師が亡くなった。
といっても不肖の弟子だったぼくに、彼のことを師と呼ぶ資格があるかどうかに少々の疑念がないわけではないが、そのような想いを別にすると、赤の他人の目からは、どこからどう見ても師匠だったはずだ。
「よく叱られたねえ」
葬儀の席で隣りに座った三十年来の鼓友はそう言うが、思い起こしてみても、ぼくにはそのような記憶がない。ついでに、技術的な指導に関して記憶をたどってみたが、片手の指で余るほどしか思い出せない。
たぶんぼくの態度が彼をしてそうさせていたのだろう。
人と人との関係は鏡のようなもの。相手は自分を映す鏡であり、相手にとっての自分もまた同様だ。
師弟関係というものは、弟子となる者が師に対して「先生はえらい」と思い定め決意しなければ、真の意味で成立しないものだ。
それにもかかわらず、ぼくには、彼のみならず誰に対しても、「教えを乞う」とか「信じてついていく」という、弟子にとって必要とされる純な心持ちがなく、多くの場合で懐疑心を底に抱き人と接するぼくには、そもそも誰かの弟子となる素質がないのかもしれない。
そういう意味から言えば、やはり師と呼ぶ資格はないのかもしれないが、それでもなお、まちがいなく師であると深く認識したのは、これもまた隣に座る妻の言葉からだった。
「わたしたちの太鼓にかかわることすべては先生がつなげてくれたものだからね」
なるほど。まちがいない。幾人かの顔や幾つかの出来事が思い起こされ、それらすべての「つながり」や「縁」の中心に存在していたのが彼だったことにあらためて気づいた。
つづけて妻が言う。
「太鼓に出会えたこと、太鼓を通じていろんな人と出会えたこと、今も太鼓を叩いていること、孫と太鼓が叩けること、太鼓にかかわるすべてを先生に感謝したい」
そうか、ハブだったのだ。
IT用語としてのHUBは、ネットワークやシステムにおいて情報やデータの集約や配信を行う中心部分を指す。複数の機器や端末を集約する装置であり、通信やデータの受け渡しを円滑に行う役割をもっているものだ。もともとは車輪やプロペラの中心部のことをそう言い、そこから転じて、ものごとの中心や中核、あるいはネットワークの結節点として機能する存在をハブと呼ぶ。
人や情報、心や技術が、そこを経由して分散していく場所として彼の存在があったことに思いが至り、やはり師以外の何者でもなかったのだと思った。感謝。合掌。