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二種の知識/ベルクソン

2022-11-14 09:02:00 | 直接体験
二種の知識

 形而上学の定義と絶対についての考え方をいろいろ比べてみると、外見的な意見の相違にもかかわらず、ものを知るのに根本的に異なった二つの仕方があるという点で、哲学者たちの意見の一致していることがわかる。
 
 第1の仕方は、ものの周りをまわることであり、第2の仕方は、ものの中に入ることである。第1の仕方は、私たちのよって立つ視点と、私たちが表現に用いる記号とに依存する。

 第2の仕方は、どのような視点にも関係なく、どのような記号にも頼らない。
第1の認識は相対にとどまるが、第2の認識は可能であれば絶対に到着する。

 直観と分析

 絶対は直観のうちにだけあたえられる。それ以外はすべて分析の領分に属する。ここで直観というのは、対象の内部に身を置き、その対象がもつ唯一なもの、すなわち表現できないものと一致する共感である。

 それとは逆に分析とは、対象を既知の要素へ、いいかえれば他の対象と共通する要素な還元する操作である。したがって、分析はあるものをそれ以外のものとの函数において表現する。

 あらゆる分析は翻訳であり、記号への展開であり、新しい対象と既知の対象との接触を継起的な視点から記述して得られる表象である。

 分析は対象をとらえようとして、永遠に満たされない欲望をいだき、対象の周りをまわる運命を負わされ、視点の数をどこまでもふやし、つねに不完全な表象を完全にしようとし、記号を絶えず取りかえ、不満足な翻訳を満足にしようとする。こうして分析は無限に続く、しかし直観は、もしそれが可能ならば単純な行為である。

 実証科学は何よりも記号に基づいて作業する。自然科学のなかで最も具体的な生命の科学でさえ、生物の器官や解剖学的要素という目に見える形に依拠している。

 それらの形を相互に比較し、複雑なものを単純なものに還元し、最後には生命の働きを視覚的な記号というべきものにおいて研究する。

 実在を相対的に認識するのではなく絶対的に把握し、さまざまな視点をとるのではなく内部に入り、分析するのではなく直観する手段があるとすれば、つまり、いっさいの表現、翻訳、記号的な表象によらずに実在をとらえる手段があるとすれば、それはまさに形而上学である。すなわち、形而上学は記号なしにすませようとする科学である。 ベルクソン「形而上学入門」より

 
 ベルクソン (1859年〜 1941年)はフランスの哲学者。彼の「実在論」はすべてのものは単なる固定した事物ではなく、流動して持続する生命そのものであることを説いています。その世界観は仏教、特に禅に通じるものがあります。鈴木大拙と比べて読むと興味深いものがあると思います。