不一不異ふいちふに
仏教辞典によると、中論の不一不異は「不ニ」のことであり色即是空の「即」の意味、華厳の「相即」の意であると説明されています。
即そく
二つの異なった性質の事象が、その差異を残しつつ一体化していること。不一不異(ふいつふい)、不二、不離であることなどの意。相即ともいう。
『般若心経』の冒頭にある「色即是空、空即是色」の「即」はこの意味であり、「色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり」と読む。
(WEB版新纂浄土宗大辞典より)
差異を残しつつ一体化している、との表現がいいですね。次も基本的なことは同じようです。
円融三諦えんにゅうさんたい
「円融」はお互いに融合しているが、それぞれ立場を保ちつつ妨げになっていないこと。 「三諦」は空、仮、中の三つの真理のこと。 天台宗が説く三つの真理のことで、全てのものには実体が存在しないという「空」と、全てのものは因縁によって存在するという「仮」と、それら二つを超越して存在しているという「中」のことをいう。
さらに加えるならこれもそうです。
一如 いちにょ
仏教用語。一は不二の意味で,如は異なることがないという意。一でありながら異なるが,異なるといっても本質的に一であるということで,万有に遍在する根源的な原理である真如 (しんにょ) の説明に用いられる。
ブリタニカ国際大百科事典
仏教は日常では使わない否定形を多用するので何を言っているのかわかりにくのと、宗派により表現が異なるのが難点。
下図はテトラレンマ(論理を定式化したもの)を可視化したオイラー図。テトラレンマは肯定と否定の中間を認める論理。四句分別のことです。
下図は西洋の形式的論理の同一律。AはAである。BはBであるのオイラー図。
同一律ではAからBへの移行、あるいは関連性や連続性がうまく説明できません。
自己同一律
下は同一律と矛盾律を兼ねそなえた中論の図。読み方はAはAであり、BはBである。かつAはBでありBはAである。
この定式化A=Bを自己同一律と呼んではどうか、というのがわたしの意見。
A=Bの論理は見ての通りです。AとB、それぞれ別のものが同じであり、同じでありながら別のものであるということで、空即是色や一如と同じ論理です。
形式論理は思考中心の論理ですが仏教の論理は宗教的な内面的直覚にも対応しています。そこには形而上学的、心理学的裏付けがあるということです。
例:
梵我一如、心身一如等
アートマンとブラフマンは
一如である。A=B
梵我一如の読み方は、アートマンはアートマンであり、ブラフマンはブラフマンである。同時にアートマンはブラフマン、ブラフマンはアートマンである。
以下は不一不異の宗教的、心理的な面です。鈴木大拙の相互融合は自説である「即非の論理」を逆から表現したものです。
相互融合(con-fusion)
ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。
この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。
このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。
この「自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」
この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」(con-fusion)です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」という世界です。
ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。
そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。
これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。
アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)CDブック「大拙禅を語る」より
あなたと私
私たちの間から
あなたと私は消え去り
私は私ではなく
あなたはあなたではない。
かといって、
あなたが私なのでもない。
私は私でありながら、しかもあなた。
あなたはあなたでありながら、しかも私。
ルーミーの詩
井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」(岩波新書)のp99、全集5巻
上のルーミーの詩と読み比べて下さい。キリスト教神秘主義を代表するマイスター・エックハルトの説教からです。
わたしと彼
わたしたちが彼を知るためには、像にもよらず、介するものなしに単純直接に知らなければなりません。しかし、どのようにしてでしょうか?
彼は彼のままわたしに、
わたしはわたしのまま彼に、ならなければならないのです。
もっとはっきり言いましょう。神はわたしに、わたしは神にならなければならないのです。
エックハルト 説教83
ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。
マイスター・エックハルト (1260年頃ー1328年頃)は、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者です。
もう一度鈴木大拙にもどります。
見神体験/無分別の分別
ほんとうの見神経験または見仏経験は禅経験における見性と同じく、見即是性、性即是見で、神または仏を見る者が、すなわち神(仏) 自らでなくてはならぬ。
神(仏)は神(仏)自身を見ているということでなくてはならぬ。そうしてそこに一種の覚知がある、ただ見ているということだけでなく、見ていると知る者がある、もとよりこの知とかの見とは一物であるが、人間知識の制約として二つであるごとき言葉づかいをする、それが無分別の分別である。
鈴木大拙禅選集「禅の思想」p130
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