岩井ジョンの旅行記

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永源寺と近江八幡・・2

2016年12月18日 06時55分47秒 | 滋賀県永源寺

前回からの続きです。

まだところどころに紅葉が残ってい。(^_-)-☆

 

 

 \森とお菓子と、これからと。
たねやグループは、自然と共に。

お菓子の素材は自然の恵み。
風や土、太陽や水の豊かさを感じる土地で、
自然と人のいとなみを、受け継がれてきた智慧や技を
次の、さらに次の世代へつなげてゆくために―― 

ラ コリーナ近江八幡。
ここから世界に向け提案したいのです。

50年、100年… 悠久の歳月をかさねながら
実り豊かな森の中に、生き活きと 人と自然を繋げます。

  

 

 

 

 

 

外は、気温が低く寒いので少ないが、それぞれの建物の中は人で混雑していた。駐車場は観光バスとマイカーが多くとまっていた。

それも広い駐車場でどこに止めても正面の建物なかに入るコースが(道)たくさんあってかんがえています。

ケーキ買うのに平日でも並ぶ事になった。土・日・曜日は1時間かかってケーキを買って帰るそうです。

まだまだ建物が増えていくそうです。


永源寺・・・1

2016年12月16日 06時26分55秒 | 滋賀県永源寺

平成28年12月6日から7日の一泊二日で湖東三山の近くにある永源寺に出かけました。滋賀県東近江市永源寺町高野町41

宿泊先は近江八幡で3年続けて・・近江肉とまったけの食べ放題ですが、あまり食べられなく

なってきました。

ネットからの永源寺です。

永源寺

 ここで

― 瑞石山 永源寺の歴史 ―

 当山は、南北朝時代の興安元年(1361)に、時の近江守護職、佐々木六角氏頼公が、入唐求法の高僧、寂室元光禅師(正燈国師)に帰依し、領内の土地を寄進して伽藍を創建したことが始まりです。
 禅師が入寺、開山されると、その高徳を慕って二千人あまりの修行僧が集い、山中には五十六坊の末庵を有したと記されています。
 師の滅後も、四人の高弟が教えを守り永源寺を受け継ぎました。応仁の乱の頃には、横川景三といった京都五山の名だたる僧達が、この地に戦難を避けて修行をされました。
 しかし、明応(1492)永禄(1563)と続く戦乱によって、当地も兵火の及ぶところとなります。伽藍や山内の幾多の寺院は全て焼け落ち、以後寺運は衰退してゆきました。
 江戸時代中期になり、妙心寺の僧、別峰紹印禅師は、永源寺が往時の面影も無く荒れはてていることに嘆き、嘆願書をしたため、自らも石を曳いて復興のために尽力いたしました。弟子の空子和尚も永源寺第七十九世として住職され、彼らの懸命の働きによって、やがて名声高き一絲文守禅師(仏頂国師)を迎えることとなりました。これにより後水尾天皇をはじめ、東福門院(徳川和子)や彦根藩(井伊家)の帰依をうけて伽藍が再興され、ここに再び法燈が輝いたのであります。
 明治になり、政府の指導によって、はじめ臨済宗東福寺派に属しましたが、後に永源寺派として独立し、坐禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場として、全国百有余の末寺を統轄する一派大本山となり、今に至っています。

詳しくは、次のアドレスへ   http://eigenji-t.jp

 

◆世継観音御開帳

本年は、開山正燈国師650年遠諱をむかえ、11/27までの間、本尊の御開帳を行っています。実に28年ぶりの開帳となります。

DSCN3801.jpg

 残念ながら11月27日までなので見ることができなかった。住職に聞くと次回は30年後で平成58年だそうです。

    。゚(●'ω'o)゚。うるうる

紅葉の時期が過ぎているので残念ですがイメージしてみてください。

たぶん素晴らしい紅葉

 

 

 

 少しの紅葉が残っていました。道には落ち葉がなく残念でした。

 

 

本日の天気は、曇り時々小雨 風がやや強い

火曜日の平日の午後で、国宝の仏像と紅葉が過ぎていので、静けさが 漂っていた。

 

 歴史のある景観です>

 湖東三山の百濟寺と同じで登り坂きつい! 

 

右の側が本堂です。

 

 

 

 

 

 

 歴史をかんじます。雪でも積もっていればなおさら。

 

この紅葉に顔が必要ないとおもったが、体も邪魔しているみたい(^^♪ 

 紅葉の季節と30年に一度の国宝・・・・・11月の中ごろに来るべきでした。(´・ω・`)マーク

   写真が多いので2回に分けてまたのせます

 永平寺の後半とロールケイキで有名なラコリーナ近江八幡です。