埼玉は讃岐(香川)に続く、日本で2位のうどん生産量。
小麦の生産量も多い(7位)のは、県の面積の多くを占める
武蔵野台地の火山灰土による。
もう一つは、ある人のお陰である。明治から大正にかけて、
麦作りの技術改良を重ね、何と麦の収量を4~5倍にした
という熊谷出身の権田愛三である。「麦の王」や「麦王」
と呼ばれる。
そんな埼玉のうどんを象徴する「山田うどん」。国道や
幹線道路でよく見かける「かかし」の看板である。東京と
関東6県に60店舗を展開する。地元埼玉がその半分。
国道6号(かすみがうら市)4/7撮影
太くてコシが強い「武蔵野うどん」は、元々山田うどん
のルーツでもあった。しかし戦後になって、うまい、安い、
早いを目指す中、ゆでた麺を袋詰めして各店舗に送るよう
にした。その過程で水分が麺の中まで染み渡り、柔らかい
麺になる。
車社会の発展に応じ、広い駐車場付きで幹線道路沿いに
店を展開する。丼物とセットで食べる時、コシの強い麺は
「疲れる」という声が多く、柔らかい麺が定着した。
一時、東京の23区内にも積極展開したが、諸般の事情で、
最近ではコロナの影響で全て撤退したと言う。
そのかわりに、居酒屋と「チョイ飲み」の中間を目指す
「うどん・酒」の提灯を下げた、「県民酒場ダウドン」の
アンテナ・ショップを出した。うん、これなら付き合える。
前段が長くなったが、水戸街道ウォーク。土浦宿本陣跡
を見た後、ちょっと寄り道は「亀城」と呼ばれる土浦城址
である。搦手門跡の標柱を見てから裁判所脇を城に向かう。
最初に潜る門は、元々は武家屋敷と町人街を仕切る門、
「前川口門」。一時は等覚寺の山門となったが、寄贈を
受けてここに納まった。
ご老人たちがゲートボールを楽しむ広場の周りの樹木を
眺めてから、櫓門から城内に入る。昔はこの土浦城近くを
流れていた桜川などの洪水で水没すると、残った陸地部分
が亀の甲に見えたことから「亀城」。
丹念に歩けばいろいろな碑などもあるだろうが、本丸
がない城跡はもう一つ迫力がない。早々に東櫓脇の霞門
から出る。
亀城の滞在はわずか15分ほど、今日は先を急ぐのだ。
小道を辿って、本陣跡から三百メートル北の城北町の
交差点で旧水戸街道に戻る。
すぐに左カーブ、右カーブと続くのは、宿の北の桝形。
更にS字のカーブの脇に北門跡の柱。南門からは1.5キロ
ほどである。
次のS字のカーブの先で新川を渡る。新川は土浦城の
外堀とも言えるが、2キロ東で霞ケ浦に注ぐ。
新川を渡る新川橋でパーカーを脱ぐ。欄干に書かれる
「真鍋宿通り」に首を傾げる。土浦宿を出て来たばかり
ではないか。
真鍋宿は間(アイ)の宿というよりも土浦宿の一部では
なかったのか。いわゆる、レベル1に対するレベル2で、
新川を越せば「楽しいよ」なんて感じ、と勝手に妄想。
家並みが途切れ、左右に伸びるサイクリングロードは、
霞ケ浦一周の「りんりんロード」の延長部分で、1987年、
国鉄分割民営化と同日に廃線になった筑波鉄道の跡。
一段高くなったところ元「新土浦駅」のプラットホーム
の跡という。
この脇に立つのが関東鉄道本社。鉄路では竜ケ崎線と
常総線だが、路線バスでは霞ケ浦一周の時、そしてこの
後の石岡ー水戸間でお世話になる。
本社には見えない簡素な佇まい。塀の社名には支店とも
営業とも書いてないから「本社」だろう。
この先で坂道になると宿場の雰囲気が出て来る。
この右手の崖の上は善応寺の墓地。善応寺は土浦城へ
送っていた、今も涸れていない「照井の井戸」があると
いう。坂の下で本堂の屋根が見えた時は「たかが井戸」
と寄る気はなかった。
地図を見ながら坂を上るうち、上り切ったところから
崖の縁を歩いて墓地に行けることがわかり、墓地経由で、
やはり善応寺に行こうと思ったのが間違い。
結局20分墓地を歩き回ったが本堂のある境内に下りる
道は見つからず、20分のロスとなる。下の写真の石段が
境内に下りるところだった。肉眼では先の手摺りが見えず、
行き止まりと判断したのが失敗。
トボトボと崖の縁を再び歩いて水戸街道に戻る。すぐに
県道125号に合流する。
県道125号脇に土浦一高、水戸一高と併せ茨城の名門。
これが耐震補強をした「一中」時代の本館で、国指定
の重要文化財と言う。
国道354号が高架で横断する手前、水戸街道は県道を
離れ右に分岐して行く。いずれも広い道だ。
続きは次回。