもなさそうだ。なぜだろう。

 

<花間一壺酒  花間(かかん) 一(いっ)壷(こ)の酒(さけ)

獨酌無相親  独酌(どくしゃく) 相(あい)親(した)しむ無(な)し

擧杯邀名月  杯(さかずき)を挙(あ)げて 名月(めいげつ)を邀(むか)え

對影成三人  影(かげ)に対(たい)して 三人(さんにん)を成(な)す

(李白『月下獨酌』)>

 

Sが「影」(D)とうまくやれないのは、「名月(めいげつ)」(M)を仰がないからだ。

イヤミが大金を拾う。すると、天使の姿をしたイヤミと悪魔の姿をしたイヤミが現れる。

 

<天使 とどけろ!! 

悪魔 ネコババしろ!! 

イヤミ (悪魔を指して)こっち がんばれ!! 

悪魔 (天使を殴る)ボカッ おれにはイヤミがついてるんだ。(イヤミに向かって)ネコババしろ!! 

イヤミ ネコババ きーめた!! 

(赤塚不二夫『おそ松くん』「どこへかくした百万円」より)>

 

このとき、イヤミの「意志」を停止させる「直観」は働かなかった。Mが不在だからだ。

語られるSは、イヤミの同類だろう。Sは悪魔的Dである「恐ろしい力」氏の味方をしてしまい、自殺願望を抱くようになる。ところが、そのことに語り手Sは気づいていない。作者も気づいていないらしい。だったら、読者も気づくべきではなかろう。

 

(4410終)

 


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