SONG
マッチ棒
頭でっかち マッチ棒
怒ると頭に火が点くぞ
怒ると頭に火が点くぞ
ヤ~イ
(終)
『冬のソナタ』を読む
「道に迷う小鳥」(下p5~23)
3 「人を殴るのはいけないとでも教わったのか?」
三角関係が激化して、ミニョンはチュンサンに似てくる。まるでユジンとサンヒョクの不和が人格化したみたいだ。
*
サンヒョクは、側(そば)にいてくれるだけでいいとの気持ちまでも拒否されると、ユジンの肩を強く揺さぶりながら睨み付けた。
「何の真似です?」
突然ミニョンの声がした。レストランを出てから散歩をして宿舎に戻って来たミニョンが二人を見つけ、怒鳴るサンヒョクに言った言葉だ。
ミニョンは二人に近づくと、ユジンに部屋へ入るようにと言った。ユジンがその言葉に従うべきかどうか迷っていると、サンヒョクがミニョンの胸ぐらを摑んだ。
「殴りたなら、どうぞ。僕はいくら殴られても構わないけど、ユジンさんに乱暴をするのは我慢ならない」
ミニョンが睨み付けながら言った。
「どうしました? 殴れないんですか? 人を殴るのはいけないことだとでも教わりましたか?」
ミニョンは冷ややかな笑みを浮かべながらサンヒョクに言った。その言葉を聞いた瞬間、サンヒョクはミニョンから手を離してしまった。その姿に、昔のジュンサンが重なったからだ。
そう、十年前の体育の時間、そのときもサンヒョクは今のようにジュンサンの胸ぐらを摑んでいたのだ。
「どうした……? 殴れないのか? 人を殴るのはいけないとでも教わったのか?」
挑発的な言葉や世の中を判断する独特な物差し……二人はあまりにも似ていた。
(下p14~15)
*
チュンサンの空想では、「人を殴ってはいけない」とサンヒョクに教えたのはサンヒョクの父親だ。ミニョンの空想では、誰だろう。
このすぐ後、ミニョンはサンヒョクの父親に出会う。
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7350 「瘤取(こぶと)り」
7351 「隣りの爺」
『御伽草子』(太宰)の「瘤取り」は、『鼻』(芥川)の模倣。どちらも、暗い知識人を戯画化したように見せかけながら、実は擁護している。〔1423 芥川龍之介〕参照。
善悪2人の主人公の出てくる隣りの爺型といわれる昔話の一つ。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「瘤取話」)
知識人は「隣りの爺」だ。「善悪2人」は不適当。
<つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かったのに、それでも不幸な人が出てしまったのである。それゆえ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になって来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄って質問したなら、私はそれに対してこうでも答えて置くより他はなかろう。
性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。
(太宰治『御伽草子』「瘤取り」)>
「日常倫理」は意味不明。「不正」ではなくて、どんな「事件」があったのか? 「教訓」は、誰にでも簡単に「抽出し」てやれる。〈空気を読め〉だね。空気の読めない作者は、そのことを隠蔽するために、「ややこしい事」になるように仕組んだわけだ。
「短気」は無礼。語り手は「こう」以外の感想を「読者」に抱かせまいとしている。
「性格の悲喜劇」や「人間生活の底」や「問題が流れ」は意味不明。
<ある人物の性格や内面的な特性を重視し、それによって展開される劇的事件を表現する戯曲。シェークスピアの「ハムレット」、モリエールの「守銭奴」などはその代表的な例。
(『日本国語大辞典』「性格劇」)>
『ハムレット』は悲劇。『守銭奴』は喜劇。
<20世紀にいたって、神のような絶対的価値が抱懐したために多様な価値観が共存し、個人の矮小性が強調されるという状況のなかで、悲劇の成立の可能性が問われはじめた。この問いに対し肯定的な答えを提出した例として、A.ミラーの『セールスマンの死』があげられる。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「悲劇」)>
太宰の「瘤取り」は「悲劇的部分と喜劇的部分とが交錯している劇」(『広辞苑』「悲喜劇」)か。あるいは「悲劇の結末が喜劇的に解決されるもの」(同)か。どちらだろう。不明。
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7350 「瘤取(こぶと)り」
7352 「阿波(あわ)踊(おど)り」
物語の初めに出て来て瘤を取られた爺Aの「近所」に「お旦那」と呼ばれる爺Bがいる。彼は爺Aの二の舞を踏む。だが、こんな要約はよろしくない。
<① 舞楽で、案摩(あんま)の舞に引き続いて、案摩を真似て舞う滑稽な舞。
② 人の後に出てそのまねをすること。また、前の人の失敗をくりかえすこと。
(『広辞苑』「二の舞」)>
爺Aは「ご自慢の阿波(あわ)踊(おど)りを踊って」いる。ただし、この「阿波(あわ)踊(おど)り」は、現在の踊りとは違う。現在の踊りは、1980年代に観光用に拵えたものだ。
<今日の阿波踊には、三味線や鳴物、まはた笛、胡弓(こきゅう)、尺八などを合奏して流す朝の「ながし」と、夜の「ぞめき」とがあるが、「ながし」のほうは衰退しつつある。「ぞめき」は「きちがいおどり」ともよばれるほど熱狂的なものである。
(『大日本大百科全書(ニッポニカ)』「阿波踊」萩原秀三郎)>
「鬼」は「低能の踊り」を踊る。爺Aは「低能」に受けるような踊りを踊った。一方、爺Bは、意識高い系の舞いを舞ったので、受けなかった。と、この要約もよろしくない。
<お旦那は、出陣の武士の如く、眼光炯々(けいけい)、口をへの字型にぎゅっと結び、いかにしても今宵(こよい)は、天晴(あっぱ)れの舞いを一さし舞い、その鬼どもを感服せしめ、もし万一、感服せずば、この鉄扇にて皆殺しにしてやろう、たかが酒くらいの愚かな鬼ども、何程の事があろうや、と鬼に踊りを見せに行くのだか、鬼退治に行くのだか、何が何やら、ひどい意気込みで鉄扇右手に、肩いからして剣山の奥深く踏み入る。このように所謂「傑作意識」にこりかたまつた人の行う芸事は、とかくまずく出来上るものである。このお爺さんの踊りも、あまりにどうも意気込みがひどすぎて、遂に完全の失敗に終った。
(太宰治『御伽草子』「瘤取り」)>
「教訓」めいたことは、ここで抽出できている。〈「何が何やら」は駄目だ。「傑作意識」を捨てよ〉だ。ただし、「傑作意識」は意味不明。これは〈虚栄心〉を隠蔽する言葉だろう。
語り手は、〈爺Bは自分の踊りを舞いと勘違いしている〉と暗示しているのではない。
<上下動を伴わずに旋回する意が「まふ」の原義、上下にとびはねる意が「をどる」の原義である。転義の「目がまふ」は「眩(ま)ふ」、「胸がをどる」は「躍る」と書くことが多いが、「眩ふ」には本来のまわる意が、「躍る」には、本来のとびはねるの意が生きている。
(『旺文社全訳古語辞典』「舞ふ」
語り手が原典とする『宇治(うじ)拾遺(しゅうい)物語』の第三話に〈踊り〉という言葉は出ていない。>
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7350 「瘤取(こぶと)り」
7353 「へんてこな形」
爺Bは、舞いを好む人の仲間にはなれない。踊りを好む人の仲間にもなれない。上位の者に好かれたいのなら、話は単純だ。ところが、彼は下位の者には崇められたいのだ。
<「舞」は古代から中世に至り、能の舞に完成され、貴族や武家階級に支持されてきたのに対し、「踊」は民衆自身が踊るのが本来の形であり、専門的でなく庶民的性格をもつ。そこに熱狂的な群のエネルギーも生まれる。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「踊 おどり」如月青子)>
「鬼」は「民衆」の究極の姿だ。
爺Bは、「とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑(ちょうしょう)せられて来た事か」といった嘘で自分を騙す。知識人は自己韜晦する。といった要約を読者にされたくなくて、語り手は四苦八苦している。
「瘤」は虚栄心の比喩だ。「瘤取(こぶと)り」の作者は、虚栄の主題を徹底的に隠蔽している。そのせいで「たいへんややこしい事になって」しまった。知識人どもは、虚栄のために失敗する人間に同情する。ただし、そうした本心を自覚したくないから、ダサいオッサンの隠蔽工作に接して陶然となる。
<実に、気の毒な結果になったものだ。お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さんは別に悪事を働いたといふわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になったというだけの事ではないか。
(太宰治『御伽草子』「瘤取り」)>
「気の毒」は皮肉? 「悪事」ではないから、爺Bは生きて帰れたんだよ。「鬼退治」の意図を「鬼」が察知したら、爺Bは殺されていたろう。『セールスマンの死』の主人公は死ぬ。一方、爺Bは死なない。だから、「瘤取り」は悲劇ではない。だが、喜劇ですらない。単に意味不明なのだ。「緊張のあまり、踊りがへんてこな形になったというだけの事」というのは、あくまで語り手による弁護であり、「鬼」の印象ではない。
「気の毒な」ダサいオッサンは、「傑作意識」を隠蔽しつつ、「傑作」をものしようと企てる。その結果、彼の作品は「へんてこな形」になってしまう。
<『瘤取(こぶと)り』はお爺さんを通して、周囲や家人に理解されぬ芸術家のかなしみを描いている。いや芸術家というより、実利に役立たぬ無用なことに心ひかれている人間、功利社会とは別次元に住んでいるアウトローの人間の心情を描いている。
(奥野武男『御伽草子』(新潮文庫)解説)>
「通して」や「理解」や「別次元」は意味不明。「アウトロー」は「鬼」だよ。
(7300終)