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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

俊寛僧都と鹿ヶ谷の陰謀

大阪松竹座にて「七月大歌舞伎」が開幕しました。(^。^)

昨夕の新聞では、片岡仁左衛門さんの「俊寛」が物語とともに紹介されていました。(^-^)

「松嶋屋」、と大向こうの飛び交う熱演の舞台、片岡仁左衛門は二十年ぶりに大阪で俊寛僧都を演じたそうです。(^_^)

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さて、この「俊寛」、実際にあった「鹿ヶ谷の陰謀」なる史実に基づいた演目です。m(__)m

以下、あらすじをネットから引用。

薩摩の国から遠く離れた孤島鬼界ケ島は流人の島。
全盛をきわめる平清盛への謀略のため鹿ケ谷の別荘へ集った罪で俊寛僧都が丹波少将成経、平判官康頼とともに流罪にされて早や3年がたった。
都で権力を誇った暮らしとは程遠い衣食もままならない生活、三人のほかには語り合う人もいない。
いつの日か許されて都に帰ることだけを唯一の希望とする毎日である。

海原のはるかかなたに大きな帆影が見える。都から待ちに待った流人の都への帰還を許す赦免船がやってきたのだ。
転がるように浜へ出て出迎える俊寛、康頼、成経と、千鳥の四人。しかし赦免の使者瀬尾太郎兼頼が読み上げる赦免状に俊寛の名前はなかった。
清盛は、俊寛一人だけは許さず島に残すつもりなのだ。嘆くところへ、もう一人の使者、丹左衛門尉基康があらわれ、重盛と教経の温情で俊寛も連れ帰るという赦免状を読み上げる。

三人は喜んで千鳥を伴って船に乗り込もうとする。すると瀬尾はすげなく、赦免状に名の無いものは乗せられないと千鳥の乗船を阻み、俊寛には、俊寛の妻・東屋が清盛の意に逆らい首を落とされたと冷酷に告げる。三人は舟に追い込まれ、残された千鳥は「鬼界ケ島という名の島だが鬼はいない、鬼がいるのは都だ」と嘆き悲しみ、頭を岩に打ち付けようとする。

それを見て俊寛は、もはや妻のいない都に戻ろうとは思わない、自分は島に残るので代わりに千鳥を船に乗せてほしいと頼むが、瀬尾は聞く耳を持たない。
ついに俊寛は瀬尾の刀を奪い切りつけ、二人は刃を交わす。ようやくのことで瀬尾を討ち果たした俊寛は、上使を斬った罪で再度鬼界ケ島の流人となる代わりに、千鳥を都へ連れていくよう願う。

千鳥を乗せ、俊寛を一人残して船は出てゆく。名残を惜しみながらひとり見送る俊寛。

諦めたつもりでも、煩悩は消し難い。悟りを開いた出家でなく、ただの人の悲しい心で生い茂る蔦につかまり、松の木にすがり高台によじ登って、遠ざかる船に向かっていつまでも悲痛な声をかけるのであった。(了)

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この「俊寛」の下敷きになった「鹿ヶ谷の陰謀」は、次のような事件です。(°▽°)

平安末期の1177年,京都郊外の鹿ケ谷でなされた平氏打倒の謀議事件、鹿ケ谷事件ともいう。 後白河法皇の近臣の藤原成親・藤原成経・西光・僧俊寛らが中心となったが,密告により発覚し,西光は死罪,成親は備前国に配流後殺害され,ほかは薩摩国鬼界ケ島に流された。

この史実については、高校の日本史で習っていましたから、洛中の大学に進んでから、さっそく近所にあった俊寛僧都の山荘跡へと出かけました。(^。^)

京都市左京区、大文字山とも呼ばれる如意ヶ岳の山麓、住宅街の外れに「鹿ヶ谷山荘」跡はありました。(^-^)

楼門の滝の左手にある急な石段を上ると、「俊寛僧都忠誠之碑」と刻まれた碑があります。

傍らには「俊寛僧都鹿ケ谷山荘址碑」もあり、昭和10年、西垣精之助氏が夢に現れた鹿ケ谷の山荘を基に建立しましたが、実際の場所とは異なるとも言われているそうです。(^_^)

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僧でありながら、政治闘争に与した俊寛、、、非業の運命を辿りますが、歌舞伎をはじめ今なお語り継がれるのは、その生き様がドラマチックで魅力的だったからですね。( ^_^)/~~~

「夏木立島へ続くや鹿ヶ谷」 祖谷馬関

(注)夏木立は夏の季語。夏、青々と葉を茂らせた木立をいう。生命力みなぎる木々の日陰は、人々にほっと息をつかせる場所である。「夏木立」は数本をさし、一本の木のときは「夏木」という。
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