ヒルネボウ

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(書評) 『論理ノート』(ダイヤモンド社)著者 D.Q.マキナニー 訳者 水谷淳

2025-03-10 22:02:30 | 評論

  (書評)

   『論理ノート』(ダイヤモンド社)

   著者 D.Q.マキナニー  訳者 水谷淳

 これは、私が読んだ初心者向けの論理の本のうちで、最も簡単で役に立つ本だ。

と言っても、私が論理学の本を何十冊も読んでいるわけではない。私は論理が苦手で、まともに考えられるようになりたいと思って、初心者向けの論理の本を何冊か読んできた。だが、私に合う本は、ほとんどなかった。

2023年4月28日に紹介した『ロンリのちから』(三笠書房)Book Revue NHK『ロンリのちから』制作班+野矢茂樹『ロンリのちから』(三笠書房) - ヒルネボウは例外だ。ただし、これは高校生向けなので、物足りなかった。

論理学の本には記号がよく出てくる。この本には、記号はほとんど出てこない。しかも、出てくるのは最後の方だ。だから、記号が嫌いな人でも楽に読める。

記号を操るのが得意なだけの人はインチキだ。

論理的に考えるために必要なのは、記号を操る技術ではない。記号化する技術だ。そのことを、この本は教えてくれる。

次のように決めつける人がいるかもしれません。私たちは、世界に存在する物を自分の持つ観念を通してしか知ることができないので、私たちが本当に知っているのは自分の観念だけだ、と。しかしそれは間違いです。観念は知識を得る手段であって、目的ではないのです。観念は、私たちと世界とをつなぐものです。観念が明晰であれば、そのつながりは強固になります。自分の観念を明晰にするうえで最も有効な方法は、その観念を通して世界を見つめることなのです。

(同書「第1部 論理的になろう」3 観念とその対象を見つめよう)

「観念」は道具だ。眼鏡が合わなければ、よく見えない。合わない眼鏡を使うぐらいなら、近視でも裸眼の方がましだろう。だから、多くの人は「観念」を重要視しない。反対に、「観念」を信念に作り替えてしまい、頑固になる人もいる。

「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏(まと)め上げた考(ママ)を無暗に人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉(ことごと)くあなたの前に(ママ)物語らなければならないとなると、それは又別問題になります」

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」三十一)

ナンセンス。

これは「あなた」から「先生」と呼ばれている「貧弱な思想家」すなわちインチキおじさんの発言だ。これを読んで〈ナンセンス!〉と思わない人に対して私にできることは、何もない。彼らは〈自分は文豪漱石の理解者だ〉という虚栄の牢獄の囚人なのだ。

夏目をインチキおじさんと思わない人は、インチキおじさんだ。インチキと会話すると、こっちまでインチキになってしまう。だから、避ける。

ところで、インチキおばさんも、たまにはいるけど、インチキなのは、大抵、おじさんなんだよな。で、大抵のおじさんはインチキなんだな。なぜだろうね。

GOTO〔『夏目漱石を読むという虚栄』4441 「思想とか意見とかいうもの」夏目漱石を読むという虚栄  4440 - ヒルネボウ/7320 「インチキおじさん」夏目漱石を読むという虚栄 7320 - ヒルネボウ

(終)


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