足利義満が発願し、春屋妙葩・義堂周信を招き建築、夢窓疎石が勧請開山とされました。(^-^)
義満は、京都五山の第一位にあった南禅寺(太平興国南禅禅寺)を「五山の上」なる特別枠に上げ奉り、二位にあった天龍寺(暦応資聖禅寺)を第一位に移して、自らの相国寺を第二位としました。( ; _ ; )/~~~
足利尊氏が創建した天龍寺には遠慮しながらも、三位の建仁寺はそのままに留め置いて、第二位に割り込んだ形ですね。(≧∇≦)
当時、日本国王をめざすほど貪欲で、将軍に君臨して権勢を振るっていた義満ですから、さもありなん、、、実は、相国寺には、高さ109メートルもある「七重の大塔」も聳えていたそうです。( ; _ ; )/~~~
その相国寺、度々、火事や兵火、地震や落雷に見舞われ、伽藍は消失を繰り返しました。かの七重塔も、完成の四年後に落雷で焼失しています。(ToT)/~~~
現在、相国寺には、禅寺に必須の三門や仏殿がなく、小さな総門に、「豊臣秀頼」が寄進した現存最古最大の「法堂」が仏殿を兼ねています。(^。^)
奢れる者は久しからず、或いは、怨霊の祟りか、伽藍消失の悲運は、義満の傲慢に帰着するのやも知れません。(≧∇≦)
法堂の鏡天井に「狩野光信」が描いた「蟠龍図」は、手を打つ音などが反響する「鳴き龍」として知られていますが、文字通り、当寺の哀しき経緯を嘆いているのではないでしょうか。( ; _ ; )/~~~
「三門も仏殿もなき相国寺
奢りの蔭や戦火落雷」
by 祖谷馬関