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南中国海問題に関する真相は永遠に1つのみ

2016-05-27 09:17:08 | 領海・領土・領空・EEZ

南中国海問題に関する真相は永遠に1つのみ

人民網日本語版 2016年05月25日14:34
 

フィリピンは2013年1月に国連海洋法条約附属書7に基づく強制仲裁を一方的に申し立てた

南中国海で中国が有する歴史的権利の否定がその核心的な訴訟 要請の1つだ。

歴史的権利は南中国海諸島及び関係海域における中国の長年の歴史的実践により形成された航行、漁、行政管制などの権利であり、

強固な歴史的 事実を支えとし、確実な歴史的証拠を有する

一方フィリピン側は訴訟目的を達成するため、恥知らずなでたらめをでっち上げることを辞さず、全く検証に耐え られず、

全く成立し得ない一連の歴史証拠を入念にでっち上げた。(人民日報「鐘声」国際論評)

その手段を注意深く分析すると、以下の特徴がある。

(1)自己矛盾。領土主権問題は国連海洋法条約の解釈または適用の対象ではないが、フィリピン側は自らの仲裁請求に入念に装飾を施し、

仲裁要請が島・礁の 主権とは無関係であるよう見せかけようとした。

だが証拠をまとめる際には、悪だくみをひそかに混ぜ込み、

南中国海諸島を最も早く発見、命名し、長年開発・ 利用し、行政管轄を持続的・平和的・有効に行使したという中国の整った証拠のチェーンを顧みず、

「中国の領土範囲の最南端は海南島を超えない」「1933 年になって初めて南中国海の島・礁に対する領有権を主張した」「中国は南中国海諸島に対

して管轄を行使してこなかった」などと度々強調した。

(2)都合の良い部分だけを断片的に引用。

フィリピン側は文書証拠を使用する際、繰り返し全文の意図を隠し、自国の立場を支持しうる片言隻語のみを切り 取った。

例えば「1937年の中国政府の文書は西沙(英語名パラセル)諸島が中国領土の最南端だと確認している」。

フィリピン側が採用した1937年の国 防委員会秘書処の同文書の該当する部分は実際には「現在の地理学者は中国国境の最南端を西沙諸島のトリト

ン島(つまり中国の中建島)と言っているが、わが 国の南方への発展の歴史を一考すると、この海南九島も中国の領有に属すようだ……」。

実際、今日まで伝わる歴史文献、中国宋代以来の地方誌、明代以来の地 図は、「石塘」「長沙」をすでに中国国土の範囲に明確に組み込んでいる。

(3)入念な隠蔽。

中国に有利な数多くの歴史的証拠を前に、フィリピン側は選択的に目をつむった。

例えば「1947年以前、中国は南沙諸島に対して名称を つけなかった」「中国は南中国海の航行時、南沙諸島近くの危険区域を工夫して避けた」と主

張。

このためフィリピン側は明・清以来、中国の漁師が南沙海域で 操業し、すでに南沙諸島の主となっていた歴史的事実を入念に隠蔽したが、

この事実は複数の版本のある『更路簿』で証明できる。「南中国海の危険海域」への 航行指南として、

『更路簿』は西沙、南沙へ漁に行く際の航行の方向と距離を精確に記述し、西沙の伝統的地名30余り、南沙の伝統的地名70余りに言及して いる。

(4)一部をもって全体を論じ、誤った結論を引き出す。

フィリピン側は南中国海諸島に対して中国が主権を有することを認める他国の地図はないとした。

だが 第2次大戦後の他国の数多くの地図、百科事典、新聞、雑誌などは南中国海諸島に対して中国が主権を有することを認めている。

これにはかつて中国の南沙島・ 礁を侵略・占領したフランスと日本も含まれる。

(5)ひそかにすり替えて騙す。

中国と「歴史」を争うため、フィリピン側はベトナムの黄沙、長沙を中国の西沙、南沙とごっちゃにし、

フィリピン近海の砂浜 Panacotを中国の黄岩島(スカボロー礁)とごっちゃにする見解を入念に選択し、

「ベトナムが最も早く西沙に対して行政管轄を施行し、最も早く西沙、 南沙を版図に描き入れた」「黄岩島は18世紀前半にすでにフィリピンの地図に描

き入れられた」と主張した。

これに関する手段と過程に対して、韓振華、李金 明、李孝聡等中国の学者はとっくに考証と反論を行なっている。

(6)「1つの中国」を分断。

フィリピン側は法廷尋問の際に、なんと「1949年から中華人民共和国政府のみが中国を代表している。

したがって、1949 年以前の中華民国政府の行為は中国に帰すことができるが、

1949年以降の台湾当局の活動は本質的にもう中国には帰さない」と主張した。

フィリピン側は中 比国交樹立声明における「1つの中国しかなく、台湾は中国の領土の不可分の一部であるという中華人民共和国政府の立場を十分

理解し、尊重する」との厳粛な 約束に公然と背き、1949年の中華人民共和国成立後、中国の台湾側の行為も中国に属すことを否定し、

実質的に「1つの中国、1つの台湾」を主張し、「中 国は1988年になって初めて南沙で実際のプレゼンスを築いた」などの論点を打ち出した。

台湾側は1950年から短期間南沙・太平島から撤退したが、 1956年にフィリピン側が「クロマ」事件を引き起こして意図的に中国の南沙諸島の一部

島・礁を侵略・占領したため、直ちに戻り、以降長年にわたり駐屯 し、南沙海域で定期巡航、民事開発を行なっている。

(7)少数の研究を客観的事実とする。

フィリピンは東南アジア諸国、欧米植民地国家が11世紀以前と植民地時代における南中国海の開発、管轄に果たした役 割を論証する際に、

有力な証拠を示すことができず、客観的事実を顧みず、少数の学者の見解を選択的に用い、こうした国々の役割を誇張することしかできな かった。

だが、これによって南中国海を往来した各国の航海者による忠実な記録を帳消しにすることも、南中国海海底に沈む歴代中国の沈没船が残した痕跡

をぬ ぐい去ることもできない。

フィリピン側がその嘘にどれほど華美な仮面をかぶせて、中国の政府と人々が南中国海の歴史に刻んだ深い痕跡を覆い隠して、

世界の人々を騙そうとしても、中 国が歴史的事実に基づき南中国海で有する主権と権益は抹消できず、

真相は永遠に1つのみであり、正義は永遠に姿を消すことがない。(編集NA)