じんべえ時悠帖Ⅱ

「日本軍恤兵部」(その2)

 今日で敗戦(終戦)の月、八月も終わるので「抹殺された

日本軍恤兵部の正体」(押田信子著)の紹介も終わろう。

 押田氏は恤兵部について十年間も調べ続けたというから、

とにかく資料の多い本である。

 日清戦争が始まった明治27年7月、陸軍元帥の大山巌が

恤兵部創設の告示を出したが、すぐには国民からの反応が

なかった。

 そこで讀賣新聞が激を飛ばした。

  資産あるものは損財と躊躇することなく、愛国の志を

  持って、迅速に奮って義金を投じよ、恤兵の心ある者

  躊躇せず出よ。

 すると、その十日後の朝日新聞には、恤兵部を訪れる

華やかな女性たちの記事が出た。新橋、烏森、日本橋の

唄い女(メ)、いわゆる芸者たちである。続いて彼女たち

をお座敷運ぶ車夫、遊郭の女(抱き女)たちも我先に

恤兵部を訪れ、多額の献金をしたのである。

軍人、それも高級将官ほど花街に通っていた)

 続いて、爪を火に灯すようにして貯めた貧しい国民が

恤兵金を納める美談が報道されるようになる。

  工場に頼みて夜業をこなし日々七銭ずつ積み立て

  金三円になりしかば、村役場を経てその筋へ献金

  願い出でたる・・・

 当時と今の貨幣価値の差は、著者の資料によれば

5千~2万倍。中間の1万倍とすると三円は三万円。


 日清戦争を契機として新聞の購読が増えたと言う。

徴兵制によって我が子を戦地に送り出した銃後の家族が

何とか戦況を知ろうとしたためである。

 この新聞が、政府、軍と共に「貧者の一燈」などと

この恤兵熱を盛り上げて行くわけである

 日清戦争での恤兵金は陸軍、海軍併せて約三百万円。

現在価値では三百億円という膨大な金額である。他に

恤兵品も数万点に上った。


 この恤兵部は、戦争が終わると一旦閉鎖となり、次の

日露戦争、日中戦争でそれぞれ再開される。そのたびに

「恤兵」は国民的大行事へと進化?して行くのである。

 実は、この部分がこの本の多くを占めるが、割愛する。


 昭和19年、本土が爆撃され始めると、新聞に「恤兵」の

記事は一切なくなり、昭和21年に占領軍(GHQ)により

恤兵金の凍結が通告された。

 昭和22年10月、戦後初の国会で恤兵金の処理についての

疑義が出たのを最後に、この国に「恤兵」の文字は消えた

のである。私が生まれて一か月後のことであった。

 

 最後に、恤兵部を創設した大山巌が好きだったと言う軍歌

「雪の進軍」の四番を紹介しよう。日清戦争に軍楽隊次長

として従軍した永井建子の作詞作曲である。


    四 命捧げて出て来た身故

      死ぬる覚悟で 吶喊すれど

      武運拙く 討死にせねば

      義理にかられた 恤兵真綿

      そろりそろりと 頸しめかかる

      どうせ生かして 還さぬつもり


 八か月続いた日清戦争の動員された兵数は延べ24万人。

戦没者1万3千余人の何と九割が病死だった。それほど

戦地である清と朝鮮半島の衛生面など環境が悪かった。

 歌詞の中の「恤兵真綿」は、恤兵品(慰問品)として

兵士に送られた防寒用の真綿である。郷里から贈られた

その真綿さえ慰めにもならず、かえって苦しいだけと、

兵士の本音が詠われる。

 それ故、太平洋戦争では「意気を削ぐ」と歌唱禁止歌

になった。

      

 今日は随分遅くなったので、南越谷阿波踊りの舞台踊り

の続きの写真は順延とする。

  

 

 






 


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コメント一覧

jinbei1947
父は精工舎で計器を作っていましたが、
伯父や叔父たちが戦地に行っていました。
しかし、皆が皆、口は重かったですね。
ykoma1949
私は話でしか聞いたことはありませんでしたが
父親が第二次大戦の兵士でその戦争について
よく話してくれました。 いつもお酒を呑み
乍らの話ですから確証はありませんが・・
いつかそんな話の一部でも・・アップしてみたい
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