純粋経験
概要
理知的な反省が加えられる以前の直接的な経験、すなわち、あとからつけ加えられた概念、解釈、連想、構成などの不純な要因をあたう限り排除することによって得られた原初的な意識状態をさす。おそらくは幼児がもつと思われる、自と他、物と心といった区別が生ずる以前の未分化で流動的な意識のことをいう。
日本大百科全書
「純粋経験」の解説より
哲学で、まだ主観・客観に分かれない根源的な直接経験をいう。ウィリアム=ジェームズにおける「意識の流れ」や、ベルグソンにおける「純粋持続」の類。また、西田幾多郎は、ジェームズらの考え方に禅体験を加味して独特のものを作りあげた。
精選版 日本国語大辞典
「純粋経験」の解説より
以下は西田幾多郎著「善の研究」の冒頭の章。読みやすく編集しています。
純粋経験/直接経験
経験するというのは事実を事実そのままに知るということです。 全く自己の細工をすてて、事実に従って知るのです。 純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交じえているから、全く思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのです。
たとえば、色を見、音を聞く瞬間、未だこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのです。それで純粋経験は直接経験と同一です。
自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もなく、知識とその対象とが全く合一しています。これが混じりけない、経験の最も純粋な状態です。
「善の研究」第1編第1章
具体的なもの
純粋経験の直接にして純粋なるゆえんは、それが単一であって分析ができないとか、瞬間的であるということにあるのではなく、それが「具体的なもの」であるということにあるのです。
(同1編1章)
実在とは
自分で自分の意識現象を直覚すること、この純粋経験の事実のほかに実在はありません。 (1編2章)
厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、 個人等の形式に拘束されるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越する直覚によりて成立するものです。また実在を直視するというも、すべて直接経験の状態においては主客の区別はありません。実在と面々相対するのです。 (1編4章)
意識の原初状態
純粋経験は事実の直覚そのままであって、意味がないといわれている。このようにいえば、純粋経験とはなんだか混沌無差別の状態であるか のように思われるかもしれないが、種々の意味とか判断と かいうものは経験そのものの差別より起るので、後者は 前者より与えられるのではない、経験はおのずから差別相をそなえたものでなければならない。
コンディヤックがいったように、我々が始めて光を見た時にはこれを見るというよりもむしろ我は光そのものである。すべて最初の感覚は小児にとりてはただちに宇宙そのものでなければならぬ。この境涯においては未だ主客の分離なく、物我一体、ただ、一事実あるのみである。 我と物と一なるがゆえに更に真理の求むべきものなく、欲望の満すべきものもない、人は神と共にあり、エデンの花園とはかくのごときものをいうのであろう。
しかるに意識の分化発展するに従い主客相対立し、物我相背き、人生ここにおいて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園はとこしえにアダムの子孫より閉ざされるようになるのである。
しかし意識はいかに分化発展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識において意志において始終この統一を求めているのである。
同 四編一章より
知識の木の実
わたしたちが知識の木の実を食べるとき、すなわち反省により意識が知識へと変わるとき、現実であったものが観念的となり、具体的であったものが抽象的になり「一」であったものが「多」となります。
ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、すべての物は互いに相対し、すべての物は対立するようになるのです。
同 四篇四章より
西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870 - 1945は、日本の哲学者。著書に『善の研究』などがある。
西田幾多郎の論理図
主観と客観とは一つの実在の両極ともいうべきものであり、相離すことのできないものである。
西田幾多郎哲学論集「場所•私と汝」の「種々の世界」より岩波p10
精神現象と物体現象とを各自独立の実在とは見ないで、具体的経験の相関的な両方向と考えるのである。直接の具体的経験は心理学者のいわゆる意識のようなものではなく、それぞれのアプリオリの上に建つ連続であって、その統一作用の方面が主観と考えられ、これに対峙する被統一的対象の方面が客観と考えられるのである。しかし真の客観的実在は連続そのものである。
同「種々の世界」より岩波p26
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