大学生を問題視する本を何冊か読んだ気がする。「分数ができない大学生」などいろいろな形で大学生の学力批判、あるいは日本の教育批判の文章が山ほどある。「名ばかりの大学生」ー日本型教育制度の終焉ー河本敏浩。この本も以前読んだ気がしたが、もう一度読んでみて、初めて読む本であることに気がついた。
日本という国の地盤沈下がよく言われるが、はっきり言って「教育」の失敗が大きな原因の一つとなっていることは確かだ。明治以降日本の近代化を支えたのは教育であり、格差を超えて優秀な人材が発掘されたのが日本の教育制度であったと思う。貧乏な子供の家でも優秀であれば、東大にも旧帝大にも入学できた。小学校出(小卒)の両親から大学入学の子供がいることは珍しくなかった。格差はあったが、中学入学時で教育格差が歴然という時代ではなかった。がんばれば日本を支える人材への道はあったと思う。
この本のなかで2つの事実に驚いた。一つは、教育格差の驚くべき事実。国語の問題で、中学入試問題と大学入試問題が同じ問題・レベルであること。女子中学の名門である「桜蔭中学校」の問題と国立の和歌山大学の入試が同レベル、否、解答の難しさは桜蔭中学が上だえるという事実。ただし、桜蔭中学の1982年と2006年の問題ではレベルの差が明白で、1982年の問題では、難解とは言えず、1990年以降東大入学者や医学部合格者を輩出した以降、難解な問題の出題となっている。この2006年レベルの問題を解くのに小学生がどれほど勉強しなくてはならないか、どれほどの教育資金をつぎ込まなくてはならないか考えなくてはならない。
高校受験の塾講師として、中学受験の高額さに驚いたことがある。地方の優秀な公立高校進学への塾の授業料は中3で平均月3万円程度であったが、地方の私立中学受験には、5万~10万ほどの塾費が必要で、中学受験の塾がしっかり稼いでいることが羨ましかった。しかし、東京では、塾費月額10万円、入試直前では家庭教師代月額10万円が必要となると聞いた。その家庭の1か月の収入はいくらなんだろうか想像してしまう。
この時点で普通の家庭では「勝てない」ー 教育格差に絶望せざるを得ない。大学の授業料も、私の時代では国立大学の授業料は、年間2万円台、私立で10万円程度であった。現在は、年間60万円、4年で200万円以上。私立大学では、4年間で最低でも300万円、5~600万円の授業料も珍しくなく、さらに子供が3人、4人となると考え込んでしまう夫婦の存在が目に浮かぶ。
そこで終わらない。東京大学の1970年の英語入試問題と2008年の英語の問題を比較してみるとその難しさが群をぬいている。2008年の問題が、難易度も問題量も圧倒的に上となっている。大学が入りやすいのではない。トップ校の入学には、過酷な競争が待っている。あるいは、小学生からの準備しなければトップ校の合格は難しいという現実が待っている。幼い子供の時代から教育格差が歴然としている。
過酷な受験勉強を勝ち抜く勝者は、10年近く勉強に打ち込むことになる。では、敗者はどうなるのか。昔は、浪人すれば、2ランクも3ランクも上の大学に合格できたが、現在は、1年でランクを上げるのは、不可能に近くなっている。相手は、6年も7年も勉強しているわけだから。
ならば、普通の大学は、というと勉強しなくても合格できる大学が日本に数多く存在する。いわゆる合格偏差値F値の大学である。F値とは偏差値がない、つまり誰でも入学できる大学で、その学力は、昔の暴走族の学力と同じとこの本では断言している。名ばかりの大学生の存在だ。中3生の英語も数学も得点力が30%以下、数学図形問題では、3%以下の得点しかできない。
だが、問題は、もう一つ別のところにもある。
日本では、必死に勉強しても何も勉強せずとも大学に入学できるのだが、世界的に見て、入学すれば、だれでも卒業できる大学は、日本だけであるという点だ。アメリカで中退率が50%、ヨーロッパで30%、日本は、10%程度である。
何も勉強せずに卒業することのできる日本という国。
大学入学は、難しくないが、しっかりと大学の勉強をしなければ卒業できない国
どちらに大学の存在意義があるだろうか。経済学部をでても経済学部の基礎も知らずに卒業できる大学に何の意味があるのだろうか。ここに日本の教育の問題と世界に後れを取り始めた日本の大きな問題点のひとつがあるのではないだろうか。
<主夫の作る夕食>
鮭がじょうずに焼けた。高いシャケはうまい。チジミは今一歩。
我らの大学時代