答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

ギャップ

2024年12月18日 | ちょっと考えたこと
視力がよい人は老眼になるのが早いという。たしかにぼくにも覚えがある。
四十代の前半から老眼鏡のお世話になるようになったぼくは、視力検査というものに初めて出会ってから数十年間ずっと、両眼ともに2.0の視力をゆずらなかった。
なのでぼくには、世の中が「ぼんやりと視える」という体験がほぼない。したがって、それがふつーだという近視の人たちの感覚がよくわからない。
だからだろうか、白黒はっきりつけたがる性分なのは、とも思うのだが真偽の程は定かではないし、今日の主旨はそこではないので、いずれまた、ということで前へ進む。

思うに、齢を重ね老境に達するということは、出来ていたことが出来なくなったと同義である。
いや、身体機能的にはたしかにそうにはちがいないが、精神の上では、必ずしもそう断言することはできない。亀の甲より年の功。経験を重ね歳をとったからこそ出来なかったことが出来るようになったというのはよくあることだ。
しかし、それはそれとして脇に置いとくと、やはり、加齢もある一定の線を越えてしまうと、どんどんと出来ていたことが出来なくなってしまうのは否定しようがない現実だ。

酒しかり、運動しかり。
外部機能だけではない。
記憶力しかり理解力しかり。
酒が呑めなくなった。筋力や持久力が衰えた。
人の名前や使いたい言葉がすぐ出てこない。
デジタル機器やアプリの操作が理解しにくい。
枚挙にいとまがない。

それが、自分が得意だったことならなおさらだ。
視力がよかったから、記憶力がよかったから。だからより一層、今の自分に幻滅する。
しかし、考えてみればその感覚には、少しばかりの思い違いがあるのかもしれない。
「出来た」が「出来なくなった」は、多くの場合で、過去の自分と今の自分という比較にしかすぎないからだ。
たしかにそれは、悲しいことにはちがいない。
しかしそれが、自分で思うほど悲観するようなことかどうかは、自分比較で一概に判断するべきものではないだろう。

かつてのぼくは視えすぎていた。
かつてのぼくは覚えすぎていた。
それがそうではなくなっただけのことで、世間一般の相場でいえば、それほど劣ったレベルではない。

そんなふうに自分で自分に言い聞かせたらいいのではないかと、ふと思った。
ダメだろうか。ダメだろうなぁ、やっぱり。



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漢字か平仮名か

2024年12月12日 | ちょっと考えたこと
「現地の人のしこうに合わせて」
というそのテロップが画面下に流れたのはNHKの朝のニュース。東南アジアのコーヒー事情に関する報道だった。

いくらなんでも「しこう」はないのではないか。
と感じたぼくは、皆さんご存知のように、「わかりやすく」を標榜し、また花森安治に習い「ひらがな」で書くことを自らに課してきた者だ(近ごろでは宗旨を少しだけ変えたが、それについてはまた後日)。

山本夏彦は、その花森の「実用文十訓」を紹介した『私の岩波物語』でこう書いている。

******
字句を吟味して、耳で聞いてわからぬ言葉は使うまいとした。極力平がなで書いた。平がなばかりだと読みにくくなる。要所要所に漢字がほしい。そのあんばいに苦心した。だから誌面はかな沢山でまっ白でありながら読みやすいのは苦心の存するところで、ぱっと誌面をひろげてながめて感心したことがある。
******

花森に習おうとしたぼくもまた、これにはずいぶん苦心した。その挙げ句、これだ、という法則やルールを確立させるには至らなかったのだから、エラそうなことを言えた義理ではない。
しかし、そのぼくでさえ「しこう」には呆れてものが言えなかった。いや、そのぼくだからこそ、だろうか。

しこう。
思いつくままに列挙しても、思考、志向、指向、嗜好、試行、施行、歯垢、紫香。そこから、何らの予備知識がなく「現地の人のしこうに合わせて」という文面に合わせたものをチョイスすると「思考、志向、指向、嗜好」の4つ。
「歯垢」という字も無理やり合わせられないではない(現地の人の歯垢)が、まさかそれではあるまいから、4つに絞ってさしつかえはないだろう。
現地の人の思考、現地の人の志向、現地の人の指向、現地の人の嗜好。
と、そのような面倒くさい手順を経ずとも、ニュースを見ていたぼくには、それに当てはまる漢字が「嗜好」だということがわかっている。

しつこいようだが繰り返す。
「現地の人のしこうに合わせて」

そこは「嗜好」しかないだろうが。
呆れ返りつつ心のなかでツッコミを入れた。
たしかに、一般的な小学生なら読めないかもしれない。
それが大人ならどうだろうか。ぼくは読めると信じたいが、そうでもないかもしれない。しかし、書く側が、たとえこれは読めないかもしれないと思っても使わなければならない漢字がある。この場合は確実にそれに当てはまる。

たしかにむずかしい問題ではある。キーを叩き、あるいは画面をフリックして出てきた変換候補にもとづいて漢字化するだけなら、何らの困難もともなわないが、少なくとも、伝えようとする側のことを考え、一つひとつを漢字にするか平仮名か、はたまたカタカナで表現するかを思案しながら文章を書くとなると、そのチョイスはかんたんではない(しかも想定するその相手が不特定多数であればなおさらだ)。

しかし、その困難さを身をもって体験してきたからこそ思う。
漢字か平仮名か、はたまたカタカナか。その思案において、「読み書きするのが難しいから」という選択理由は必ずしも正しくはない。たとえ、その字面からは読み取れなかったとしても、前後の文脈から判断すればなんとなくわかる程度なら、漢字を使うべきだ。それが、二字以上の漢字が結合して一語をなすもの、つまり熟語なら、原則として平仮名にするべきではない。

すると、ひるがえってオレはどうなんだ?という自問が浮かんできた。
いやぼくにかぎって決してそれは・・・・ない、と思う・・・・たぶん。
いやいや、ここはけんきょに、もってたざんのいしとすべし。

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あんどぅりどぅ

2024年12月11日 | ちょっと考えたこと
「あゝ元へは戻せないんだよなぁ」

スマートフォンやタブレットを使っていると毎日のように思う。
長いあいだPCを日常的に使うなかで、アンドゥ(元へ戻す)とリドゥ(やり直す)が至極当たり前のこととして脳内に染みついてしまったぼくには、それができないことに対しての違和感がハンパない。
それが紙ならば、はなから期待をしていないので、文字を消したり書き直したりすることに違和感はないのだが、やはりもどかしさは残る。

「あゝ元へ戻すことができたらいいのになぁ」
いやはや困ったものだ。

あえて言うまでもないが、現実世界にはアンドゥもリドゥもない。吐いた言葉は取り消せないし、実行済みの行動はやり直すことはできても、なかったことにすることはできない。

「生きる」ということは不可逆だ。不可逆を連続して生きているのが人間だとも言える。それゆえに選択や判断がむずかしいものとなるのだし、失敗を恐れ不安感も生じる。だからこそ「生きる」というのは辛いが、その一方でおもしろくもある。したがって、すべてが元へ戻せたらよいのになというぼくの夢想が実現したところで、それはつまらないこと甚だしいものにはちがいない。

アンドゥ・リドゥの普及は、パーソナルコンピュータの一般化と軌を一にしている。一般大衆へのPCの普及においてその機能は、かなり重要な位置を占めていたのではないだろうか。
思い起こしてみてほしい。かつて、ぼくを含めた大多数の人にとって初めてのパソコンは大なり小なり不安感の対象であり、その操作は試行錯誤の連続だったはずだ。そんななかで、アンドゥ・リドゥ機能は、入力ミスや誤操作が、やり直し可能で修正できるものだという安心感をユーザーに与えた。そしてそれがパソコンの敷居を下げ、多くの人々を引き込む要因となった。というのが、少々大げさかもしれないがぼくの見立てだ。

それだけなら、便利な機能が仕事効率化に役立つというデジタル化のよい見本だ。しかし、いつしかぼくはそれに依存してしまっていたようだ。
だから毎日のように思う。

「あゝ元へは戻せないんだよなぁ」

ひょっとしたら・・
と少しばかり怖ろしい推測が脳裏に浮かんだ。
それによって、元々がスピード重視のぼくの仕事スタイルは、「元に戻すことができる」というPC上の仕事の影響を受け、いっそう拍車がかかっていったのではないか。たとえばアンドゥがない環境では、まちがいやミスを防ぐための慎重さや、元へ戻せない行動に対する覚悟が必要な場面が多くあるのに、どこかでそれを軽視する行動パターンが身についていたかもしれない。
いやいや、たかだかパソコンの一機能にそれほど多大な責任を負わせるのは、かなり大げさな推論であり、責任逃れも甚だしい。

と、ふたたび現実世界のことを思う。
現実にはアンドゥボタンもリドゥボタンも存在しない。ましてやそのショートカットキーであるCtrl+ZもCtrl+Yなどは、存在する余地もない。元へは戻せない、あるいは、やり直せないことにこそ本質があり、その現実世界の不可逆性があるからこそ、言動の一つひとつに意味が宿る。

あゝそれなのにそれなのに。いちいち事あるごとに「元へは戻せないんだよなぁ」と嘆いているぼくの、なんとだらしのないことよ。
だから言う。自分自身に対して。パソコンは捨てるな。しかし、紙をもて、ペンをとれ。脳はデジタル化へまっしぐらに向かって進んでいようと、いや、だからこそ。せめてこの身と心だけは。目指すは、デジタル化によるトランスフォーメーションならぬ、デジタルとアナログのハイブリッドによるメタモルフォーゼだ。

ということで来る2025年からは、たるんだ己に喝を入れ、身と心とを引き締めるため、およそ8年ぶりに、能率手帳を復活させようと企んでいる。そんな些細なことでは、トランスフォーメーションもメタモルフォーゼも実現しないのだけれど、とりあえず。

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みんな夢のなか

2024年12月10日 | ちょっと考えたこと
夢を見た。
ブログを書いている夢をだ。
いや正しくは、書かなければならないと右往左往しあれこれを思い悩む夢をだ。

ずっと見た。
といっても、ぼくが「ずっと」と感じているだけで、科学的にはそうではないのだろうが、夜中に2度起きて、そのたびにつづきを見たのだから、感覚的には夜通し「ずっと」だ。

どのような夢だったのか。
きのうアレを書いたから今日はそのつづき。他にもコレもあるしソレもあるし、どのような順番でどういった切り口で、どう構成するか。そのことについて悩み、喧々諤々と議論をしている。
しかもそれは、ココについてなのかアッチ(現場情報)のことなのか。ネタや内容がクロスオーバーしていてよくわからない。
そんな夢だ。

その対話の相手は、他ならぬぼく自身だ。
夢を見ている当事者としてのぼくが、夢のなかの登場人物としてのぼくに話しかけている。
そのぼくもこのぼくも、すべてがぼくの脳内にしか存在していない。
ということは、ぼくがぼくのアタマのなかで右往左往しながら思い悩んでいるにすぎない。

といっても、ご多分にもれず、目覚めたあとにはその大半が忘却の彼方へと行ってしまっている。
惜しくはない。どうせ夢なのだもの。
 
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方言とAI

2024年12月06日 | オヤジの生成AI修業
中岡迂山記念全国書展にぼくがかかわって十数年が経つ。
「全国」という名を冠した展示会であるから、各地から応募があって、入賞者も県内の人ではない場合が多いこともある。
そして、表彰式のあとには懇親の宴がもよおされ、遠来の方々をもてなすのもぼくの役目のひとつだ。
今年のそれは先月末にあった。
東京から来た一団のひとりであった男性がにこやかな表情で言う。
「いや~地元の言葉がいいですね~」

「出てますか?」
ぼくが不審げに問うたのには理由がある。
今どきの田舎者は方言を使わないからだ。
それがぼくより、そう10歳ほども年長ならばいざ知らず、昭和30年代前半生まれであるぼくたちの年代でさえ、意識をしさえすれば日本全国で共通するふつーっぽい話し方はできる。
いわゆる標準語をしゃべるという意味ではない。方言や訛りを極力出さずに会話をすることができるという意味で、ふつーっぽい話し方ができる。

なにもあえてそうする必要はないのだろうが、標準語を是とする国語教育と、テレビを代表とするメディアのせいで、相手が標準語話者だとわかると、知らず知らずのうちに方言や訛りを抑える話し方を採用してしまう人は多い。
そして、それはある種のサービス精神や相手への思いやりから来るのかもしれない。相手に届きやすいように、伝わりやすいように、ふつーっぽい話し方を採用するわけだ。
それは、なにもここだけの話ではないだろう。日本全国どこにでも起こっている現象であるはずだ。

だからぼくは「出てますか?」と問うた。
ことわっておくが、別にわるい気はしていない。むしろ、どちらかといえば機嫌よく訊ねている。

答えは間髪を入れずに返ってきた。

「出てますよ」
「そうか、そうですよね、出ないはずがない」
今度はさらにうれしげだったはずだ。

なんとなればぼくには、忸怩たる思いがあるからだ。
できればバリバリの方言を駆使してコミュニケーションをとりたい。しかし、標準語話者と相対したときにぼくの口から発せられるのは、中途半端な関西訛りの標準語もどきでしかない。故郷を離れて以来、関西、関東、東北と居を変え、日本全国の人たちと付き合ってきた過去がそうさせているという側面もあるのだから仕方がないのだが、なんといっても今のぼくは、まごうことなき高知のひとだ。であれば・・・、むしろ、きちんとした土佐弁をもって相対するのが、本当の意味でサービス精神や思いやりがあるというものだろう。

唐突だが、LINE WORKS AiNote というLINEベースのAI議事録自動作成ツールをご存知だろうか。ベータ版ですでに利用ユーザーが90万人を超え、11月下旬に正式リリースされたものだ。
LINE WORKS ヘルプセンターにある「AiNoteでできること」から、その機能について書かれた文章を引用してみる。

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#会議の内容を記録
ブラウザ版、モバイル版アプリで、いつでもどこでも便利に会議内容を録音および管理できます。
#精度の高い文字起こし
AI技術で様々な言語の音声を精度高く認識し、会議内容をテキストに変換します。日本語、英語、韓国語、中国語(簡体、繁体)に対応しています。 
#カスタマイズに特化したAI認識 
社内でチーム、メンバーとよく使う固有名詞や専門用語を「よく使う単語」に登録することで、カスタマイズされたAIモデルが利用できます。。
#主要内容の一覧
ブックマーク、ハイライト、メモで主要内容をスピディーに記録し、まとめて確認できます。
#会議内容の共有を簡単に!
ノート共有リンクを作成してメンバーに会議内容を共有できます。
共有リンクは外部からアクセスできず、社内メンバーのみアクセスできます。パスワードの設定や、アクセスできるメンバーを直接指定できます。
******

ぼくがこれを知ったのは先月下旬、正式リリースの直後で、知人のSNSがその情報源だった。
「ほぉ、これはよさげだな」という直観にもとづき、さっそく3つほどの会議で使ってみると、たしかに、その文字起こしと音声認識の精度に驚いた。

ただ、そこに参加しているのは、いずれも土佐弁話者だ。しかも、地元民ばかりを相手にしているのだから、上に記したような事象、すなわち相手を斟酌して、ふつーっぽい話し方をするなどということが起こる余地はない。

したがって、ところどころに意味不明な箇所が散見された。
いかに現代風に、よく言えばソフィストケイテッド、あるいは有り体に申さば軟弱化したとはいえ、土佐弁あるいは土佐訛りを正確に捉えることができるAIは存在しないと見える。

それにしても・・・と、AIの優秀さに舌をまきながら、文字起こしを修正。ChatGPTに議事録としてまとめさせたあと、ふと思いつく。
もしかして、これは土佐弁を理解できないのではなく、読み取り精度の問題なのではないか。これが標準語話者だったらどうなのだろう。
脳裏に浮かんだのは、何ヶ月か前に聴いたある講習だ。ちょうどよいことに、約60分のその講義は録音をしてある。しかもそのスピーカーは、れっきとした首都圏在住の人で、上手い具合に訛りもない。

結果は、ほとんどエラーやミステイクのない見事なものだった。
つまり、LINE WORKS AiNote は、標準語でしゃべる人たちを対象とした場合、驚くほどの高精度で文字起こしをしてくれるスゴ腕のアプリケーションだということがわかった。

しかしその一方で、方言話者が相手だと、その精度はかなり落ち、それを修正するために手間がかかり効率がわるくなる。ならばどうするか。いやいや、考えてもムダなことだと首を振ったぼくは、最新のAIがついてこれないという事実に、少しばかりうれしくなっていた。

非効率上等、方言話者万歳、AIがついてこれない話し方だからこそ存在価値がある、ついてきたけりゃソッチがついてこい、てなもんである。
と言いつつも、録音されているとわかれば、ふつーっぽいしゃべり方になっていたらゴメンねとアタマを掻くしかないのだけれど。

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