答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

キレる老人

2024年09月21日 | ちょっと考えたこと
きのう受講した、とある講習会でのことです。
講習会といっても、業界で通常よくあるような技術者もしくは技能者を相手としたそれではなく、ある「業」の登録資格にからむものであったがゆえに、受講者の年齢層も比較的高いように見受けられました。
おそらく、4時間という限られた時間内で定められた内容のすべてを伝えるように命ぜられているのでしょう、おまけにそのあとには試験がついているときているものですから、講師はおそろしく早口で、そのなかに重要なポイント(つまり試験に出る)の伝達が入るのですから、「聞き逃すまいぞ」とばかりの受講生たちの真剣さが会場に充満していました。

さてそれは、始まって1時間も経っていたでしょうか。

「ここ大事ですからね。チェックをしておいてください」
講師が言いました。
間髪を入れず会場の静寂を打ち破るような声が響きました。

「どこや!わからん!」
隣りから発せられたその声は、あきらかな怒気を含んでいます。

刹那、会場に「なんなんだ?」という緊張ともなんともつかない空気が流れます。
ぼくは無言で、彼が見つけられない「大事なところ」をシャープペンシルの頭で指し示してあげました。
一瞬、話を止めて場内を見渡した講師も、何事もなかったかのように、また早口でつづけます。
それからも、時折り舌打ちのようなものをしたり、また何度かため息をついたりと、ぼくと同年配か、もしくは歳上と思しき男性のイラつきは、しばらくつづいたのですが、そのうちあきらめたのでしょう、他人がそれと感じられるようなリアクションはなくなってしまいました。

年寄りになるとキレやすくなる、とは巷間よく用いられる表現です。ぼくの周りでもその実例は掃いて捨てるほどあります。
一方で、歳をとると穏やかになるとも言います。これもまた、あの人にあの人、と指を折ってたくさんの例をあげることができますから、どちらが年寄りの傾向として真なのかと、どちらか一方に軍配をあげることはできません。少なくともぼくには、人生いろいろ、老若男女の別なく人それぞれ、という曖昧な答えしか浮かんできません。


その夜、学生時代の同級、後輩数人と四十数年ぶりに会い杯をかたむけました。
なかのひとりが言います。

「みんな変わらんな。外見は変わったけど雰囲気はおなじや」

「そうか?」
と疑念をはさんだのはぼくでした。

「たしかにオマエラはあの頃といっしょやけど、オレ、こんなニコニコしてなかったやろ?」

「そういやそうやな」
という同意のあと、つづいた言葉は、じつに的を射たものでした。

「いっつも世の中を斜めから見てなあ。むつかしい顔して屁理屈を言うて」

「うん、たしかに」

内心では、「屁」のような「理屈」は言ってないぞと思いつつも、苦笑しながら同意をするしかないぼくでした。
そのあと話題は、あっちへ飛んだりこっちへ戻ったりしながら時が流れていったのですが、そのうち、三十数年前に起こったある殺人事件の被害者の話題へと移ったのは、その場にいた皆が、学生時代にその男性とけっこう濃密な関わりがあり、同様に否定的な感情を有していたことを考えれば、必然的だったのでしょう。

「あの事件のニュースを聞いてな。オレ、オマエの顔を思い浮かべてん」
同級生が真面目な顔で言います。

「あの加害者が、ひょっとしたらオマエやっても不思議やないなと思うてな」

「なんでよ」

「オマエ、いつか殺ったろと思てたやろ?」

「そんなこと思うたこともないわ」

「いや、ゼッタイ思てたはずや。なあ」

横にいた後輩が同意します。
「うん、ゼッタイ思てた。そんな顔してましたもん」

言っておきますが、六十有余年生きてきて、数え切れないほど多くの人間を嫌いになりはしましたが、殺めてやろうと決意するほど人を憎んだことはありません。
とはいえ、他人にそう思わせるような尖った部分が、当時のぼくになかったかといえば、即座にそれを否定することはできません。
そう考えると、思わず同意の言葉が口をついて出てしまいました。

「そうやな、かもしれんわ」

「そうやろ、一歩まちがえたら殺ってた。ゼッタイそうやったはずやわ。なあ」
「うん、そうやゼッタイ」

「ちゃうわ。言うてみただけや(笑)」

(一同爆笑)


彼らと共にすごした日々から、五十年になろうかという歳月が経ちました。
ぼくはといえば、「今のところ」という括弧つきではあるものの、キレやすい年寄りにはならなかったようです。もちろん、何もせずに「丸く」なったわけではありません。自然に齢が重なった結果として「丸く」なった人は大勢いるのでしょうが、少なくともぼくの場合は、相当に意識的ではありました。
それについて自己分析をしてみれば、「他者との関係性」や「自責と他責」あるいは「開くか閉じるか」などなどのキーワードを用いて解き明かしていくことができないことはないのでしょうが、自らでそれを行うのは、ぼくの感覚では野暮でしかありません。
しかも、そうなるためのアプローチにしても、紆余曲折のロングアンドワインディングロード、なんなら今もその途上にあります。であれば、あしたのぼくが「キレる老人」ではないという保証はどこにもありません。
さて、あしたはいったいどっちなのでしょうか。
ただ今のところは、乞うご期待、と言うしかないのです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〈私的〉建設DX〈考〉その16 ~揺り戻し~

2024年09月18日 | 〈私的〉建設DX〈考〉
YAHOOニュース 9/17 6:44配信より
******
【シリコンバレー共同】米IT大手アマゾン・コムは16日、従業員に原則として週5日、職場に出勤するよう要請したことを明らかにした。来年1月からこのルールの適用を開始する。アンディ・ジャシー最高経営責任者(CEO)は従業員宛ての書簡で「企業文化と社内チームを強化するため」と狙いを説明した。
******

Amazonでは今、少なくとも週3日の出勤が義務づけられているのだといいます。それに2日をプラスする、つまり、コロナ禍を契機として全世界にリモートワークが広がる以前の状態に戻すということ。しかも、職場に各自が作業をするためのデスクを割り当てる制度も復活させるというのですから、

「へぇーあのアマゾンがねえ」
と思わず二度読みをしたことでした。

同じく共同通信が、4月20日に配信した記事には、それについてのわが国の状況が記されています。

******
国土交通省の2023年度調査によると、直近1年間に自宅などでテレワークをした会社員、公務員らの割合は16.1%で前年度から2.7ポイント減った。新型コロナウイルスの感染対策として普及したが、同省は「揺り戻しが見られる」と説明。週1~2日だけテレワークする人の割合が増えており、出社と併用した働き方が広がりつつあるようだ。
******

なるほど、そうなって然るべきだろうなとは思います。
ぼくのような何かにつけてサボり癖のある人間から言わせれば、「仕事場」としてのオフィスの存在は、「サボりづらい」という一点だけをとっても、こと仕事をこなすということにおいて、その存在価値は大きいからです。
たしかに自身が新型コロナウイルスに罹患し家に隔離されたときや、ここ数年で幾度かあった入院の際には、「週の半分ぐらいはリモートワークでもよいのではないか」と感じたのも事実ですし(もちろん仕事の内容によりますが)、そう思っている人も少なくはないはずです。
しかし、やはりF2Fに勝るものはない。結局はそこに落ち着いてしまうのです。ことは企業や官庁、団体などといった組織のなかだけの話ではありません。それぞれの、取引先あるいは関係者との協議打ち合わせにおいても、オンラインよりも対面コミュニケーションの方が断然強みを発揮します。ですから、この「揺り戻し」には納得できるところが大なのです。

だからといってその動きがさらに加速増大していくと判断するのは早計でしょう。実際Amazonも、「健康上の問題や育児といった個別事情には引き続き配慮する」と表明しているようですし、それは、従業員のことを考えればまことに適切な姿勢だと言えます。

そして、ここで忘れてはならないのが、対面コミュニケーションが抱えるわずらわしさです。F2Fは、その本質に面倒くささを含んでいます。だからこそ少なくない人たちがデジタル(オンライン)を支持し、その潮流に乗っかった。たしかにコロナ禍という契機がなければ、これほど急速な進展は見られなかったのでしょうが、だとしても、多くの人たちがそれを選択した理由のひとつには、「わずらわしさからの解放」があったのではないかとぼくは思っています。

とはいえそれは、まさに表裏一体。対面コミュニケーションの光と陰でしょう。裏がない表はなく、陰があるからこそ光が存在する。ビジネスにおけるコミュニケーションの本質が「協働」であるとすれば、それは、F2Fを基本とするのが自然の流れだとぼくは考えます。

日本社会における「はたらき方」がこれからどうなっていくのか、残念ながら、ぼくにはそんな先のことはわかりません。それを確実に予想できるほどの知見もありません。ただ、今もそうですし、これからも、この「揺り戻し」はつづいていくのだろうとは思います。

さて、それを踏まえてここからは、「ぼくとぼくの環境」であるこの業界の構成員たちへ向けて話を進めます。このテキストを『〈私的〉建設DX〈考〉』のひとつに加えたのは、そういった状況下での身の処し方が、その先を大きく左右してくると考えるからです。
一度ある方向へ大きく変動したものが、また元の方向に戻ること。それが「揺り戻し」です。そこにおいて、「揺り戻し」の効能や効果や意味を理解し、実感できるのは、いったん「揺れた」人間(組織)だけです。
「まったく揺れずにいた」、あるいは「ほとんど揺れずにいた」、また嫌々渋々「揺れた」はしたけれど、それが何を生じるか、それによって何が生み出されるかを、自らの頭脳と身体を使って考え実行しようとしなかった人や組織には、「揺れた」ことの効果も、「戻ってきた」場所がもつ意義も、体感として理解することができません。
そして、そういう人にかぎって言うことは決まっています。

「ほらね」

デジタル(その代表のひとつとしてのオンライン)に対する違和感は、齢を重ね、経験を積み重ねた人間なら、程度の差こそあっても誰しもがもっているものでしょう。バリバリのデジタル推進派と目されているぼくだとて、その例外ではありません。いや、考えれば考えるほど、実践すればするほど、その違和感が増大していくとさえ言ってもよい。それがぼくの現実です。

しかしそれは、「揺れない」という選択をする理由にはなりません。むしろ、だからこそ「揺れてみる」をチョイスするのです。言わずもがなのことですが、ぼくたちの「今」は「デジタル」で満ち溢れています。会社のみならず、家庭も社会も、もはやデジタルがなければ成り立っていくことすらできません。そう、ぼくたちは、そこに居ながらにして「揺れている」のです。
そこにおいて「揺れようとしない」態度は、自らへの欺瞞に他なりません。それは、「揺れようとしない」ことによって、自分自身を「揺れない」存在だと欺き、結果として自らを安心させているにすぎないからです。

だからといって、皆が皆、能動的に「揺れる」ことができるかといえば、それは無理筋と言うものでしょう。大抵の場合のそれは、受動から始まります。多くの人は、それに対してまず受け身です。
そもそも人の世は、受け身で何かを感じ、その受動を起点として何かが動きます。オギャーと生まれ落ちたのを皮切りとして、人が置かれている状況や、そこから始まる思考も行為も、じつはそのほとんどがリアクションなのです。
しかし、問題は起点にはありません。その受動をスタートラインとして、いかに能動的に「揺れてみる」かどうか。それがそのまま進むにせよ、元に戻るにせよ、その選択や行動を価値があるものにするかどうかは、一人ひとりの自らのなかにあるのです。

揺れて戻ってまた揺れて・・・
いずれにしても、揺れっぱなしになることも、元に戻ったままとなることもありません。

それが建設DXへのプロセスなのだと言い切ってしまえば、そりゃあんたムチャクチャでござりますがな、などという失笑が聞こえてきそうではあるのですが、DXだとてその埒外に存在し得るはずはありません。であれば、「揺れてみる」しかないのです。今という時代を公共建設工事という業界の構成員として生き抜いてゆこうとするならば。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発気揚々

2024年09月16日 | ちょっと考えたこと
♪これがネ たまるかネ
よんべの夢に ねーとチャッチャッ
好きなあのこの手をひいて
おんしゃなんなら
おらシバテンよ
おんちゃん相撲とろ とろうチヤ チャッチャッ
はっけよいよい はっけよいよい
はっけよいよい はっけよいよい
ソレのこったのこった まだまだのこった♪

「しばてん踊り」の一節です。
シバテンとは高知県や徳島県に伝わるカッパのような姿形をした妖怪のことで、全身が毛深く、背は子どものように低いが怪力の持ち主です。だからでしょうか、その最大の特徴はといえば、人間を見ると相撲をとろうとすること。
「おんしゃなんなら(オマエはなに?)」という問いかけに対し、「おらシバテンよ」と名乗り、間髪を入れず「おんちゃん(おじさん)相撲とろ」と挑んでくる上記の歌詞は、まさにその様子をあらわしたところです。

といっても、土佐に古くから伝わる妖怪シバテンの話をしようというのではありません。話題の対象は相撲です。
「しばてん踊り」にも歌われているように、「はっけよい」と「のこったのこった」は、それを耳にした多くの人が、相撲をとるという行為を想像する掛け声ですが、「のこった・・・」はともかく、「はっけよい」が何を意味する言葉なのか、正確に答えられる人は多くはないでしょう。
かくいうぼくも同様でした。しかも、それが何故そうなのかという疑問を抱くことすらなかったというのが正直なところです。

正しい答えは、おととい突然、テレビ画面のなかに降りてきました。






「発気揚々」

当代の式守伊之助が手にもった半紙には、墨痕あざやかにそう書かれていました。「はっきよい」と読むのだそうです。
「動きが止まったとき戦闘意識を促すという意味」なのだという解説があとにつづきました。
ナルホド。たしかにその言葉は、ちょっとばかり膠着しかけた際に行司の口から発せられます。深くうなずいたぼくはしかし、相撲とはなんの関係もない、現在のぼく自身の在りようについて考えていました。

「動きが止まったとき(はっけよいと声をかけて)戦闘意識を促す」

誰の身にも膠着や停滞は訪れます。一年三百六十五日、常に動き回ることができる人間などいるはずはありませんし、いつも物事が自分の思うように進むこともありません。淀んだり滞ったり、足止めを食ったり停留を余儀なくされたり、流れが阻害されたまま膠着状態に陥ってしまうのもよくあることです。

そこからどうやって脱け出すか。手を差し伸べてくれた他者によって脱出に成功することもあるでしょう。しかし、人の世は相撲とはちがいます。「はっけよい」と声をかけてくれる行司は、そうそう存在するものではありませんし、たとえその掛け声があったとしても、それに上手く乗ることができるかどうかは、留まっている本人の心持ち次第です。
もっともよいのは、セルフコントロールでしょう。自分が自分のために、自分に適したモティベーションアップの方法を持ち合わせておく必要があります。

発気揚々。
そういう意味で、たまさか巡り合ったこの四文字熟語が、ぼくの胸を射抜きました。「発気」とは、心を奮い立たせて気をとりなおすこと。「揚々」とは、得意なさま、誇らしげなさま。そこからイメージするのは、心を奮い立たせて顔を上げる自分。その読みは「はっきよい」ではなく、ましてや「はっけよい」でもなく「はっきようよう」です。

誰か、ぼくにその言葉を毫を揮ってくれる奇特な人はいないかしらん。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爺と少年

2024年09月11日 | ちょっと考えたこと
夏のあいだぼくに課せられた任務のひとつに孫との川遊びがあります。
やらなければならないことは幾つもあるのですが、そのなかでも重要項目として位置づけされるものです(ちなみに誰に頼まれたわけでもないのですが)。

「爺いの出る幕ではないのでは」

とお思いの方もたくさんいるでしょうが、そこはそれ、今という時代の子どもたちが相手なれば、昔なら先輩たちの姿を目で見て覚えたようなことでも、大人がていねいに教えてやった方がよいことが多々あります。見るところ、「川で遊ぶ」というのはそのうちの一つでしょう。そう思うがゆえに自らにその任務を与え、数年が経ちます。

もちろん、相手は年々成長し、こちらは年々衰える。これが自然の理なのですから、いつまでもつづけることはできないでしょうが、ただ今のところは、まだまだ大丈夫。ということで、淵、瀬、堰に落差と、いろいろ様々に場所を変えながら、それぞれでの遊び方をレクチャーしているというわけです。

つい先日のことです。
「水切り」に励んでいた小学生兄弟ふたりのうち兄の方が、おもむろに近づいてきてこう言いました。

「石が跳ねて向こうへ飛んでいくってことは、人間も水の上を歩けるってことぜねえ?」
「ほぉ」とワンクッションを入れたぼくが、「やってみいや」と促すと、それから彼は何度も何度もトライします。

仮説を立てる→実行する。
その結果が失敗であれ成功であれ、この繰り返しから人は何かを学び、この繰り返しが人を成長させます。この理に異論のある人はそうそういないでしょう。
この場合の彼が立てた仮説は、「人間は水面を歩ける」でした。そして、己の肉体を使ってそれを立証しようとします。一歩目の歩幅を変え、踏み出す角度を変え、助走をつけ、またストロークを狭く回転を速くして。
もちろん、それが不可能であることは、大の大人なら十人が十人承知していることです。家に帰ってその動画を見た彼らの母もまた、飽くことなくチャレンジする我が子に大笑いしたあと、「だいじょうぶかしらん」と心配気でした。

しかしぼくは、すぐさま否定をすることはしませんでした。なんとなれば、昔から水上歩行は少年たちの憧れだからです(不思議と少女がそれをしているのを目撃したことはありません。やはりちいさい頃から男はバカです)。


では、あらためて水上を歩く(走る)ための物理法則を考えてみましょう。
水の上を歩くには、地面のように安定した表面が必要ですが、水は液体であるため、個体のように強い反力を生じさせることができません。したがって、体重を支えるために特別な技術を必要とします。
水上をスイスイといかにも軽やかに移動する小動物、たとえばアメンボは、表面張力を利用してそれを行っていますが、その方法は軽い、しかもムチャクチャ軽いという身体的特性をもつものに限定されます。

たとえば、水上走行をすることで有名なバシリスクトカゲは、特殊な形状をした足の指で水面を叩く力を強化すると同時に、ストローク時にエアポケットをつくり、下に引っ張られる力を軽減するといったメカニズムで水の上を走ります。
ポイントは体の重力に対抗する力をどうやって発生させるかです。原理的にはかんたんです。
水の表面、あるいは水面下で足を交互に速く動かす。そうすれば体は水に沈むことがありません。では、人間にそれは可能なのでしょうか。
ある研究によると、平均的な人間が水上を走るには毎秒4回、足で水面を秒速30メートルの速さで叩く必要があるとのことです。念のため繰り返しますが「秒速」です。これは、通常の人間の足の筋肉が発揮できるパワーの約15倍に相当するそうです。ということは、素の人間は水上走行することが不可能という結論になります。

ではどうしたらよいのか。これについて、日本語では「公共科学図書館」と訳されることもある米国の科学雑誌『PLOS』で2012年に発表された研究があります。
研究者たちは、小型のフィンを足に装着した人間を、プールにハーネスで吊るし、低引力状態を再現してみたところ、地球上の10パーセントの引力であれば、すべての被験者たちが7秒以上水面上に留まっていられることを確認したそうです。
ということは・・・・そう、月です。
地球の17パーセントしか引力がない月面であれば水上走行が可能となります。


この事実、孫にはしばらく黙っておこうと思っています。
なぜならば、「仮説を立て実行する」という行為から得られた結果が失敗であれ成功であれ、その繰り返しから人は何かを学び、その繰り返しが人を成長させるからです。
いつ気づくか。それが問題ではありますが。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〈私的〉建設DX〈考〉その15 ~バランシングバー~

2024年09月10日 | 〈私的〉建設DX〈考〉
******
中島 西部邁先生がよく言っていたのは、現代というのは非常に変化が激しいので、まさにサーカスで綱渡りをしているようなものである、と。綱渡りをするときに、非常に重要なのは何かというと、あのバランシングバーである、と。あの棒というのが、死者からやってきた「伝統」とか「基準」というもので、これがあるがゆえに、細い、危なっかしい道を渡ることができる。みんな、バランシングバーには意味がないというふうに思いがちだけど、これが大切なんだと言っていたんです。
(『ええかげん論』土井善晴、中島岳志、P.160)
******

公共建設業におけるDXを考えれば考えるほど、アナログを捨ててはいけないという思いが強くなってきているぼくには、このメタファーが腑に落ちます。

そもそも、デジタルとアナログを二項対立的な図式で語るのが、甚だしく勘違いだったのかもしれません。
きのうはアナログで明日がデジタルという考え方には、基本的かつ大局的なところで賛同しますが、スポット的また局地的にはその逆、今はデジタルあしたはアナログであってもよいのではないでしょうか。いやむしろ、そういう部分がなければならないと思うのです。

大切なのは、双方のあいだを行きつ戻りつ、ちょうどよいのはどこかを探り、そしてそれを固定された不変なものとして捉えることなく、その場その時々で、適解だと思えるものを選択するということ。その判断にとって、デジタルが絶対善でアナログが絶対悪だという固定観念にもとづいた基準が、邪魔でさえあるときもあるでしょう。

などということを言ってしまうと、回りはじめたスピニング・ホイールを逆回転させることにもなりかねません。ですから、今という時代の公共建設業では、取り扱いに十分注意しなければならないのがこの考え方ではあります。

いずれにしても、今このときに渡っているのは、また、これから渡ろうとしているのは、「太く安全な道」ではありません。であれば、ゆらぎながら平衡を探り、重心を移しながら歩きつづけなければなりません。そこでは、ゆらぎすぎて落っこちてしまわないように、平衡をとる棒の存在が不可欠です。

そのバランシングの基準をどこに置くか、どこに置けば平衡が保てるのか。いずれにしても、不変で固定されたものがないのであれば、いかにデジタルテクノロジーを手法として活用するといえども、過去や先人に習うことが捨て置かれてよいというものではありません。いやむしろ、本質的な部分においては、そちらの方がより重要度が高いということも少なくないでしょう。そしてそれは、けっして時代遅れの考え方などではないはずだと、ぼくは思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする