二つに見えて、世界はひとつ

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知性と直観/ベルクソン

2022-11-21 20:00:00 | 直接体験
  

 1 本能

 本能は生命の形式そのものにもとづいて形づくられる。

 もし本能のなかに眠っている意識が目覚めたならば、もし本能が外面化して行動となるかわりに内面化して認識となっていたならば、また、もしわれわれが本能に問いかけることができ本能がそれに答えることができたならば、本能はわれわれに生命の最も奥深い秘密を見せてくれることであろう。

 本能は共感である。もしこの共感がその対象をひろげ、また自己自身について反省することができたならば、この共感は、生命的な作用の鍵をわれわれに与えてくれることであろう。
  「創造的進化」2章より

 
   
2 直観

 知性と本能は、相反する二つの方向に、すなわち知性は物質の方へ、本能は生命の方へ向けられている。

 知性は対象のまわりをまわり、外からその対象についてできるだけ多くの観点をとるが、それを自分の方にひきよせるだけで、自分からそれのなかに入っていくことはしない。

 もっと適切にいえば 知性とはある対象を他の対象に関係させる能力である。知性はどんな事物にも適応されるが、つねにその事物の外にとどまっている。

 けれども、直観は生命の内奥そのものへわれわれを導いてくれるであろう。

 私がここで直観と言うのは、利害をはなれ、自己自身を意識するようになった本能のことであり、その対象について反省するとともにこれを無限に拡大することのできる本能のことである。

 世界を満たす物質と生命が、われわれの内にもある。万物の内に働いている力を、われわれは自分の内に感じる。

 存在するもの、生成するものの内的本質がどのようなものであろうと、われわれはこの本質をもっている。

 自身の内部に下降してみるとき、そのときわれわれが触れた点が深ければ深いほど、表面へ押し戻す上昇圧力は強くなる。哲学的直観とはこの接触のことである
『創造的進化2章』「哲学的直観」より

 

3 知性

 意識は、人間にあっては、何よりも知性である。思うに、意識は直観でもありえたであろうし、直観でもあるべきであった。

 直観と知性とは、意識的な働きの相反する二つの 方向をあらわす。直観は生命の方向そのものに進み、知性は逆の方向に向かう。

 完全な人間性があるとすれば、そこでは意識の二形態である知性と直観がともに十分な発達段階に達しているであろう。

 しかし、われわれの人間性においては、直観はほとんどまったく知性の犠牲になっている。

 意識は、物質の習性に自己を適応させ、物質の習性に自己のあらゆる注意を集中させている。要するに、意識は何よりも自己を知性として規定しているのだ。
  『創造的進化』2章より

  

4 哲学

 なるほど、そこには直観がある。しかし漠然としており、とりわけ非連続的である。それはほとんど消えかかったランプである。

 ときたま燃えあがっても、ほんの束の間しかつづかない。しかし、このランプは生命的関心が働くときには、燃えあがる。

 われわれの人格のうえに、自由のうえに、われわれが自然全体のなかで占める位置のうえに、われわれの起源のうえに、またおそらくはわれわれの運命のうえに、このランプはゆらめく微光を投げかける。

 微光ではあるけれども、それは、知性がわれわれを置きざりにする闇をつらぬく。

 この消え去りがちな直観、対象をたまさかにしか照らしださないこの直観を、哲学はわがものとなし、まず直観を力づけ、ついでそれを拡大し、直観をたがいに結びあわせなければならない。

 哲学がこの仕事を進めていけばいくほど、それだけいっそう、哲学は、直観が精神そのものであり、ある意味では生命そのものであることに気づく。 

 知性は、直観から浮かびでる。直観のうちに身を置いて、そこから知性に進んでいくときに、はじめて、われわれは 精神生活の統一を認識する。

 これは知性を直観のなかにふたたび吸収しようとする哲学である。なぜなら、知性から直観へ移ることは決してできないであろうからである。
  『創造的進化』3章より

  

5 知性の誤謬

 知性は外にまなざしを向け自己自身に対して自己を外的ならしめる生命である。

 知性は無機的自然の歩みを原理として採用することによって実際上この歩みを導いていく生命である。

 本能と知性は同じ一つの根源から分かれでた二つの発展である。この根源が、一方の場合には、自己に対して内的であるままにとどまり、他方の場合には、自己を外化し、ただの物質の利用に没頭する。

 知性は、科学というその作品を介して物理的作用の秘密をますます完全に明かしてくれる。

 しかし、生命については、知性は惰性的用語に言いかえたものをしか与えてくれないし、また、与えるつもりもない。

 知性は、物を扱うのにかくも巧みでありながら、ひとたび生物に触れると、たちまち自分の不器用さを暴露する。
 知性の誤謬の起源は、われわれが生命を物として取り扱い一切の実在を、いかに流動的な実在をも、まったく停止した固体の形式のもとに考えるわれわれ自身の頑迷さにある。

 われわれは非連続的なもの、不動なもの、死んだもののうちにおいてしか、くつろぎを感じない。知性は、生命についての自然的な無理解によって特徴づけられる。   『創造的進化2章』より

 

6 平面的思考

 古典的な考え方は生命を知性によって説明するので、生命の意義を不当にせばめてしまう。知性は、いっそう広大なものから切り取られたものである。

 あるいはむしろ、知性は、起伏や奥行きのある実在を、やむえず平面上に投影させたものでしかない。知性のすべての操作は幾何学を目ざしている。そこまでいってはじめて、知性はその完成を見るかのごとくである。

 古代人たちの科学は静的である。彼らの科学は「時間」を考慮に入れない。幾何学はまったく静的な科学であった。今日なお、われわれはギリシア人たちのようなしかたで 哲学している。

 動く実在の根底に不動のイデーを置くやいなや、そこからあらゆる自然学、あらゆる宇宙論、あらゆる神学が必然的に出て来る。
『創造的進化』「幾何学的秩序」
「プラトンとアリストテレス」より
 

7 動き

 時間のうちにあるすべては内的に変化する。決して同一の具体的実在が反復することはない。

 したがって、反復は抽象のなかにしかありえない。反復するのは、われわれの感覚やわれわれの知性が、実在から切りとったあれこれの相である。

 知性は反復するものに心を奪われ時間を見ることをやめてしまう。知性は流動するものを嫌い、手に触れるものをことごとく固体化させてしまう。

 われわれは真の時間を思考するのではない。われわれは真の時間を生きるのである。というのも、生命は知性の手から溢れ出るものだからである。

 生命の内的な運動をとらえなおすには、流動的なものを、役立てなければならないということを忘れている。

 知性が純粋な観照を目ざすなら、知性は運動のなかにこそ身を据えることであろう。なぜなら運動は、実在そのものだからである。     『創造的進化』より
 
  

8 自我

 知性は、区別しようとする飽くことのない願いにさいなまれて、現実に記号を置きかえあるいは記号を通してしか現実を知覚しない。

 このように屈折させられ、またまさにそのために細分化されてしまった自我は、一般の社会生活や特に言語の要求には、はるかによく応ずるものとなる。 

 それで意識はこのような自我の方が好ましいと思い、しだいに根本的自我を見失って行くのである。

 自我と外的事物との接触面の下を掘って、有機的で生命の通った知性の深みにまで多くの観念が重なり合いあるいはむしろ内的に融合しあっているのを目撃することになるであろう。

 そしてこれらの観念はひとたび分解されてしまうとお互いに排除し合って 理論的に矛盾しあう諸項という形を呈するようになる。    『時間と自由』2章より

  

9生命の根源にある意識

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・

 このような夢が覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるだろう。

 実のところ、生命は 心理的な秩序に属する。心的なものの本質は、相互に浸透しあう錯綜した多数の項を内包しているところにある。

 生命の根源にあるのは意識、いやむしろ超意識である。けれどもこの意識は、一つの創造要求であり、創造が可能であるときにしか、自己自身に対して姿をあらわさない。

 この意識は、生命が自動性に堕しているときには、眠りこんでしまう。しかし選択の可能性が蘇るやいなや、この意識は目をさます。

 自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものである。

 私たちの意識は自然的というより歴史的なものである。意識には記憶というものが必要だからである。

 単なる反応は意識ではない。意識は関係を知ることであり応答することである。
  『時間と自由』2章
  『創造的進化』3章より

   

10 イマージュ

 直観とはどんなものでしょうか。哲学者本人がそれを定式化できなかったのですから、私たちにそれができるはずはありません。しかし私たちは、具体的な直観の単純さとその翻訳である抽象概念の複雑さとの中間にあるイマージュなら、何とか把握して定着することができるかもしれません。

 このイマージュは逃げ足がはやく、本当に消えやすいものです。それはおそらく、哲学者本人も気づかないままに彼の精神に付きまとい、彼の思索の紆余曲折に沿って影のように後ろからついてくるのです。

 このイマージュは直観そのものではありませんが、しかし「説明」のために直観が頼らざるをえない必然的に記号的な概念表現よりは、ずっと直観に近いのです。

 影のようなこのイマージュをよく観察してみましょう。そうすれば影を投げかけている身体の姿勢を見分けることができるかもしれません。その姿勢を外から模倣するだけでなく、その姿の中に自分が入りこもうと努力すれば、哲学者の見たものを可能な範囲で見ることができるかもしれません。 
『哲学的直観』媒介的イマージュ

  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・のイマージュです。

 このようなイマージュが覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるかもしれません。

 イメージ画像はピカソ