夏目漱石を読むという虚栄
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7200 「思想問題」
7210 国民的作家
7211 『いやいやながらの“参加”』
芸能人が政治的な発言をするのは自由だが、彼らは知識人に成り上がっているだけのことで、その発言は評価に値しない。何の専門家であれ、専門以外の事柄について発信するとき、彼らは知識人に成り下がっている。
サルトルは政治のために文学を棄てたのです。すでにずっと以前から、彼は作家であるよりも政治的人間でした。ここで、わたしも自分の立場について少し述べますが、わたしにとっては、すでに何度が述べたように、社会参加、いわゆる“アンガージュマン”は、外的要請の問題ではないのです。それゆえに、一定の条件下では、作家は筆を折らなければ“ならず”、政治の中に参加しなければ“なりません”が、あくまで内的要請によるべきです。政治的緊張のない時代にも“参加”する作家たちもいますし、政治的緊張の激しい時代にも参加しない作家たちもいます。このいずれの場合にも、肝心なのは、当の作家が作家としてだめになっても、との内的“呼びかけ”を感じたかどうかだとも言えるでしょう。事実、どんな社会であれ、自分からすすんで自分を歪め、自分を否定して、社会に喜ばれようとするような作家に、何を期待することができるのでしょうか?
もっと根本的に言うなら、一般に芸術というものは、社会において、政治の役割とは異なる、あるいは反対の役割を果たすものだということをどうして思わないのでしょうか? 社会主義リアリズムの立場、あるいは作家が作家としてだめになることに情熱や熱意をもって同意するような文学社会の立場は、それが文学は国家から独立した存在ではないことを明らかにしているものとして少なくとも教訓的ではないでしょうか? 他方、芸術は“魂の技師“ではなく、抑圧された集団の個々の表現であると仮定し、芸術家にとってその名に値する唯一の社会参加は芸術家としての参加であると述べれば、真実にいっそう近づくことになりませんか? 芸術家としての参加こそが、芸術家に可能な最も政治的な参加なのですから。
(アルベルト・モラヴィア『モラヴィア いやいやながらの“参加”』)
「内的要請」や「自分を否定して」などは意味不明。
「社会に喜ばれようとするような作家」は芸術家に擬態した知識人だ。中途半端。ただし、中途半端を主題とする表現を試みているわけではない。
第2次大戦敗戦直後、平野謙・荒正人対中野重治を中心に起こった論争。〈政治と文学〉は、戦前、プロレタリア文学運動と共産主義的革命運動とのかかわりのなかで問題として提起されていたが、錯綜した議論を経て、文学の政治への機械的な従属が主流的な見解となり、日本共産党の個々の政策の絵解きのような作品が現れるに至っていた。
(『百科事典マイペディア』「政治と文学論争」)
「絵解きのような作品」をものするのが芸術家や思想家に擬態した知識人だ。
具体的にどの作品を「絵解きのような作品」と見なすのか。そのことは、別問題。
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7200 「思想問題」
7210 国民的作家
7212 国民文学
Nは「国民的作家」(『日本歴史大辞典』「夏目漱石」)だそうだが、「国民的作家」とは何者だろう。国民文学の作家か?
しかし、それは国粋主義的な排他的民族性の表現をいうのではない。民族性のすぐれた表現は、普遍性をもち、そのまま、世界文学としても通用する。また貴族など限られた特殊の階層の要求のみでなく、国民各層の広範な欲求にこたえ、愛読されるという階級的普遍性も、国民文学の重要な条件であるといえよう。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「国民文学」)
「国粋主義」と「民族性」を並べたら、国家と民族がごっちゃになってしまう。「民族性」は「排他的」と決まっているのだろうか。「国民文学」と「世界文学」の他に、〈民族文学〉というのはないのだろうか。文学は「民族性」を際立たせる「重要な条件」のはずだ。「超国民文学としての世界文学」(『ブリタニカ』「世界文学」)となると、ジョークみたいだ。
「民族性の優れた表現は、普遍性をもち」は意味不明。「極めて普遍性のものであって、同時に極めて個性的な特異なものである」(萩原朔太郎『月に吠える』序)というのは冗談だろうが、「国民文学」も冗談だろうか。「階級的普遍性」も冗談めいている。
1951年(昭和26)から1950年代半ばにかけて作家、批評家、文学研究者を巻き込んで展開された論争。火付け役は竹内好(よしみ)で、共産主義革命を成功させた中国の文学と比較して、日本の現代文学が国民生活から遊離して狭隘(きょうあい)な文壇の枠に閉ざされていることを批評した。
(『日本歴史大事典』「国民文学論争」紅野謙介)
「共産主義革命を成功させた」主体は、中国の「国民」あるいは革命家だろう。「中国の文学」と「日本の現代文学」の比較はナンセンス。「文学」が「生活から遊離して」いない人は、ドン・キホーテの同類だろう。「狭隘(きょうあい)な文壇」のおかげで日本には「共産主義革命」が起きず、よって戦後の日本人は世界で何十番目か、つまり先進国では最低レベルの、でも、「中国」よりはかなりましな言論の自由を謳歌できているらしい。
確かに論争としては国民文学という言葉だけが独り歩きし、「国民」の内実が問われないまま政治的な課題が求められた感は否めない。しかし、文学における伝統の再評価をもたらしたことは確かで、しかも平安朝の美学に収まりきれない民衆レベルの文化や文学の発見に導き、第二次世界大戦後の文学や学問の動向に大きな影響を残したことは事実である。
(『日本歴史大事典』「国民文学論争」紅野謙介)
「言葉だけが独り歩きし」てしまうのが日本の「伝統」かもしれない。
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7200 「思想問題」
7210 国民的作家
7213 伝統と創造
「マルクス主義では、国家は、支配階級が被支配階級を支配し搾取するための権力機構とみなされる」(『マイペディア』「国家」)のだそうだ。
ところで、「国民」とは何だろう。
世界の国家をみると、単一民族から成る国家は少く(ママ)、多民族であれ、国民となれば、自分たちが1つの共通の歴史的・文化的伝統をもっているのだと信じるようにならなければ、国家としての統合を確保することはむずかしい。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「国民」)
「伝統」は「支配階級」あるいは「国民」によって捏造されたものではないのか。
伝統という用語は、明治期にトラディションという西欧語の訳語として新しく作られた用語である。トラディションという西欧語が登場したのは、1541のカルヴァンの文書をもって嚆矢とするといわれているが、これは総じて伝統概念がどのようなものであるかを示唆しているものといえよう。つまり伝統概念は、西欧の場合はルネサンス以降、日本の場合は明治維新以降、共同体的な閉じられた性格をもつ集団のなかから、それを打破する開かれた思想のにない手としての個人が登場し、共同体的な規制力が弱体化する状況が生ずるに及んで、それに対処する姿勢のもとにはじめて用いられ、あるいは創出されるにいたったものである。伝統は文化的、ないしは精神的な慣習であるから、人為的でないあらゆる領域に認められるものであるが、伝統概念の発生の事情に徴して明らかなように、それは比較的に対象化、合理化の困難な、いわば非合理主義的、情緒的な領域で問題となる。このことは伝統がその本性上、対象化、合理化を忌諱する性格のものとして成り立っているということを示している。したがって、伝統は共同体的な集団の悪しき慣習としての因襲に堕する危険性を、つねに自らのうちにはらんでいる。それゆえ、伝統の生命は対象化、合理化を目ざす運動との緊張関係のうちに見いだされるといえよう。
(『哲学事典』「伝統」)
〈伝統=反・反・伝統〉ということらしい。反対の反対は賛成。
通常、このような文化遺産は、社会が急速に変革されたり、あるいは大量に移入される異文化に遭遇するとき、二様の評価を受ける。古い文化遺産を望ましいものとする立場と、旧来の様式を陋習(ろうしゅう)とし、発展を阻害するものとして退ける立場からの評価である。前者を支持する知識人を文人literati、後者を支持する者をインテリゲンチャとよぶこともある。
(『日本百科大全書(ニッポニカ)』「伝統」口羽益生)
保守も革新も、どちらも「知識人」ということ。
(7210終)