三菱電機の「汎用電動機」と呼ばれるモーターは極めて
信頼性が高く、工場の設備部門にいた時は、大小合わせて
相当数を購入して使っていた。
屋外では風雪に耐え続け、屋内では塵埃にまみれながら
永年様々な機械を回し続ける優れものである。
その三菱電機の不正が続出している。不正の総点検でも
永年の「上にものを言えない」体質が露出したという。
第三者調査会が「日本のものづくりの根幹をを揺るがす
大問題である」と指摘するのも尤もである。
さて、日光街道ウォーク。埼玉県内はあと幸手(サッテ)、
栗橋と2宿となった。一気にと思ったが朝方ドタバタし、
出発が遅れ幸手宿だけとして、のんびりと歩いた。
前日は強風のため順延したが、今日もまだ強い北風が
残る。「天気晴朗なれど風強し」である。東武線の杉戸
高野台から国道4号に出たところがもう幸手町である。
その国道4号と別れ、東武線を渡り圏央道を潜る。
その先で突き当たるところが日光御成街道との「追分」。
右に折れる日光街道に左から御成街道が合流する。参考に
している先達の歩行記では「ベルク」前となっているが、
今は「TAIRAYA」平屋?というスーパーに変わっている。
右折して間もなく、今日最初の寺社仏閣は「神宮寺」。
門を閉ざした極めて簡素なお寺さんだが、鷲尾山誓願院と
いう山号院号は源頼朝の所縁。
奥州討伐の途中で逃げた鷲を追い、この寺の堂守の祈り
で無事頼朝の肩に戻ったという故事に因む。参道の両側は
夥しい数の石塔石仏類で埋まる。
参道に入った時に挨拶した右手民家の老婦人、戻りには
お地蔵さんに赤い帽子を掛けている。冬になったから布製
から毛糸製に代えているという。
確かに寒そうな頭である。背伸びしてする作業を労って
別れると、背中に「お気を付けて」と返る。ロンリーウォ
ーカーには嬉しい一言である。
再び東武日光線の踏切を渡ると「志手橋」に出る。下は
倉松川。ここが幸手宿の入口である。このあたりを開発した
新井右馬之介(ウマノスケ)に因み、このあたりは右馬之介町。
志手橋を渡ってすぐ神明神社。江戸中期に伊勢皇大神宮を
分霊し祀った神社。江戸時代はここに高札場があったという。
境内にある菅谷(スガタニ)不動尊は、タニシを描いた絵馬を
奉納すると御利益があるとされ「たにし不動尊」と呼ばれる。
鳥居の裏の四角い石は上の燈籠が壊れた残り物だが「不」
に意味がある。明治のはじめイギリス式の測量が導入され、
東京・塩竃間の水準測量が行われた。
不は「几(キ)号高低標」と呼ばれる。不の「ー」は水平線、
下は測量機の脚を意味するという。うーん、旅は勉強である。
この先が幸手駅入口の交差点。左へ200メートルほどの
幸手駅は桜の名所「権現堂堤」の最寄り駅。「幸せの手」
なので切符に人気がある。
この先がいよいよ幸手宿の中心部、続きは次回である。