夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6330 〈嫉妬〉の二つの意味
6331 「私よりは優勢に」
「Kに対する嫉妬(しっと)」(下二十七)の「嫉妬(しっと)」は夏目語であり、明瞭な意味はない。
- <自分よりすぐれた者をねたみそねむこと。「弟の才能に―する」「出世した友人を―する」
- 自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。また、その感情。りんき。やきもち。島崎藤村、藁草履「―は一種の苦痛です」。「妻の―」
(『広辞苑』「嫉妬」)>
『こころ』の場合の「嫉妬(しっと)」は①のような意味だ。
<容貌(ようぼう)もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていなところが、異性には気に入るだろうと思われました。何処か間が抜けていて、それで何処かに確(tっ)かりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。学力になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。――凡て向うの好(い)いところだけがこう一度に眼先へ散らつき出すと、一寸(ちょっと)お安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十九)>
「容貌(ようぼう)も」の「も」は不可解。「Kの方が女に好かれるように」思われる要素や出来事は語られていない。「容貌(ようぼう)」に関して、標準を提示せずに比較するのは無駄話。もっと「女に好かれる」男が現れたら、どうしよう。「新ら(ママ)しい世の中を見渡す便宜も生じて来る」(下十六)のだろう。つまり、自分から身を引くつもりだ。「女」には静の母も含まれる。
「女」の取り扱いについて「何処か間が抜けて」いる男は、JKに叱られる。「何処かに確(tっ)かり」は矛盾めいている。「男らしいところ」は、あくまで男であるSの評価だ。男色文化に依拠するのだろう。「私よりは優勢」も無駄話。
「学力」なんかが、ここでどうして問題になるのか。男らしさの競争の場合でも、問題になるまい。大卒の男は、死ぬまで「学力」の差を気にするのかもしれない。しかし、世間の評価は「専門」によって決まるはずだ。「敵でない」の含意は、〈男女関係では「敵」になれる〉というものだ。Sは、Kとだけ、モテ競争をしたがった。Kに戦意はない。
「向うの好(い)いところだけ」しか思い浮かばないのは、Sの同性愛的傾向の露呈だろう。「安心した私」は、「或(ある)時はあまりにKの様子が強くて高いので、私は却って安心した事もあります」(下二十九)という文を参考にすべきか。
Sの「嫉妬(しっと)」は「第二の世界」における優劣の変形だ。嫉妬②とは違う。つまり、〈Sに対するKの愛情が静に「向くのをうらみ憎むこと」〉とは違う。Kが静に愛されるのを、羨み、ねたみ、憎み、恐れるのだ。
〈静はKを愛する〉という物語と〈静はSを愛する〉という物語は、混交している。ただし、〈静はSとKの両方を同時に愛し、両者を比較する〉という物語はない。ややこしい。
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6330 〈嫉妬〉の二つの意味
6332 意味不明の「嫉妬(しっと)」
『彼岸過迄』における「嫉妬」について、考える。
<「貴方は妾を御転婆の馬鹿だと思って始終冷笑しているんです。貴方は妾を……愛していないんです。つまり貴方は妾と結婚なさる気が……」
「そりゃ千代ちゃんの方だって……」
「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで宜(よ)う御座んす。何も貰って下さいとは云いやしません。唯何故愛してもいず、細君にもしようと思っていない妾に対して……」
彼女は此所へ来て急に口籠(くちごも)った。不敏な僕はその後へ何が出て来るのか、まだ覚(さと)れなかった。「御前に対して」と半ば彼女を促が(ママ)す様に問を掛けた。彼女は突然物を衝(つ)き破った風に、「何故嫉妬(しっと)なさるんです」と云い切って、前よりは劇(はげ)しく泣き出した。僕はさっと血が顔に上(のぼ)る時の熱(ほて)りを両方の頬に感じた。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」三十五)>
「僕」は須永市蔵。「千代ちゃん」は千代子。
千代子が生まれるとすぐに、須永の義母は「大きくなったら、この子を市蔵の嫁に呉れまいか」(「須永の話」五)と千代子の両親に頼んだ。ただし、確約を得たかどうか、不明。
千代子の質問に須永は答えない。彼の答えを、私は推測することができない。
「熱(ほて)り」の原因について、語り手の須永は何も語らない。この問答の場面で「須永の話」は終わる。続く「松本の話」では、須永と義母の関係が主な話題になる。そして、「熟(ほて)り」の原因は不明のまま、『彼岸過迄』は終わる。
千代子の言う「嫉妬(しっと)」は嫉妬②だ。一方、須永の「嫉妬(しっと)」は嫉妬①だ。だから、ここで問答は成り立っていない。また、千代子は浮気をしていないから、彼女の言うとおり、須永が嫉妬②をする理由はない。須永の「嫉妬(しっと)」の原因は、須永自身にも不明なのだろう。つまり、この「嫉妬(しっと)」は意味不明なのだ。作者は何をしているのだろう。
須永が千代子を愛していなくても、婚約者同然の千代子が別の男といちゃついたら、面子が潰れる。そういう話なら、わからなくもない。ただし、その場合、婚約を解消したらよかろう。ところが、須永は、婚約解消に踏み切れない。継母の意思に逆らいたくないからだろう。このあたりの機微が、うまく表現されていない。須永の〈自分の物語〉において、〈須永は千代子に「嫉妬(しっと)」をする〉と須永自身が語っているとすれば、この「嫉妬(しっと)」の意味は不明なのだ。嫉妬①でもなく、嫉妬②でもない。夏目語の「嫉妬」の意味の一つは〈見捨てられる恐れの、その一歩手前の不安〉かもしれない。
千代子は、この質問によって、須永の精神的混乱を暗に指摘している。語られる須永は、千代子によって自身の混乱に気づかされたらしい。だが、「須永の話」の語り手である須永自身は、この言葉のこの場面における含意やこの言葉をぶつけられたときの衝撃などについて、ほとんど何も語らない。また、作者もきちんと表現していない。したがって、「嫉妬(しっと)」という言葉の意味は、最後まで謎めいたままだ。
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6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6330 〈嫉妬〉の二つの意味
6333 「血属」
須永の「嫉妬(しっと)」は次のように生じる。
<僕は初めて彼の容貌を見た時から既に羨(うらや)ましかった。話をする所を聞いて、すぐ及ばないと思った。それだけでもこの場合に僕を不愉快にするには充分だったかも知(ママ)れない。けれども段々彼を観察しているうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せ付ける様な態度で、誇り顔に(ママ)発揮するのではなかろうかという疑(うたがい)が起った。その時僕は急に彼を憎み出した。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」十六)>
「彼」は高木。この「嫉妬(しっと)」は嫉妬①であり、〈羨望〉と同じような意味だ。
「及ばない」は、〈高木の才気や容貌などに自分のそれらは「及ばない」〉の略。
「疑」の根拠は示されない。被害妄想的。
<嫉妬(ジェラシー)を定義する場合、羨望(エンヴィ)とはっきり区別する必要がある。日常生活ではしばしば混同して使われるが、心理学的には嫉妬と羨望はまったく異なる。羨望はふつう二者間で生ずる。羨望の念が強い人は、相手が所有するものを手に入れたいと望み、相手がそれを所有することを望まない。羨望の対象となるのは、相手の夫あるいは妻、よい関係、美や知性のような望ましい特性、財産、成功、人望などである。これにたいして、嫉妬はふつう三者間で生ずる。嫉妬深い人は、大切な関係への第三者からの脅威に気づくと反応を示す。この第三者が想像上の人物であっても同じことだ。
羨望と嫉妬は、人間存在のもっとも基本的な二つの状態に対応する。羨望は何かを持っていない時起こり、嫉妬は、持っている何かを脅かされた時起こる。
(アヤーラ・パインズ『ロマンチック・ジェラシー 嫉妬について私たちの知らないこと』)>
嫉妬①は「羨望(エンヴィ)」に、嫉妬②は「嫉妬(ジェラシー)」に相当するようだ。しかし、須永には区別できないようだ。作者が混乱しているのだろう。
<僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹(いとこ)とか、皆親しみの深い血属ばかりであるのに、それ等に取り捲(ま)かれている僕が、この高木に比べると、却って何処からか客にでも来たように見えた位、彼は自由に遠慮なく、しかも或程度の品格を落す危険なしに己を取扱か(ママ)う術を心得ていたのである。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」十六)>
千代子は「血属」の一員だが、実は「母」の代理だ。〈高木は「血属」における須永の地位を奪う〉という物語を須永は恐れている。ただし、本当に恐れているのは、〈高木は「母」の愛を須永から奪う〉という物語のはずだ。〈高木に対する嫉妬①の物語〉は〈「母」に対する嫉妬②の物語〉の異本ということになる。ただし、須永にその自覚はない。
(6330終)