芥川賞・直木賞の発表がありました。(^。^)
なかでも、「ハンチバック」で芥川賞を受賞した「市川沙央」さん(43)は、難病「先天性ミオパチー」のため人工呼吸器や電動車椅子を使って生活されています。(^-^)
受賞作「ハンチバック」は、文学界新人賞も受けたデビュー作で、自身を投影した難病の女性の欲望や怒りを、ユーモアを交えて描き、健常者の特権性を射抜く作品が高く評価された、とあります。(^_^)
記者会見で、市川さんは「これまであまり(重度障害)当事者の作家がいなかったことを問題視して書いた。どうして2023年にもなってそうした作品が芥川賞で初めてなのか、みんなに考えてもらいたい」と話し、社会の本質を突いた気骨溢れるコメントが大変印象的でした。m(__)m
なお、ハンチバックとは、「脊椎上部が異様に湾曲しているため背中が丸くなっている人」のことなんだそうです。知らなんだ。(°▽°)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
芥川賞と直木賞、毎年発表があり、その存在は皆知り置いていると思いますが、両賞の違いについては、、、(°▽°)
答えをネットから引用しますと、、、( ; _ ; )/~~~
芥川賞は、雑誌(同人雑誌を含む)に発表された、新進作家による純文学の中・短編作品のなかから選ばれます。
直木賞は、新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本(長編小説もしくは短編集)が対象です。
だそうです。(^。^)
なお、『芥川賞』は文豪「芥川龍之介」に、また、『直木賞』は大衆娯楽小説を得意とした「直木三十五」に因んだ賞として知られています。(^-^)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
この「直木三十五」さんは、大正時代~昭和初期に大衆文学作家として活躍しましたが、大阪のご出身で、今も大阪市中心部の谷町六丁目、空堀商店街近くに「直木三十五記念館」があります。(^。^)
なかでも、「ハンチバック」で芥川賞を受賞した「市川沙央」さん(43)は、難病「先天性ミオパチー」のため人工呼吸器や電動車椅子を使って生活されています。(^-^)
受賞作「ハンチバック」は、文学界新人賞も受けたデビュー作で、自身を投影した難病の女性の欲望や怒りを、ユーモアを交えて描き、健常者の特権性を射抜く作品が高く評価された、とあります。(^_^)
記者会見で、市川さんは「これまであまり(重度障害)当事者の作家がいなかったことを問題視して書いた。どうして2023年にもなってそうした作品が芥川賞で初めてなのか、みんなに考えてもらいたい」と話し、社会の本質を突いた気骨溢れるコメントが大変印象的でした。m(__)m
なお、ハンチバックとは、「脊椎上部が異様に湾曲しているため背中が丸くなっている人」のことなんだそうです。知らなんだ。(°▽°)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
芥川賞と直木賞、毎年発表があり、その存在は皆知り置いていると思いますが、両賞の違いについては、、、(°▽°)
答えをネットから引用しますと、、、( ; _ ; )/~~~
芥川賞は、雑誌(同人雑誌を含む)に発表された、新進作家による純文学の中・短編作品のなかから選ばれます。
直木賞は、新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本(長編小説もしくは短編集)が対象です。
だそうです。(^。^)
なお、『芥川賞』は文豪「芥川龍之介」に、また、『直木賞』は大衆娯楽小説を得意とした「直木三十五」に因んだ賞として知られています。(^-^)
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
この「直木三十五」さんは、大正時代~昭和初期に大衆文学作家として活躍しましたが、大阪のご出身で、今も大阪市中心部の谷町六丁目、空堀商店街近くに「直木三十五記念館」があります。(^。^)
以下、ネットより引用。
生没年月日は、明24年2月12日~昭9年2月24日
本名=植村宗一、大阪市南区内安堂寺町2丁目生まれ。
桃園小学校、育英高等小学校、市岡中学校と進み、一時、薬局勤務、奈良県の小学校の代用教員を務める。
明44年、早稲田大学英文科予科入学。2学期より高等師範部に転部するも、学費が払えず除籍。
大5年、早稲田美術研究会記者、大日本薬剤師会書記などを経て、
大7年、トルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設。
大12年、関東大震災後、帰阪してプラトン社に入社する。川口松太郎と二人で『苦楽』誌の編集を担当。
この頃から大衆小説を書き始める。映画の世界にも関心が深く、マキノ省三と共同で映画製作も手掛ける。
昭4年に『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」や、昭5年~昭6年に『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した『南国太平記』などで、流行作家として地位を確立。
昭9年、結核性脳膜炎で東大病院にて没。享年43歳。
翌年、友人の菊池寛が「直木三十五賞」を設定、現在まで続く。
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
実は、馬関は未だ直木三十五の著作を読んだことがありません。m(__)m
まだ見ぬ大阪ゆかりの作家に触れてみたい、そんな気がしています。(^_^)
「誰を待つ四条河原の夕涼み」 祖谷馬関
(注)「四条河原の納涼」(しじょうがわらのすずみ)なる夏の季語を識りました。江戸時代の祇園会の頃の夕涼み。四条河原の水面に桟敷をしつらえ、昼間のようにあたりを灯して涼をとったという。現在の川床涼みの始まりとされています。
生没年月日は、明24年2月12日~昭9年2月24日
本名=植村宗一、大阪市南区内安堂寺町2丁目生まれ。
桃園小学校、育英高等小学校、市岡中学校と進み、一時、薬局勤務、奈良県の小学校の代用教員を務める。
明44年、早稲田大学英文科予科入学。2学期より高等師範部に転部するも、学費が払えず除籍。
大5年、早稲田美術研究会記者、大日本薬剤師会書記などを経て、
大7年、トルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設。
大12年、関東大震災後、帰阪してプラトン社に入社する。川口松太郎と二人で『苦楽』誌の編集を担当。
この頃から大衆小説を書き始める。映画の世界にも関心が深く、マキノ省三と共同で映画製作も手掛ける。
昭4年に『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」や、昭5年~昭6年に『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した『南国太平記』などで、流行作家として地位を確立。
昭9年、結核性脳膜炎で東大病院にて没。享年43歳。
翌年、友人の菊池寛が「直木三十五賞」を設定、現在まで続く。
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
実は、馬関は未だ直木三十五の著作を読んだことがありません。m(__)m
まだ見ぬ大阪ゆかりの作家に触れてみたい、そんな気がしています。(^_^)
「誰を待つ四条河原の夕涼み」 祖谷馬関
(注)「四条河原の納涼」(しじょうがわらのすずみ)なる夏の季語を識りました。江戸時代の祇園会の頃の夕涼み。四条河原の水面に桟敷をしつらえ、昼間のようにあたりを灯して涼をとったという。現在の川床涼みの始まりとされています。