ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 4430

2021-08-21 18:42:40 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4430 こじらせタイプ

4431 『ダイナマイト節』

 

Nの小説では、会話が弾まない。弾むようだと、中身がない。

 

「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云(ママ)う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」

「ある。うん。あるよ」

「あると思うなら、僕と一所にやれ」

「うん。やる」

「きっとやるだろうね。いいか」

「きっとやる」

「そこでともかくも阿蘇へ(ママ)登ろう」

「うん、ともかくも阿蘇へ(ママ)登るがよかろう」

 二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々(ごうごう)と百年の不平を限りなき碧空(へきくう)に吐き出している。

(夏目漱石『二百十日』五)

 

煽っているのは「圭(けい)さん」で煽られているのが「碌(ろく)さん」だ。ちなみに、圭がKに、碌がSに相当しそうだ。そして、「阿蘇」が「房州」に相当するはずだが、碌と違い、SはKにオルグされなかった。されないのが普通だろう。碌は、碌でなしだ。

「文明の怪獣」は「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等」(『二百十日』四)だそうだが、意味不明。「人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ」(『二百十日』一)というのが本音らしい。圭は彼のための「安慰」を求めているだけだろう。階級的怨念に偽装した個人的被害妄想の露呈だ。作者は「平民」を出汁にしている。

圭が具体的にどんなことを「僕と一所にやれ」と唆すのか、不明。実力行使は封印している。その理由は不明。「相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」(『二百十日』四)と、圭は語る。敵が不鮮明だから、戦術も不鮮明なのだろう。作者は何をしているのか。

「うん、ともかく」街に出て歌うがよかろう。

 

四千余万の 同胞(そなた)のためにや

赤い囚(し)衣(きせ)も苦にやならぬ

  コクリミンプクゾウシンシテ ミンリョクキュウヨウセ

若しも成らなきや ダイナマイトどん

(演歌壮士団作詞・曲『ダイナマイト節』*)

 

この歌の内部の世界の「壮士」は「ダイナマイトどん」とやる気でいる。だから、この演歌の意味は明瞭で、「演歌壮士団」の意図も明瞭だ。

一方、『二百十日』は空疎だ。二人が何をしようとしているのか、さっぱりわからない。当然、作者の意図も不明。

 

*『演歌の明治大正史』(添田知道)より。

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4430 こじらせタイプ

4432 「深い原因」

 

圭は、憤懣の原因を隠蔽している。作者は、その隠蔽工作に加担している。

 

隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。

「そこで、その、相手が竹刀(しない)を落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手を取ったんだあね」

「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」

「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀を落したものだから、どうにも、こうにも仕様がないやあね」

「ふうん。竹刀を落したのかい」

「竹刀は、そら、さっき落してしまったあね」

「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」

「困らああ(ママ)ね。竹刀も小手も取られたんだから」

二人の話し(ママ)はどこまで行っても竹刀と小手で持ち切(ママ)っている。黙然として、対座していた圭さんと碌さんは顔を見合わし(ママ)て、にやりと笑った。

(夏目漱石『二百十日』一)

 

「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」という文は意味不明。「竹刀」がどうであれ、また「小手」であれ、面であれ、胴であれ、一本を「取られたら」試合は中断、あるいは終了だろう。だから、「困る」は意味不明。

圭と碌が「隣の部屋」の「二人の話し」のどこをどうおかしがっているのか、不明。

 

「あの隣りの客は竹刀(しない)と小手の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気なものだ。

「君が華族と金持ちの事を気にする樣なものだろう」

「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳が分らない」

「なに自分じあ(ママ)、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね—―」と碌さんが隣りの真似をする。

「ハハハハそこでそら竹刀を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似してみる。

「なにあれでも、実は慷慨家かも知(ママ)れない。そらよく草双紙にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊(かいぞく)の張(ちょう)本(ほん)毛剃(けぞり)九(く)右(う)衛門(えもん)て」

(夏目漱石『二百十日』二)

 

「深い原因」を知れば、圭の意味不明の言葉の「訳」がわかるようになるのだろうか。ちなみに、「深い原因」は、Sの「背景」と同じものだろう。

「そこでそら竹刀を落したんだあね」は、「隣りの真似」になっていない。作者は、圭にわざと間違えさせているのだろうか。不明。

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4430 こじらせタイプ

4433 「単純でいい女」

 

『二百十日』の圭の性格と『草枕』の画工の性格は対立するもののように誤読できる。一方は社会悪と戦い、一方は社会悪から逃げるからだ。しかし、どちらの場合も、社会悪の実体は語られない。被害妄想的である点で、二人の気分は共通している。

 

「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、

「そうさ」と何の苦もなく答えたが、

「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接(つ)いだ様につけた。

「剛健な趣味がありやしないか」

「うん。実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、立派な人間が出来るんだがな。惜しい事だ」

「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んでみるがいい」

「うん、それも好かろう。然(しか)しそれより前に文明の皮を剥(む)かなくちゃ、いけない」

「皮が厚いから中々骨が折れるだろう」と碌さんは水(すい)瓜(か)の様な事を云う。

「折れても何でも剥くのさ。奇麗(きれい)な顔をして、下卑(げび)た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性を社会全体に蔓延(まんえん)させるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云(ママ)う性根(しょうね)の悪い奴があるものだ」

(夏目漱石『二百十日』三)

 

「あの下女」が『二百十日』のヒロインになるべきだった。

Nの小説では「単純でいい女」が、ちらほらする。だが、男たちは、藤尾や那美のような性悪女に、良くも悪くも関わりたがる。「マドンナ」を、「五分刈り」は「水晶(すいしょう)の珠(たま)」(『坊っちゃん』七)にたとえるが、なぜか、近づかない。ちなみに、「山嵐」は彼女を「かの不貞(ふてい)無節なる御転婆(おてんば)」(『坊っちゃん』九)と呼ぶ。「マドンナ」は静の原型で、正体不明。

「木に竹を接(つ)いだ様」の「竹」こそが『二百十日』の隠蔽された主題だ。圭が単純でいい男なら、「単純でいい女」と睦もう。ところが、彼自身、「下卑(げび)た根性」の持ち主だから、同類を憎悪するわけだ。勿論、作者の企画ではない。

「下卑た根性」とは被愛願望のことだ。Kは、自分の被愛願望を自他に対して隠蔽するために、他人の被愛願望を無闇に攻撃している。圭は、〈自分は「単純でいい女」に愛される〉という物語を夢としてさえ語れない。愛されない不満ではなく、〈愛の物語〉を語れない不安を紛らわそうとして、正体不明の「文明の皮」を話題にしているのだ。

『草枕』の画工の場合、那美の「文明の皮」を剥いたことになる。ただし、嘘っぽい。作者は後日談を構想できなかった。

『二百十日』や『野分』の隠蔽された主題は、それらと真逆のような『草枕』の隠蔽された主題と同一なのだ。Nのすべての小説の隠蔽された主題は、〈「文明の皮」を被った女を「単純でいい女」に変えたい〉と要約できる。〈「単純でいい女」に「文明の教育を施すと、立派な人間が出来るんだがな」〉といったロマンチックな話ではない。

(4430終)


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