答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

心変わり

2024年09月09日 | ちょっと考えたこと
そのメッセージが届いたのは4年前の夏の夜でした。
届け主は14歳。中学2年生です。
インスタグラムメッセージ上での長いチャットをかいつまみ、最重要事項だけピックアップすると、「高校を卒業したら礒部組に入りたい」と、そういう内容です。

「待ってます」

と返したぼくも、さすがにそのことをずっと覚えておけるはずはなく、いつしか忘却の彼方へと消え去っていました。

突然思い出したのは数日前です。
あの子は今、何年生だ?
足し算をすればすぐにわかることですが、念のため指を折って数えてみると、ちょうど高校3年生です。
さっそく連絡をとってみました。

「進路は決めましたか?」

しごくあっさりと、県外の建設会社に就職する旨の返事がありました。

「がんばりや」

と返したぼくはもちろん、彼の心変わりを責める気はありません。
なんとなれば、「歳歳年年人同じからず」なのですし、まして、4年という絶対値は同じでも、ぼくの4年が67分の4なのに対し、彼のそれは18分の4。その比は4倍近くにもなるのですから、実感としての年月は、ぼくの想像がおよばないほど長いでしょう。そう考えれば、「変わった」としてもなんら不思議はありません。

と、そうやって自分で自分をなぐさめながらも、本音の部分では、けっこう悲しかったりするぼくなのですけれど。

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プロだぜ俺は

2024年09月05日 | ちょっと考えたこと
渦中の兵庫県知事が、予約制夕食を当日に取りたいと言い出し、断られたあげくに激怒してこう言ったというニュースが全国を駆けめぐりました。

「オレは知事だぞ」

真偽のほどは定かではありませんが、本当だとしたら、それはもうタチの悪い冗談としか受け取れないソレを指して、ある芸人が「そんな言葉は人生で一回も使わない」とコメントしたとか。
「そうでもないぞ」
とぼくは思います。その手の言葉や態度を何度か見聞きしたことがあるからです。たとえば

「オレは社長だぞ」

すぐに幾人かの顔が思い浮かびました。
その他、権力をもつ人が言いがちなのがその言葉

「オレは◯◯だぞ」です。

一方、ただの平社員が

「オレはひらだぞ」

と大見得を切ればそれはそれで格好がよいのですが、そんな人はそうそう存在するものではありません(と言いつつ、ぼくの親父がそうだったことを思い出しました。もっとも彼のそれは、いつも酔っぱらったうえでの言葉だったのですが)。

もちろんぼくは、そういうのが嫌な人間ですから、これから先も、冗談でもないかぎり口にすることはないでしょう。
しかし、おなじような用法でひとつだけ、かつて憧れた使い方があります。

発信者は柳ジョージ。かつて、ニューヨークの場末のライブハウスだったかで、日本から来たシンガーだと知られ、「一曲歌え」と促された彼が、"Georgia on My Mind"を歌うと、満場が拍手と喝采でうずめつくされたとのこと。その後、同行のライターが、それについての賛辞を述べると、柳はこうつぶやいたと言います。

「プロだぜ俺は」

「ジョーさん、カッコいい」
思わず心のなかでつぶやいたぼくは、それを使える日が、いつか自分に来る日を夢見て幾星霜。あるときある現場で、会心の策が決まったそのとき、「スゴイですねえ」と褒めてくれる部下を前にして、満を持して放ったのです。

「プロだぜ俺は」

結果は・・・・今さら思い出すだに恥ずかしいので控えさせてください。しかも白状すると、それに懲りずに何度かやらかした記憶があるのですが、ご想像のとおり、そのたびに撃沈。しかし、いつかきっと決めてやる、と今でも心中深くにその言葉を潜ませています。

「知事」や「社長」などというのは、それが与えられたか勝ち取ったかの如何にかかわらず、固定された肩書きとしてあり、その当人の中身がどうあれ称することができますし、他人もまたそう呼んでくれるでしょう。そこに他者の承認は必要ありません。であるのに、わざわざそれをひけらかして権力を行使しようとする人間が愚かであることは自明の理です。ところが、それがあきらかであるにもかかわらず、少なくない人たちが驕り高ぶってしまうのは、まこと権力のもつ魔力ではあります。

しかし、「プロフェッショナル」はちがいます。そこには認めてくれる他者が必要です。他者の承認がなければその名乗りはできません。たとえそう自称したとしても、「いいえ私は認めません」という態度を取られたが最後、その呼称は雲散霧消してしまいます。また、たとえ自認していようとも、他人がそうと認めてくれなければ、その呼称はふさわしくないものとなるだけです。
そのなかで、自らをプロフェッショナルと名乗る。しかも、ことさらに持ち出すことなく、自分に向けた満座の賛辞を、さらっと口にしたそのひと言で当たり前であるかのように片づけて、何ごともなかったかのように後ろを振り返らず歩く。
大人なら、かくありたいものです。


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贅肉

2024年09月04日 | 読む・聴く・観る
Audibleで藤本義一の講演録『言葉と文字』を聴き、打ちのめされたのは先月の初めでした。にもかかわらず、それから3度も繰り返して聴いてしまったのは、そのショックが真っ当な言説を聴いたがゆえのものだったからでしょう。

言葉と文章はちがうと氏は言います。
例として挙げたのが次の言葉です。

 私は妻と結婚して三十年がたった。

氏によると、これは文章ではなく言葉なのだそうです。理由は、贅肉がつきすぎているから。
ではどうすれば文章となるのか。この言葉を例題として、段階的に贅肉を削ぎ落としたのが次の流れです。
まず「私」という主語を切る。

 妻と結婚して三十年がたった。
  
しかしこれではシロート以下だそうです。
次にするのは「妻」を切ることです。

 結婚して三十年がたった。 

これがわかるのが、ものを書き始めてだいたい5年ぐらい経ったころだとか。しかし、これでも文章ではないそうです。次に氏が示す手法は「置換」です。

 三十年たった。結婚してから・・・。

これでようやくアマチュアの域を脱したことになるのですが、まだプロと名乗ることはできないそうです。この程度の文章、つまり「置換」という手法を使うぐらいのことは、できる人が世の中には履いて捨てるほどいるからです。
問題は「結婚」です。俗にすぎる。なので「結婚」という言葉を消して、重みのある文字に替える。

 私と妻との三十年間の歳月。

さらに短くするために、また主語を切る。

 妻との三十年間の歳月。

これで終わりではありません。
次は、あろうことか、「結婚」に替えて連れてきた「歳月」を切ってしまいます。

 妻との三十年間。

最後に「妻との三十年間」の「間」も取ってしまいます。

 妻との三十年。

こうなって初めてプロの文章と呼べるのであり、それが文章の省略なのだと氏は言います。大胆に言い切ってしまえば、要諦は「贅肉を削ぎ落とす」ということになるのでしょう。
といっても、氏がそこに至ったのは五十歳をすぎてからであり、「書きながら、書きながら、ようやくわかってきた」のだそうです。

ぼくが長いあいだここへ書いてきたものを、ぼくは文章だと信じて疑うことがありませんでした。ぼくがショックを受けたのは、それが単なる言葉の羅列にしかすぎなかったと知ったからです。
そして、新聞の読者投稿欄を例に出して言った言葉に打ちのめされます。

上手いひとは自分で自分の才能に気づいていない
自分で上手いと思って驕って書いてるひとはだいたい下手
そういうひとが訴えかけてくるのは文章力ではなく言葉なんです


うむむむむ・・・これは痛いところを突かれた・・・と白目をむいたぼくはしかし、なるほど仰るとおりだと得心したがゆえに、繰り返し聴き、今後の糧にしようとしました。
ところがどっこい、現実はぼくの想いをくみ取り、すぐにそれをぼくに与えてくれるほど甘くはありません。何度聴いても、それだけで飛躍的に上達するはずもありません。
だとしても、「書く」以上は、上手や達者に少しでも近づきたいというのが人情です。だから、ぼちぼちとつづけていきましょう。ついた贅肉は削ぎ落とすように心がけて。また、「上手いと思って驕って書く」ことだけは避けるようにして。といってもたぶん、ぼくに藤本義一が言うところの「プロ」の文章が書ける見込みは、この先どこまで行っても、爪の先ほどの可能性もないのでしょうけれど。


ー・ー・ー・ー・ー・ー

と、そんなテキストを書いたのは、台風でどこへも行かず家にいた土曜日。いつになく書きだめをしたので「予約投稿」を設定したのですが、今日にしたつもりが、まちがえて昨夜になっていたのでした。気づいたのは今朝、あわてて取り消し、あらためて投稿しようと今、これを追記しています。そうしようと思った要因は、今日の朝、Xで次のようなポストを目にしたからです。

******
会社の太ったおじさんに「朱肉あります?」と聞いたら「ごめん贅肉しかない」と返された。私が会社を好きな理由の半分はこのおじさん。
@noriko_uwotaniより)
******

かなりバズっているようですが、さもありなん。
「つきすぎた贅肉」もこのように活用できれば申し分がありません。

もちろんこれは、ただの「贅肉つながり」にしかすぎず、藤本義一の言が説く本質とはなんの関係もないのですが、「ついた贅肉」を活用するというのもスタイルとしてはアリなのではないか、などという邪道を考えてしまったぼくなのでした。つまり、己の贅肉を認めて許す。そして活用する。
ハハハ、思いつきの世迷い言です。笑って流してやってくださいな。でわ。


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おじさんたちの「ちゃんづけ」

2024年09月03日 | ちょっと考えたこと
つぐみちゃん

月に一度の社内安全パトロール日は、同時に数少ない外食ランチの日でもあります。先月のそれは、ぼくよりひとつ年上の労働安全コンサルタントさんと、四十代前半の男女4名、計6名が参加して先々週の半ばに行われました。
問題が起こったのはその席でのことです。

向かい合った前期高齢者ふたりの会話は、時節柄もあって、自然とパリオリンピックの話題になりました。

「つぐみちゃん、帰って来るらしいねえ」
「えらかったねえ、つぐみちゃん」

4名のうちのひとりが口をはさみます。

「誰ですか?つぐみちゃんって」

ぼくとコンサルタントさんは、思わず「え?」という顔を見合わせ、ほとんど同時にその声の方を向きながら、ほぼ同じタイミングでこう言いました。

「つぐみちゃんはつぐみちゃんよ」

「だから誰ですか?」

どうしようもない年寄りたちだという顔をして笑いながらしたその再質問には返答せず、今度はぼくが単独で問い返しました。

「つぐみちゃん、知らんの?」

「知りません」

「マジか!」
今度はまたふたり同時です。

「アンタそれでも高知県民か!」
思わずぼくが発したキーワードで気づいたようでした。

「え?もしかして、桜井つぐみですか?」

「そう」

「だって、つぐみって言うから」

「つぐみちゃんはつぐみちゃんと呼ぶしかないやんか」

「じゃあ清岡幸太郎は?」

ぼくとコンサルタントさんは、顔を見合わせたあと無言でカウントし、息をそろえて口にしました。

「コータローよ」
もちろん、答え合わせはしていません。

するとどうしたことでしょうか。その4名は、腹を抱えて笑い出す始末です。

「じゃあアンタらはなんて呼ぶの?」
先ほどの1名が代表して答えました。

「清岡でしょ。桜井やし」

これはなんとしたことでしょうか。
ぼくの場合それは何も、高知県に92年ぶりに金メダルをもたらしたふたりへの親近感からだけではなく、阿部詩は「うたちゃん」だし、藤波朱理は「あかりちゃん」だし、早田ひなは「ひなちゃん」です。今回にかぎらずこれまでも、「みまちゃん」や「かすみちゃん」や「あいちゃん」や、ちゃん付けをして下の名前を呼ぶのは珍しいことではありませんでした。
それには、1歳上のお兄さんも同意してくれました。
ということは、高齢者あるいは昭和中期生まれ世代と昭和終盤生まれ平成育ちとの間に、生まれ育った時代によるギャップがあるということなのでしょうか。


「ちゃんづけ」あれこれ

そもそも「ちゃんづけ」は、どういった場面で使われるのでしょうか。
NHK放送用語委員会(第1465回、2023年6月)『子どもの敬称(さん・くん・ちゃん)意味の解釈がわかれる語の扱いについて』にはこうあります。

******
「さん」は,「さま(様)」が変化したことば,「ちゃん」は「さん」が変化したことばである。「ちゃん」は親しい間柄にある人を,親しみを込めて呼ぶときなどに使われる,ややくだけた言い方である。また,「くん」は対等,または目下の人の名前に付けて軽い敬意や親しみの気持ちを表すことばである。 
******

このように、親しみや愛情を表現するための呼び方、それが「ちゃん」ですが、対象が誰であるかや、その年齢、性別、関係性によって使い方や意味が微妙に変わってきます。

代表的なものは、子どもへの呼びかけとしての「ちゃん」でしょう。
例えば「たろうちゃん」、また例えば「はなこちゃん」。愛情や親しみを込めた呼び方として機能する「ちゃん」は、社会的に未熟で保護されるべき存在ゆえにそうするのだと解釈できます。思うに、これが「ちゃんづけ」の原点なのでしょう。

しかし、「ちゃんづけ」が多数派なのかといえば、そうでもないようです。上記委員会では「議論の背景」として、こういう記述があります。

******
子どもによく使われる敬称としては「さん」「くん」「ちゃん」の3種類の敬称がある。
このうち「さん」は性別を問わず用いられるが,「くん」はもっぱら男(男の子)に使われる。男の子を「くん」,女の子を「さん」と呼び分けることについては,ジェンダーの観点から「さん」に統一するべきだという考えもある。小学校の教育現場では男女ともに「さん」付けで呼ぶ取り組みも広がっているが,子どもの名前が多様化する中,名前だけでは,男の子か女の子かの判断が難しいこともある。
「ちゃん」は,「さん」と同じように男の子にも女の子にも使えるが,幼い子どもに使うことが多い,ややくだけた言い方である。どれくらいの年齢までの子どもに「ちゃん」を使うかは,放送においても,番組や,それが使われる場面によっても異なっている。
******

『NHKことばのハンドブック(第2版)』の「敬称の扱い」「ちゃん(愛称)」の項目では以下のように規定されています。

******
(1)敬称は原則として「さん」あるいは「氏」。複数の場合は「~の各氏」など。(2)学生や未成年者(男)には「君」を付けてもよい。また,学齢前の幼児には「ちゃん」を付ける。
 次のような場合は,小学生についても「ちゃん」を適宜使ってもよい。①本人が痛ましい事件に巻き込まれた場合(誘拐,交通事故など)。②愛らしさを特に強調したい場合。 
******

「幼い子どもに使うことが多い,ややくだけた言い方」。これが「ちゃん」の一般的使われ方だということがわかります。

とはいえ、もちろんそれだけではありません。女性のファーストネームのあとに「ちゃん」をつけるのも、よく見聞きします。比較的若い女性に対してそうすることが多いようですし、子どもへの呼びかけにしても、男の子に対してよりも女の子に使う方が圧倒的に多いような気がします。これも親しみやすさを強調するものでしょう。家族間や友人同士、また職場でも使われることがあります。女性アイドルを「◯◯ちゃん」と呼ぶのもよくあることです。そういえば、無意識のうちにぼくとコンサルタントさんは、高知県に92年ぶりの金メダルをもたらしたという事実は同じであるにもかかわらず、桜井つぐみさんのみに「ちゃんづけ」し、清岡幸太郎くんは「コータロー」と呼び捨てにしています。それなども、そういう意識が表出したものなのでしょう。

親しい間柄であれば、なにも女性だけに限って用いられるわけではありません。フレンドリーな関係の場合のみに限定されはしますが、男性間あるいは女性が男性に対しても使用されます。

文化的背景を考えてみましょう。
さまざまな敬語が存在し、その体系がはっきりとしている日本語では、相手に敬意をあらわす方法が多様にあります。「ちゃんづけ」は、NHK放送用語委員会において「子どもの敬称」として取り上げられてように、その敬語体系のなかで親しみやすさを表現するものとして位置するもので、相手との関係をやわらかくし、距離感をちぢめてくれます。

女性や子どもに対して使われることが多いという事実から考えられるのは、それを使う心理に、性別や年齢への役割分担や社会的期待が含まれているということです。
ここから、現代日本における「ちゃんづけ」使用の変化が起こってきたのではないでしょうか。
男だから女だからという、性別による役割分担の意識が薄れてきたなかで、特に職場などの公な場所ではそれが不適切だという意見もありますし、実際、違和感を感じる人も多いようです。親しみを込めて使っているつもりでも、言われた方は、逆に相手に軽んじられたと感じてしまう。あるいは、男性が女性に対してのみ「ちゃんづけ」する事実から、性別による役割分担や権力関係を強調されていると捉え、ハラスメントだと感じてしまう。
そうなれば、フレンドリーに接しようとするための「ちゃん」が、逆にディスコミュニケーションを促進するものとしてはたらいてしまいます。職場の「ちゃんづけ」には十分な注意が必要なのではないでしょうか。

そうそう職場の「ちゃんづけ」といえば、かつて土木の現場には多くの女性がはたらいており、ぼくがこの仕事を始めたころは、既にそのほとんどが高齢者でした。その呼称には「さん」と「ちゃん」が混同して存在していましたが、60歳をすぎたおばあさんを「◯◯ちゃん」と呼んでも、呼ぶ方も呼ばれる方も違和感がなく自然に仕事をしておりました。それから考えれば、年配の女性にならばオッケーなのかもしれません(そんな問題ちゃうか^^;)。


では、ぼくとコンサルタントさんは、なぜ「つぐみちゃん」だったのでしょうか。
基本的に顔見知りに使う「ちゃん」を、まったく面識のないアスリートに対して使用するのは、使う側が感じている親近感のあらわれでしょう。近所のおじさんが近所の子どもに対してするようなものです。
だからぼくたちは、「つぐみちゃん」であり、「うたちゃん」「あかりちゃん」「ひなちゃん」なのですが、その一方で、ぼくらの子ども世代である、いっしょにランチした彼らにはそういう選択肢はない。つまり、世代や時代がそうさせているのではなく、単にぼくたちが立派なおじさん(いや、じいさんか)になったという事実からそれは生まれているのです(そういえば「あいちゃん」は途中からそうなったのであり、当初はフルネームの「福原愛」だったような気がします。つまりぼくたちも以前から「ちゃん」派ではなかった)。

ちなみにぼくの「ちゃんづけ」の、他の例はこうです。
息子の嫁さんは「ちゃんづけ」。
となりのおばあさん(10歳上)にも「ちゃんづけ」。
太鼓の弟子たちのうち、小学1年生の女子と保護者の女性1名に「ちゃんづけ」。
職場の女性には「さんづけ」(これは、「ちゃん」と「さん」が混合していたのを、昨年あたりから意識して変えました)。
職場の男性では2名に「ちゃんづけ」(これはニックネームのようなものですね)。

ふむ。こうやってあらためて見てみると、ぼくにとっての「ちゃんづけ」は、それほど頻繁に使われるものではないようです。そして、その一つひとつを精査してみると、そこには、親しみを込めてはもちろんのことですが、呼び易さや語呂の良さの影響が大きいようです。

「ちゃん」
いずれにしても、これでな~んにも考えずに使うことができなくなってしまいました。

使うけどね、「つぐみちゃん」は。


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「慣れ」の力

2024年09月02日 | ちょっと考えたこと
昨夜、たてつづけに鳴ったLINEの着信音に、早めの就寝を決めこんでいたぼくが起こされたのは10時になる前でした。目を閉じて1時間も経っていないというのに、なぜだか不機嫌にもなることなく、パッチリと目が覚めたので確認してみると、娘からです。送られてきたのは、400字詰め原稿用紙3枚に綴られた孫の読書感想文でした。
最初の3割ほどは、きれいな字で書かれており、文章もまあまあしっかりしているのですが、集中力がつづかなかったのか、あるいは気力の限界ゆえか、その後がいけません。見るからに、そして読めばなお、どんどんとまとまりのない文章になっていくのがあきらかでした。

とはいえ爺バカです。
内容はわるくないのになあ。
ついつい身びいきしたくなってしまうぼくがいました。

そのあと幾つかのやり取りがあり、しばらくして、送られてきたのが感想文を書く前段階でつくったらしいマインドマップです。

ほぉ、よいじゃないか。
(これまた爺バカです)
誰に習ったのか、そのマインドマップは、まるでその手法を自家薬籠のものとして使いこなしているかのように見えました。
(どうしようもなく爺バカです)

娘に訊くと、「マインドマップはスラスラ書く」ようです。ところが、それを文章化していくとなると途端に面倒くさくなるようで、挫けそうになるのを励ましながら、やっとこさゴールにたどり着いたのだそうです。

ふむふむナルホド。
うなずいたのは、それが何も彼にかぎったことではなく、そして子どもだけでもなく、多くの人にあらわれる現象だからです。

文章を書くことを苦手だと感じる人の多くは、思考を整理することが下手なように思えます。しかしそれは、その当人たちが思うほど能力不足によるものではありません。能力が不足しているというよりも、思考を整理して言語化し、それを組み立ててていくことに慣れていないからだというのがぼくの考えです。

文章を書くという行為は、頭のなかに浮かんだことや考えていることを整理し、言葉としてアウトプットし、それをつなげていくプロセスとしてあります。そのプロセスに慣れていないうちは、どうしても面倒に感じたり、混乱したりしてしまいます。それが「書く」ことへの抵抗を生み出し、「書く」という行為を必要以上に困難なものとして捉えるもととなります。

考えるのは面倒なことです。それを整理するのはもっと面倒です。
だから多くの人は、その面倒さゆえに壁の前で立ち止まり、それを越えようとはしません。しかし、その壁が越えられずにいると、頭のなかはますます混乱し、整理することが億劫になってしまいます。ひょっとしたらそれは「高い壁」でもなんでもなく、その気とコツさえあれば飛び越えられるハードルのようなものであるにもかかわらず、自分で自分をしばってしまい、可能性を閉ざしている人も少なくないはずです。
そう思えば、マインドマップという「考える」ための一助となるツールをスラスラと使いこなすだけでも、わが孫はまだマシな方なのかもしれません(しつこく爺バカです)。

それらはやがて、文章を書くのが下手だとか苦手だとかという自己評価につながっていきます。しかし、多くの場合でのそれは、経験や習慣が不足しているがゆえに発生しています。練習を積み重ねることで、思考を整理し、文字として表現するスキルが身についていきます。
まずは、ハードルをひとつ飛び越えること。しかし、ひとつだけでは得るものがほとんどありません。自らが感ずる面倒くささとファイトしながら、一つまたひとつと、飛び越えつづけることが大切です。
とはいえたまにはその億劫さに負け、立ち止まってしまうこともあるでしょう。そのときはそこで休めばよい。そしてまたはじめればよいし、つづければよい。トータルとして見たときに進んでいればそれでよいのです。

その積み重ねによって、壁を乗り越える力が備わってきます。そして、壁を乗り越えることができれば、それが自信となり成長へとつながります。
その繰り返しが、思考を深める習慣へとつながります。このプロセスが、「考える力」を強化し、さらに複雑で難解な問題があらわれたときに、それに対処できるような力となります。

だからこそ、最初はちいさなことからコツコツと。箇条書きでも短い文章でもよいので、ともかく考えたことを文章にする。そうやって文章を書くのに慣れる。そうすることで、徐々に思考を整理することに慣れ、文章を書くことへの抵抗感が薄れていくはずです。そして、徐々に長いものを書くように心がける。ここが重要です。短いままで止まっていては、いつまで経っても自信はつかないし、成長もしません。
といっても、とりあえずのその尺度はあくまでも自分基準でよく、自分の尺度で少しずつ長くしていく。それでよいのです。
その積み重ねが、自信となり、ひいては考えることそのものが楽しくなってくればシメたものです。その時点でもなお、文章を書くなど屁の河童、どうってことはないよ、とはならないでしょうが、少なくとも、「考える」そして、「考えながら書く」あるいは「書きながら考える」という行為に対する拒絶反応はかなり少なくなっているはずです。

というぼくとて、もともと年少のころから文章が書けたわけではありませんし、自分の考えを文章にできた記憶もありません。しかし、もちろんいまだに上手だとは言えませんが、昔と比べれば、桁違いで書けるようにはなりました。
なので、たまさか舞いこんできた孫の読書感想文を契機に、その体験をふまえて、これまでに抱いてきたぼくの考えを記しておくことにしました。もちろん、その対象はわが孫ではありません。ぼくたちの業界内に数多存在する、「文章嫌い」や「文章が苦手」な人たちに向けてのメッセージです。

小学4年生の彼には、そのうち折を見て直接伝えようと思います。
孫よ。爺とて昔は、とても面倒くさかったのだよと。その面倒くささから逃げていたのだよと。そして今でも、けっこう億劫なのだよと。その億劫さゆえに、ときどき逃げるのだよと。だからといって、それは君の能力不足でもなんでもない。ただ慣れていないだけなのだから、慣れるように心がけ、実践をしていけば、いつかは道がひらけるはずだと。

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